「思い出せない約束」



 逞しく腕まくりしたジュリアが、ダンボールを抱えてペルの前を行く。
 そしてペルも、エプロンにバンダナを被ったスタイルで、台所用品と黒字で書かれたダンボールを持
って階段を上がっていた。
 入った家の中では、引越しの途中の喧騒が溢れ、重たい洋服ダンスをスイレイとジャスティスが担っ
て運んでいくところだった。
 台所ではレイリおばさんが完全防備のマスク姿とゴム手袋のスタイルで、せっせと掃除をしていた。
「ペルの荷物なんて少ないものだと思ったのに、運び出すとなると、なかなか大量にあるものね」
「本当。わたしもびっくり」
「5年をわたしたちと一緒に過ごしたんだもの。その間に荷物が増えてなかったとしたら、わたしが悲しいわ」
 台所から聞きつけたレイリが口を挟む。
 「レイリおばさんのそのスタイルも、なかなか似合ってる」
 そのジュリアの言葉に、楽しそうにレイリが両手のぞうきんと洗剤を持ち上げてみせる。
 大学進学を機に、ペルがカルロス家を出ることになったのだ。
 遺産として相続していたローズマリーの家が、これからペルが一人で住むことになるお城だった。
 少しづつジュリアと一緒に片付けては、ほとんど装飾らしいものの無かった部屋に、二人で夢のイン
テリアで溢れた部屋を計画して、改造を加えてきたのだった。
 この家には、ちゃっかりジュリアの部屋まであるのだった。
「ローズマリーの部屋はどうしたの?」
 ガスレンジ磨きを終えたレイリが額の汗を噴きながら、本を並べはじめたペルに声をかける。
「実はまだ手付かずなんです。写真とかちゃんとアルバムに入れて管理してなくて、引き出しに入りっ
ぱなしだったりして」
「そう」
 レイリが思案顔で腕を組む。そして背後を振り返って開いた空箱をいくつか手に取ると、ペルに言っ
た。
「嫌でなければ、仕分けだけはしておくけど。これでもローズマリーの親友だったから、彼女が隠して
いたことも、わたしは知ってるつもりだから」
 ペルはレイリに頷く。
 レイリと死んだローズマリーに間にどんな友情があったのかは知る由もない。親しく話をしている姿
も見たことはない。
 だが二人の間には、普通を越えた結びつきあるのは、ペルにも分かっていた。
「お願いします」
 レイリが笑顔で頷き返すと、ローズマリーの部屋へと入っていく。
 その後につきて、ジャスティスも興味津々で姉の部屋へと入っていく。
「マリーおばさんの私物って、なんか秘密の匂いがするよね」
 二人で選んで買ってきたグリーンのカーテンにフックをつけながら、ジュリアが言う。
「そう? 確かに存在自体が謎にみちた人間だったからね」
 過去を思い返すように遠い目でいうペルに、ジュリアが少し悲しそうに笑う。
「よく理解できないうちに、いなくなっちゃたからね」
「そうだね。でも、わずかに知っているなかから、ジグソーパズルみたいにお母さんの片鱗を繋ぎ合わ
せて、その本当の姿を解明していくのも、楽しい作業かなって思ってる」
 再び本をしまう作業を始めながら、ペルが笑顔で言う。
「そっか。そうだね。だったら今度、マリーおばさんについての討論会とかしちゃうか」
 いい思い付きと、ジュリアが顔を輝かせる。
「悪口大会にならなきゃいいけど」
 そのときスイレイが横から口を挟む。
「スイレイも参加する?」
 ペルが振り返って聞く。
 だがそれをジュリアが阻止するように、スイレイとペルの間に立ちはだかる。
「ダメ、ダメ。女には様々な情報を統合して新たな姿を浮き彫りにする能力があるけど、男なんて頭が
硬くて見たまんまのことしか考えられないんだから」
「冷静な判断ができると言って欲しいね」
「冷静な判断なんて、いらないの。柔軟な想像性と、情報の統合能力が必要なんだから」
 顔をつき合わせて言い合う二人に、ペルが苦笑を浮かべる。
「そんなに二人してお母さんのことを話し合いたいと思ってくれてるなんて、お母さんがここにいたら
びっくりするんじゃない。っていうか、余計なことしないでもらえる、って腰に手を当てて見下ろされ
そうだけど」
 そのペルの言葉に、ジュリアとスイレイが二人して同じ映像を想像し、口を閉ざした。
「本当、言いそう」
 ジュリアがつぶやくと、ペルが声を上げて笑う。
「ね、そうでしょう」
 ジュリアはローズマリーのものまねをしてみせるにいたっては、三人で声を上げて笑う。
 その三人の横に、ジャスティスが一冊の手帳を持って現れた。
「おい、ペル。これ。懐かしいものが見つかったよ」
 ジャスティスが満面の笑みで、少し埃で白っぽくなった皮張りの手帳を差し出す。
「……これは?」
 それを受け取りながら、ペルがノートを開く。
「姉さんの育児日記。ペルが小さいころに毎日つけてたの見てたんだ」
「わたしの育児日記?」
 ペルは手帳を開きながら、そこに並んだローズマリーの尖った、だが意外に繊細な文字を読んで言っ
た。
「本当だ。わたしが生まれる前から書いてる」
「マリーおばさんを紐解く、キーアイテム登場ね」
 ジュリアがペルの横で囁いた。


 シャワーを浴び終えたペルは真新しいベットカバーをかけたベットの上に飛跳ねるようにして飛び込
み、大きく吐息をついた。
 泊まっていきたいけど明日、大学の実習があるからと名残惜しそうに返っていったジュリアの顔と、
代わりに泊まっていけばと冷やかし、スイレイとジャスティスに頭を小突かれていた姿を思い出して、
思わず一人笑みを浮かべる。
 スイレイとの仲は、友達としは今までどおりになっていたが、もちろん恋人としての仲はあるかなし
か、という微妙な線をたどっていた。
 誰よりも心の底から信頼し、愛している相手ではあるが、決して越えてはならない一線は痛いほどに
分かっていた。
 触れ合いたいと思うことがないわけではないが、その先にあるものが、快いものばかりではないこと
は、すでに痛いほどに知っていた。
 だからつかず離れずの関係を維持しているのだった。
 二人きりで会うことは、どちらが言い出したということもなく、今のところしないようにしていた。
 見慣れない天井を見上げてホッとため息をつく。
 母であるローズマリーと過ごしていたときを含め、この家にはあまりいい想い出がない。
 子どもの頃の、愛されたくてたまらないのに、冷たい顔しかみせてくれない叔母に悲嘆だけにくれて
いた日々と、スイレイとの関係が破綻して逃げ込んだときの死にそうな思いを抱えていたときを過ごし
た家。
 だが、今はここが自分を温かく迎えてくれる家だった。
 そして、きっと目には見えなかったが、ローズマリーが自分を思いながら過ごしてくれた家なのだ。
 ペルは枕もとに置いておいた手帳を手に取ると、ずっしりとした重量を伝えてくる表紙をみつめた。
 黒い皮の何の変哲もない手帳。
 だがその中には、自分が忘れているローズマリーと自分の日々が書き込まれているのだ。
 そっと黄ばんだ手帳の1ページを開く。
 乾いた音とともに、昔を思わせる埃の匂いが漂った。
 

      3月11日
 
 ペルを連れて家に戻る。
 ジャスティスがしばらく一緒に世話をしてくれるという。こき使ってやる。

      3月12日
 
 ペル、死にかける。
 ミルクの後にゲップをさせるのを忘れて、気がついたら顔中をゲロまみれにして寝ているのを発見。
 ジャスティスに怒られる。

 綴られている淡々とした文字の中にある自分の死にかけた記録に、思わずペルはウッと息をつめた。
「……わたし、生後数週間で、死にかけたんだ」
 そしてこの時代から、ジャスティスには世話になっていたらしいことを知り、今まで以上に叔父への
感謝を深めるのであった。


      3月26日

 ペルが風邪をひいて熱を出す。(38.6℃)
 ぐったりしていてミルクを飲まない。
 一晩中抱いていないとぐずって眠らない。


      3月27日

 ジャスティスが点滴をしてくれて、ペルの熱が下がる。
 ペルがやっとミルクを飲む。一安心。


 その僅かな記述の中に、ローズマリーの一喜一憂が見えているような気がした。
 はじめて手にした小さく弱々しい命に、あたふたし、医師免許があっても自分の子供には気持ちが動
転し、慌てふためく。
 そして自分の腕の中で僅かにでも元気をとりも出したことに、喜びの笑みを漏らす。
「……お母さん……」
 たとえ愛情がなかったとしても、自分を育てるために悪戦苦闘してくれていた姿が容易に想像できた。
 あまりに子どもの世話には慣れていないローズマリーが、赤ん坊の自分を育て上げたのだ。
 そこに並々ならぬ努力があったのは明らかだった。


      4月6日

ペルをお風呂で落としてしまう。
 ガーゼのお包みで包んでお風呂に入れていたのだが、ガーゼがお湯で広がった瞬間に、あわわわわと
暴れ出したペルにびっくりして落としてしまった。
 目を空いたまま底まで沈んでいったのを、リアルに覚えている。
 このことがトラウマにならなければ、もしかしたら、水泳の選手になれるかもしれない。
 見事な潜水だった。


「…………」
 ペルは呑気なローズマリーの記述に言葉をなくす。
 ペルが唯一得意なスポーツが水泳だった。
 球技にしても陸上競技のような身一つでできるものにしても、なにをどうしたらいいのかが分からな
いのに対して、水泳だけは、どうしたら早く泳げるのかも、長く泳いでいられるのかも自然と分かった
のだ。
 水をえた魚のようにといった言葉がそのままであるように。
 どうやらその感覚を体得したのは、ローズマリーの功績のようだ。


      6月20日


ペル便秘で困る。
顔を真っ赤にして力を入れても出ないことを訴えて泣き通す。
仕方ないので、ベビーオイルで柔らかくしてから、指で掘り返す。
ウサギのうんちのような硬くなった便が結構出た。
すっきりしたのか、ごきげんで笑っていた。


「………ありがとう、お母さん」


      8月11日

 仕事を再開して疲れていたために、夜の授乳中に眠ってしまった。
 気がついたら胸でペルの顔が圧迫され、呼吸困難でチアノーゼを起す。
 偶然ジャスティスが遊びに来ていたので、助かった。
 小さな口を覆って人工呼吸を繰り返す姿に、思わず手に汗を握ってしまった。
 息を吹き返して泣いてくれた瞬間には、安堵して不覚にも泣けてしまった。
 生まれて二度目の死にそうになる事件だった。


 ペルは思わず手帳から顔を上げると、ほとほと育児には向かなかったらしいローズマリーの元で、自
分がよく無事に育ったものだと、少し恐ろしい思いもするのだった。
「わたしって結構頑丈にできてるのかな? 死にそうで死なないなんて」
 苦笑交じりで言いながら、先のページをペラペラとめくる。
 この先何度、自分は死にかけるのだろうと、怖さと好奇心がわく。
 だが目に入った言葉に思わず顔がほころぶ。


      2月30日


 ペルがはじめて喋った。
「ママ」だった。
 ジャスティスは「マンマ」だと言ったが、絶対に「ママ」だった。
 ペルは天才。
 ちゃんとわたしがママだと分かっている。

                                                      

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