「湯気の香りと色に涙」・前編

      
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 カーテンの向こうはまだ真っ暗。鳥の声だってまだ聞こえない。ということは、早起きの小鳥だって まだ寝ている時間なのだ。  でも階下からはすでに仕事を始めた音が聞こえてくる。  トントンとかゴーゴーとか、元気に一日を始めた音。うるさいとは思わない。その音はまるで踊りを 踊る足音のように軽快で元気に満ちているから。  なんとなく目が覚めたらおしっこに行きたい気がして、布団の中から抜け出す。  廊下の板が冷たくて、思わず爪先立ちになる。  そうやってトイレに駆け込んで用を足すと、そっと大きな音を立てている工場を覗く。  ムッとするような熱気と一緒に押しよせるのは、茹で上がった大豆の匂い。  子どもの頃から身近にある香りで、いい匂いかといわれれば首を傾げる匂いだったが、なんだか温か い気持ちになる匂いで、つられて眠い目を擦りながらも湯気の向こう側を見ようとじっと見つめて突っ 立っている。  すると湯気の向こうからじいちゃんが白いビニールの前掛けと長靴姿で現れる。 「しっこに起きたか?」  その笑顔の問いかけに頷きながら、パジャマのズボンの中に手を突っ込んで足を掻く。 「まだ早いに、もうちょっと寝とき。学校で眠うなって居眠りなんてしても、じいちゃんのせいにされ たら敵わんからな」  減らず口を叩いてニっと笑ったじいちゃんが、欠伸をして浮んだ涙を首にかけたタオルで拭ってくれ る。 「さぁ、もう一眠りしい。それとも仕事手伝うてくれるか?」  それは嫌だと首を振ってじいちゃんに背を向ける。  相変わらず工場の中からはトントン、ゴーゴーと音がする。  白い湯気がもうもうと立っていて、豆に匂いが立ち込めている。  市ノ瀬豆腐店の毎朝の光景。  美佳はその光景が大好きだった。        
「で、ありますから、進学に向けて一日も早く足場を固めて取り組んでいくことが大切なのです。甘い ことを考えていると痛い目にあいますからね。来週の月曜日までに進路調査用紙を書いて提出するよう に」  担任の四角張った声が聞こえる。その声に似合いの完全七三分けの頭は、いつもテラテラと輝いてい て悪臭を放っている。頭の脂が過多なのか、それともくっさいおっさんポマードのご愛用者なのか。あ んなのと長時間自分の将来について語りなさいと言われても、あまりの匂いに口呼吸でボーとした頭で は考えられないではないか。わたしたちの将来をその匂いで妨害するつもりか。頭にむかってファブリ ーズでも毎朝噴射してやりたい。たっぷり一本分。  そんな妄想でクスっと笑った美佳に、隣りの席の親友さくらが視線をくれる。  こちらは真面目一徹の素直な女子高生だけに、真剣な顔で進路調査書を見ていたのだろう。  その顔にニコっと笑って小声で言う。 「早く弁当食わせろよな。ホームルームなんてガキ臭いこと高校生にやらせるなっての」  教室の半分以上が上の空で虚空を見つめているのは、腹が減っているということも一因だ。  始業式のあった今日は、どうにも春休みの習慣が抜けずに寝坊をして朝食をぬいている輩が多い。そ のうえ家ではおやつ食い放題だったために、腹が長時間の空に耐えられずに飯をくれと警戒音を鳴らし てくる。  案の定隣りのさくらの腹も、豪快なぐぅ〜〜〜という音を鳴らして、ふくふくホッペのさくらの頬を 真っ赤に染めている。 「ヤダ、もう」  お腹を押さえて俯くさくらに、美佳がクククと笑ってポケットに入っていた飴をさし出す。昨日さく らに貰ったが食べずに入りっぱなしになっていたミルキー。春限定のイチゴ練乳味だとさくらが力説し ていたやつだ。 「それは美佳にあげたの」  小声でいうさくらに、美佳が手の中に押し付ける。 「また腹の虫が叫ぶ前にエサくれてやりなよ」  あんなデカイ音を再び公衆の面前で立てられたらたまらないと思ったのか、それとも食欲に負けたの か、じっと手の中のミルキーを眺めたあと、ポンと口に放り込む。  そして食べるか悩んでいたわりに、口にいれて数秒でおいしいと頬に書いてある微笑を浮かべるさく らに、美佳もつられて笑顔になる。  わたしにはミルキーよりも、さくらの笑顔のほうがおいしいね。  食べたらおいしそうな丸い顔のさくらを見て、美佳はこっそりと思うのであった。 「では、大事な自分の将来を先延ばしせずに、真剣に考えるように」  やっと締めくくりの言葉を口にした担任に、皆がいち早く弁当にありつこうと動きだす。明らかそれ ぞれの頭の中は、進路などという灰色の見えない世界ではなく、醤油の匂いが漂う弁当だったわけだ。 「さ、わたしらも弁当、弁当!」  美佳は机の横に吊るしていた巨大弁当の手提げを取上げると、さくらを急かして立ち上がる。 「美佳って本当に食べるの大好きだよね。でも痩せてるっていうんだから、不公平」  いかにも小さいお弁当の包みを手に抱えて言うさくら。 「ま、それも君の決めたこと。文句は言わない」  近頃ダイエットを始めたさくら。  これも恋のなせるわざか?   美佳の脳裏に浮ぶ、ニパっと笑うタイタンの顔にフンと鼻を鳴らすのであった。  美佳の弁当は、なんと保温機能がある、よく土木工事のおじさんとかが下げて歩く黒い保温弁当の やや小ぶり版なのだ。一応、女の子用ということで黒ではなくピンクの弁当箱なのだが、巨大であるこ とに変わりはない。  さっそくホカホカと湯気をあげるお味噌汁と梅干の乗ったご飯。そしておかずのトレー二つを並べて ご満悦だ。 「今日のおかずはっと、竜田揚げと韮入り卵焼きにほうれん草のおひたし。こっちはひじきの煮つけと 油揚げの包み煮か。うん、なかなか」  対してさくらのお弁当の中身は、俵おにぎりが二つとプチトマト。キューリの浅漬けに卵焼き。ちょ こっとミートボールが入っているだけだ。  もちろんさくらの目は美佳の弁当の多彩なおかずに目が釘付け。 「……分けてやろうか?」  そのもの欲しそうな目に気付いて言う美佳に、さくらが慌てて首を横に振る。 「遠慮しねぇでいいんだぞ。な」  そう言って、二つ入った油揚げの包み煮の一つをさくらの弁当の中に落とす。 「え、いいよ」 「いや、それでは明らかにタンパク質が足りてない。っていうかさ、さくらがぽっちゃりなのって、筋 肉が少ないからでしょう。そんなにバリバリ運動しろなんて言わないけど、筋肉つけるためのタンパク 質は取れといいたいな。それに、きっと足りない栄養があるから、脳が栄養足りないよって指示だして オヤツを食べさせちゃうんだと、わたしは思うね」  美佳が言いながらズズズと味噌汁をすする。 「うん。うまい」  ワカメをつるんと吸い込みながら、心底幸せそうに笑う。  それを見ながら、さくらがごくりとツバを飲み、視線だけで穴が開きそうなくらいに油揚げの包み煮 を見つめると、意を決して箸にとる。  齧ると中からかつおの香りがたかい煮汁が染み出し、ふんわりとした油揚げから野菜が溢れ出す。 「な、うまかろう?」  美佳も口に放り込みながら、さくらの顔を覗き込む。 「うん。おいしい。やっぱり美佳んちのお豆腐はおいしいよね」 「いつも毎度」  さくらの家では、週に何度か美佳の家から豆腐を配達してもらっている常連さんなのだ。 「肉がやだったら、豆腐を食いな。畑の肉だからな」 「うん」  貴重なおにぎりをチビチビ齧りながらだが、さくらは幸せランチタイムを満喫しているようだった。  その笑顔が何かを思い出して、ハッとする。 「そうそう。運動で思い出したんだけど、タイタンの中学校で、春にマラソン大会があるんだって。そ の応援に来てって言われたんだけど」 「ふ〜ん」  横目で観察する目でみる美佳に、さくらが頬を赤らめる。  小学六年生の亀井泰蔵ことタイタンが、大胆にも高校二年生だったさくらに告白したことで始まった 恋愛だったが、そのスローテンポにゆっくりとすすむ可愛らしい恋愛がさくらには合っていたらしく、 なんだか不思議なくらいにうまくいっているようなのだ。  この頃はがんばって大きくなる努力の成果だと胸をはるタイタンの毎日牛乳一リットル&にぼし作戦 で背も伸び、ガクランも様になりつつある。  それにそこらの高校生の男どもよりも、意識してがんばっている分、ちゃんとさくらを守ろうという 意志が見えて、美佳もこの頃は認め始めているのだ。  歩くときは必ず自分が車道側で、しっかりとさくらの手を握って歩き、ゆっくりなさくらの歩調に合 わせて歩いている。  なかなかいい男に成長している様子。 「あの恒例の春の大マラソン大会こと、地獄の新入生激励マラソン大会ね」  美佳もさくらも同じ中学出身だから知っているマラソン大会は、なかなか熾烈を極めるものだった。  特にさくらには毎年気の重い行事だった。高校生になって解放されたと思っていたのに、思いがけな いところで再びかかわることになったらしい。 「奴は何部?」 「バスケ部」 「ほぉ、それはそれは」  訳知り顔で笑う美佳に、さくらも苦笑いを浮かべる。  さくらなどは毎年、完走するのが目標であって、大抵は具合が悪くなってリタイア組みのワゴン車に 乗せられて学校の救護テントに輸送されるのがおちだったのだが、美佳を始めとする運動部には、当然 のように各部の顧問や先輩方からノルマが課されるのだ。  その中でもバスケ部、バレー部、野球部は各部間での競争意識も強いので、厳しい命令が下されるの だ。  各学年の十位以内に入ること。  だが当然陸上部の長距離のエース級も生徒の中には混じっているわけで、その中で十位以内は全力疾 走を余儀なくされる。  それも平地ではなく、商店街を抜け、田舎の田んぼ道を通り、頂上に神社のある山道を踏破し、そこ で待つ先生のチェックを受けて栄養補給をして元来た道をリターン。ゆうに全長40キロはある。 「わたしの記録くらいは破って欲しいわね」  にんまりと笑う美佳に、さくらはだが自信ありげに見える口元で微笑む。  美佳が中学時代に打ち立てた記録は、今のところ女子の最高記録として今も破られていない。そのう え、男子と混ぜた記録でも歴代三位になる、さくらからしたら異常だと言いたくなる記録の持ち主が美 佳なのだ。 「タイタン、その記録を破るっていって、毎日練習してるみたいだよ」 「ほぉ。いい度胸ではないか」  弁当の味噌汁を啜りながら美佳が笑う。 「ぜひ今度練習にもたち合わせていただきたいね」 「今日の放課後でも行って見ようか」  実はそう言いたかったらしいさくらの嬉しそうな顔を見ながら、美佳が笑う。 「ああ、あついなぁ。まだ春もはじまったばかりだというのに」  実際太陽が照りつける屋上は暑かったが、あてつけで言われたと分かっているさくらが恥ずかしそう に俯く。  だがその顔は恋する乙女の光で満ちていた。
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