「思い出せない約束」



 檻の中を、つまらなそうな顔をしたアライグマが、まるでそれが規則だとでもいうようにぐるぐると
歩き回っていた。
 歩き続ければ、いつか檻の外に出られる秘密の扉が開くのだと思っているかのように。
 檻に張り巡らされたフェンスをつかみ、その様子をペルはじっと見つめていた。
 自由を奪われ、遠い昔に仲間からも引き離されたこのアライグマは、一体何をおもっているのだろう。
 ペルの横に立った親子連れが、アライグマを見下ろし声を上げる。
「動物園なんて、臭くてヤダ」
「どうして? 動物さんたち、かわいいでしょ?」
「うさぎさんや、ポニーは楽しいけど、アライグマなんて好きじゃないし。ちっちゃいタヌキみたいじ
ゃん。かわいくない」
「そんな事言わないの。アライグマさん、悲しいって泣いちゃうよ」
「泣くもんか。ぼくの言葉なんて分からないもん」
 小さな男の子はそう言うと、アライグマの檻から離れてどこかに向って走っていく。
「リチャード。待って。ママを置いていかないで」
 男の子の妹だろう、まだ生まれて間もない赤子を抱いた母親が叫ぶ。
 そうして目のあったペルに困った顔で笑いかける。
「ほんと、やんちゃで困っちゃうわ。男の子は元気に溢れてて」
 母親はそういうと、先で「ママ、早くおいで」と叫んでいる息子のもとへと歩いていく。
 ペルは、一秒でもじっとしていられないと、その場でジャンプを続けている男の子を、笑みを浮かべ
て見つめた。
 自分の産んだ子は、今はどのくらいになったのだろう。
 〈エデン〉の時間の進みは早い。もう、一歳を迎えて歩き出そうという頃になっているだろうか?
 ペルは再び檻に目を向け、歩き続けるアライグマに語りかけた。
「いつからここにいるの? 君は今何歳? わたしね、昔ここにきたことがあるみたいなの。会った事
あるのかな? もう十年以上も前の話だから、君はきっと知らないね。わたし、お母さんと来たんだ。
覚えてないけどね」
 ペルはつぶやくと、ショルダーバックの中から、ローズマリーの日記を取り出した。
 その中に、この動物園での出来事が記されていたのだ。
 なぜペルを手離すことになったのか、その心境も、包み隠さず。
 

9月1日

 ペルを義姉さんの子どもにしてもらってから、もう半年になる。
 カルロスはわたしの居所を突き止め、自分の研究所で働かないかと言ってきた。
 わたしが育休を理由に前の職場を止めさせられていることまで突き止めて。
 カルロスは、わたしがあの授精卵を奪ったことを確信している。
 だからこそ、君が産んだ娘はどこにいるんだ? と聞いてきたのだ。わたしは一言も、娘を産んだな
どとは言っていないのに。女の子が生まれたのは確定している事実だといいたげに。
 わたしが養子に出したと言っておいたが、きっと彼のことだ、執念深くペルの行方を追うだろう。ジ
ャスティスとレイリには本当のことを話して、協力してもらえるように頼んだ。
 なんとしても、ペルの身を、カルロスに渡すわけにはいかない。
 だから、どんなに会いたくても、会いに行くことはできないのだ。カルロスはわたしにも監視をつけ
ているのだから。
 ペルがいなくなって、もうたいしてあげてもいなかったおっぱいが、急に張って痛みだすことがる。
 ペルがいない事実が、受け入れられない。
 そう叫んでいるように。


10月22日。
 
 今日、久しぶりにペルに会った。
 義姉さんたちには悪いことをしたと思う。黙って連れ出してしまったのだから。
 警察に通報するところだったと、姉の夫には怒鳴られた。
 もうこの子は我々の本当の子どもなのだ。あなたは関係がないんだと。
 ありがたい言葉だ。わたしの胸には痛いだけの言葉ではあったとしても。
 ペルと近所の小さな動物園に行った。
 赤い風船を買ってやると、風船と同じように赤く染まったほっぺに零れ落ちそうなほどの笑顔を見せ
てくれた。
 ドーナツを食べて口を砂糖まみれにした真剣な顔も、一緒にタイムカプセルを埋めた時の好奇心で目
を輝かせた顔も、今も目の前にあるかのようにしっかりと見えている。
 いつの日か、大きくなったペルとあのタイムカプセルを掘り出せることが来るのだろうか?
 いや、来ない方がいいのだ。
 カルロスの手から永遠に離れたところで、ペルが幸せになってくれるなら。
 わたしが母である権利を放棄し、その心も捨てる方が、ペルには安全なのだ。
 もう日記も書くのをやめる。ここには全て真実を書いてきた。
 カルロスに見つかれば、恐ろしいことになる。
 これは誰にも見つからないように、鍵を掛けて隠しておくことにする。


「タイムカプセルか」
 ペルは昔記憶の底に眠っていた、赤い風船を持って歩いている自分を見たことがあった。
 やはりあの時、自分の手を取って歩いていたのは、ローズマリーだったのだ。
 その時のローズマリーの顔を思い出せたらと思う。きっとペルの知らない、優しい母親の顔だったの
だろうから。
 だが、幼い自分が見上げた、手をつないでいる女性の顔はいつも強い太陽光を背にしたように、黒い
影に覆われているのだ。
「いったいどこに埋めたのかな?」
 日記に埋めた場所に関する記述はない。
 だいたい、なぜタイムカプセルだったのか?
 そのとき、園内のゴミを拾い歩く従業員なのだろう、老人がペルの前を通った。
 動物園には似つかわしくない、深刻な表情のペルを見て、それから笑みを浮かべて会釈をしてくれる。
 それに会釈を返しながら、ふと思った疑問を口にした。
「すいません。あの」
「何か?」
 老人は地面に落ちていたソフトクリームの包み紙を摘まんでゴミ箱に入れると、ペルに穏やかに言っ
た。
「ここで、昔タイムカプセルを埋めたんです」
「ああ、16年ぐらい前のことだね」
 老人は懐かしそうに言うと、園内の中央に立つ大きな木を指差した。
「あの木が見えるだろ。あれは桜の木なんだ。16年前に移植されたんだ。その記念にね、根元にみん
なでタイムカプセルを埋める企画を立てたんだ。たくさんの人が参加してくれたよ。お嬢ちゃんも、そ
のときの参加者なんだね」
 ペルはうなずくと、手にしていた日記を老人の前に差し出していった。
「ここに、母と来たって書いてあるんです。でも、わたし覚えなくて」
「そう。それでお母さんは?」
「昨年、亡くなりました」
「ああ。………それは気の毒に。……それでタイムカプセルを掘り起こそうと?」
「……わかりません。掘り起こしていいものか、どうか」
 老人はじっとペルを見守るように口をつぐむと、木の葉が風に立てるささやきに耳を傾けているよう
に、じっと桜の木を見つめた。
「もし、掘り起こしたいのなら、埋めた場所の記録があるか見てあげよう。決心がついたら、あの小屋
においで」
 老人はじっと日記をみつめるペルにうなずくと、箒とちりとりを持って歩き去っていった。
 ずっと、ペルはローズマリーの自分への愛情を、なくて当たり前のものといて生きてきた。いや、そ
う思わないと、やっていけなかったから、そう思い込もうとしてきたのだ。
 子どもながらに身につけた、自衛のための詭弁だ。
 その防衛の気持ちが、今でもペルの中でブレーキを掛け続けているのだ。
 一歩を踏み出す勇気に、待ったをかける。
 もう、ペルにも分かっているのだ。
 ローズマリーはペルを心の底から愛してくれていた。
 だからこそ、愛情がない振りを続けてきてくれたのだ。
 カルロスから救うために。
 今は日記も手元にある。はっきりとペルを気にかけ、愛情を注げない苛立ちまで書き込まれた日記が。
 だが、どこかでそれを受け入れることを拒む自分がいた。
 心の底から信じて、その愛情に身をゆだねることができない。
「……甘えるのが、下手なのかな?」
 スイレイにも、何度もっと自分に頼って欲しいと言われたことか。
 みんなに愛され、大事にされていることは分かっている。でも、その中に飛び込み、その愛情にどっ
ぷりと浸ることができない。
 温かい湯の張られた湯船を見ながら、その中に身を沈めることができないようなものだ。温かそうだ
と、じっとそこから立ち上る湯気に温かさを想像しつつ、近づけず、身をもって触れることもしない。
 それが、あまりに心地よいことが分かるからだ。
 きっともう、そこから出ることができなくなる。また失うかもしれないことに、恐怖が先に立つ。
 でも、いつまでもこんな自分でいることは嫌だった。
 自分からは愛情の手を取らないくせに、もの欲しそうに見つめ続ける臆病な自分ではいたくない。
 ペルは携帯電話を取り出すと、迷う自分に目をつぶり、通話ボタンを押した。
「スイレイ。今、動物園にいるの。お母さんと埋めたタイムカプセルを掘り起こしたいの。一緒にいて。
お願い」
                                        

                                                      

back / top / アナザ目次 / next /
inserted by FC2 system