「恋は春の眠りも許さず」


<1―a>

  冷たく澄んだ朝露の雫が、長く伸びた木の枝先からポトリと落ちる。
まだ明けきらぬ、青く染まった朝の空気。
 その中で一人の青年が、気をめぐらすように身構え、腹の底からの呼吸を繰りかえす。
 両手を腰に当て、まるで目の前に大いなる敵がいるのかと思えるほどの気迫で拳を突き出す。
「はぁっ!」
 顔つきもカンフー映画のヒーローそのものに、いかめしく顰められる。
「トリャ!!」
 腰の捻りも堂がいっている。が――。
「朝っぱらからうるさい! おまえの存在ウザ過ぎ」
 愛らしい少女の声で、だが言葉はどこまでも小汚く、罵りの声があがる。
「春眠暁を覚えずって、人間様も言ってんでしょ。いつまでたっても眠いのが春だって、あんたには分
からないの。となりでバタバタと騒いでないでよ」
 寝起きの機嫌がすこぶる悪い凶悪な顔で、視線も鋭く言い放つ。
「だいたいねぇ。なんで空手の型なんて、あんたがやる必要あるの」
 ドンと地面を叩いた少女の声に、朝露が葉から飛び散り、青年の顔をぬらす。
 そしてその冷たい雫をスポーツの後の清々しい水の一杯のように浴びた青年は、腰に手をあて、当た
り前のように言う。
「それは立派な男になって、君をお嫁にもらうためさ」
 少女はあまりの真面目腐った声と顔に、力を失ってため息をつく。
「しょせん、どんなにがんばったって、わたしはただの菜の花。そんでもってあんたは」
「たんぽぽ」
 青年はストレッチをしながら、空を白く染め始めた朝の訪れに深呼吸する。
「俺は大地に深く根を張る逞しいたんぽぽ、名はライオン。そして、きみは可憐で美しい菜の花、ラフ
ィー。一緒に春の訪れを告げる使者になろう」
 芝居じみて両手を開くたんぽぽ青年、ライオンに、菜の花の毒舌少女、ラフィーがケっとつぶやく。
「蕾のままで、花も未だつけないあたしたちに、なにができるって?」
 ラフィーは悪態を最後に目を閉じる。
「なんだよ。また寝るのか?」
「春眠暁を覚えずってね」
「そんなんじゃ、可憐な花はつけられないぞ」
「だったら来年咲くからいいの。今年は冬眠! ならぬ春眠!」
 そう宣言し、見事な寝入りっぷりで、すぐにいびきを立て始める。
「……ラフィー……」
 先ほどまでの元気はどこへやら。ライオンはしゅんと肩を落とすと、情けなく隣で風に揺られながら
船を漕ぐラフィーの横顔を見つめた。
「俺は、俺の親父と君の母親みたいな、素敵な恋がしたいだけなのに」
 朝の冷え渡った空気が、次第に太陽に温められていく。
 でも、じっとその大気の中で呼吸するライオンの心は、しょんぼりと冷えていた。


<1―b>


 校舎の中を、授業の終了を告げるチャイムの音が鳴り響く。
「はい、じゃあ、今日の授業はここまで」
 教科書を閉じた古典の先生の言葉と同時に、週番が「きりーつ」と声をかけ、全員がおざなりに「あ
りがとうございました」と声をかける。
 次の瞬間には、今までの授業の内容などそっちのけで、がやがやと生徒たちのおしゃべりが始まる。
 そんな中、窓辺の席で外の校庭を見つめていたさくらは、ボーっと春のうららかな空気を顔に受けて
いた。
 校庭をつい数週間前まで豪華に飾り上げていた桜の木も、すでにその淡いピンクの花びらを落とし、
新緑の葉桜になりつつある。
「あ〜あ、もっとお団子食べたかったな」
 じっと葉桜を見つめていたさくらの耳元で、一人の男子の声がした。
「え?」
 あまりに近かったその声に、ぎょっとして振り返れば、となりの席の男子がからかいの目で自分の顔
を覗き込んでいた。
「お団子?」
「だってあんまりにももの欲しそうに桜を見てるからさ。お花見したかったな〜。そんでお団子食べた
かったなって思ってるのかと思って」
 さくらのものまねか、潤んだ目で遠く校庭を見やった男子に、さくらが笑う。
 が、その表情を消させてしまう声が飛ぶ。
「ほんと、さくらってまさしく花より団子って感じだもんね」
 ほっそりとした手足で、ばっちりとメイクしたクラスメイトの舞子の言葉に、さくらは深く傷つきな
がらもなんとか笑みを浮かべた。
「ほんとだよね。わたしってば、自分がお団子みたいにまん丸だから」
 自分のふっくらと膨らんだ頬を両手で押さえ、てへへへと力なく笑う。
「あ、俺、そういうつもりで言ったんじゃ……」
 最初に声をかけてきた男子が、自分を卑下して言うさくらに慌てて言った。
 だがその言葉は不必要とばかりに、舞子は男子の腕に自分の腕をからめると、その顔を見上げてニコ
っと笑う。
「ね、次の移動教室、一緒にいこ」
「え、あ、うん。いいけど」
 すでにノートと教科書を胸に抱えていた舞子に背中を押され、さくらの様子を気にした風の男子も、
教室から出て行く。
「お待たせ。トイレ混んでてさ。さくら、次の教室行こう」
 しょんぼりと机に座っていたさくらに、親友の美佳が声をかけた。
 女子高生らしい短いスカートから出た足がスラリと長い上に、身長が高い美佳は、だがまるで女子高
生らしからぬ、温泉の名前が入ったタオルを首に下げ、そのタオルで濡れた手を拭いていた。
「お〜い、さくら? なんかあったか?」
「ううん。移動教室行こう。遅れちゃうし」
 明らかに元気のないさくらの、悲しいほどの笑みに目を細めて見た美佳が、「テイ!」と声を上げて
その額を叩く。
「いた!」
「痛くて結構。何があったのか、隠さずに言ってみなさい」
 小さい頃から空手の道場に通う美佳のペチリは、普通と違ってかなり痛い。
 さくらは赤くもみじ形がつくだろう額をおさえ、上目遣いで美佳を見上げる。
「……わたしは、デブだから、花より団子なんだろうって。校庭の葉桜見てたらね」
 別に怒ってないもんねと言いたそうな笑顔で、美佳の前を歩いていこうとするさくら。
 そのさくらのお下げのみつあみを引っ張り、美佳が恐ろしいばかりの形相で言う。
「誰だ、そんなこと言ったの。わたしが制裁してやる」
 まさしく拳を振るって鉄拳制裁さえいとわない美佳の形相に、さくらは「まあまあ」とその肩を叩く。
「本当のことだからしょうがないじゃん。痩せないわたしがいけないんだし」
「……べつにさくらはデブじゃないじゃん。ゲソゲソの痩せなんかより、ずっとかわいくて、わたしは
好き。もう、抱きつぶしたくなるくらいに」
 美佳はさくらの肩をガシっと男のように抱くと、がはははと笑ってみせる。
「どうせそんなこという女は検討がつくけど、気にすんな。さくらは誰よりもかわいいし、すっごくい
い奴だし、なんていっても、この美佳さまの大親友なんて誉れにあずかっちゃうくらいなんだから」
 スポーツ万能で成績は学年トップ。ちょっと色気がないのが玉にきずだけど、学校一の人気者。それ
が美佳だった。
 その美佳の一番の親友がさくら。
 のっぽとチビ。
 痩せとデブ。
 そんな陰口があるのは知っていたが、そんなことが親友の絆に傷をつけることはない。
「うん。ありがとう」
 さくらはやっと本来のほっぺが光り出しそうなくらいの笑顔を浮かべるとうなずく。
「ではその美佳さまから、とっておきの情報。本日の日付は?」
「22日」
「で、さくらの出席番号は?」
「22番………」
「そう、今日の生物は、さくらが当てられるね」
「え〜〜〜〜!!」
「そこですてきなプレゼント。とりあえず今日の答えは浸透圧です! であることを教えておきましょ
う」
「本当?」
「本当。矢口の授業のノート見ちゃったんだ。そこに、本日の質問って書いてあった」
 にんまり笑う美佳に、さくらがその腕に自分の腕を通す。
「美佳、最高!」
「でしょう!?」
 仲良し二人組みが、廊下に笑い声を響かせながら走っていく。
 スカートから出た足は、太さは違っても、どちらもハッピーな気分を撒き散らしながら弾んでいた。


 駅から自転車で帰る美佳と反対方向へと歩いて帰るさくらは、マウンテンバイクに颯爽と跨り、両手
離しで振り返って両手を振って去っていく美佳に「前向いて!」と叫びながら、手を振る。
 田舎の無人のおんぼろ駅を出て、昔は栄えていたのであろう、今はおばあちゃんたちの社交の場とな
っている商店街を抜け、家への道をのんびりと歩いていく。
 小学生の頃は、この商店街もきらめきに満ちた宝箱のような場所であった。
 文房具店の匂い玉の入ったコルク栓の瓶を前に、今日はグレープの香りにしようか、それともストロ
ベリーかと、百円を握り締めて何分悩んだことか。
 たこ焼きとお好み焼きがおいしい小さなお店では、先生にばれやしないかとヒヤヒヤしながら、それ
でも真っ直ぐ続く田んぼ道を、友達とたこ焼きのソースを顔につけながら歩くことが、なによりも楽し
かったものだ。
 今は高校のある市の中心に通う毎日の中で、この商店街はどうみても数十年は立ち遅れているように
しか見えない。煌めきよりも、煤けて暗い空気に満ちているようにすら思える。
 そんなさびれた商店街だったが、どうしてもさくらの目を惹いて止まない店が一軒あった。
 抹茶色の旗をなびかせ、さくらにおいでおいでと囁きかける。
「ダメダメ、今日はだめ。お金だってそんなにないし」
 真っ直ぐ前を見れば視界に入ってしまうために、さくらは無理に足元を見つつ、つんのめるようにし
て歩いていく。
 だが、そうしながらも、頭の中では違うことを考え始めていた。
 お財布には、さっき切符買った残りの250円がある。250円あれば、買えるじゃん。
 心の葛藤の声は大きくなる。
 ダメダメ。今日、あんた何言われて落ち込んだか忘れたって言うの? デブよ。デブ。デブは余計なも
の食べるから、脂肪をたんまり溜め込んでるの。
 あ〜、そうよ。そう、そうなのよ。デブってバカにされて落ち込んでるのよ。だからこそ、ストレス
を解消するために食べたいのよ。甘い、甘いお菓子が食べたい。
 甘い砂糖=脂肪製造機。この図式、ちゃんと頭入ってる?
 甘い砂糖=すてきな脳内ホルモン製造。ストレスなんて、ほんわか蕩ける。
 脂肪、脂肪、脂肪、脂肪、脂肪。
 幸せ、幸せ、幸せ、幸せ、幸せ。
 勝負!
 さくらは下に向けていた顔を正面に向けた。
 抹茶色の旗に白い染め抜きで書かれた文字。「特製、栗どら」
 しっとりと蜜に濡れたどら焼きの皮の中から顔を覗かせる、黄色い大きな栗。そしてそれを包み込む、
つやつやと濡れた輝きを放つ、小豆あん。
「いらっしゃいませ〜」
 さくらの足は、抹茶色の暖簾をくぐり、キラキラと輝く目で、ショーケースの中を見つめていた。
 さくらの毎日の御用達和菓子店。「鶴亀堂」
「栗どら一つ、お願いします!」


 学校帰りの子どもたちが、ランドセルを地面に放り出して遊ぶ公園で、芝生の上に腰を下ろしたさく
らが、鶴亀堂と判子の押された紙袋の膝に乗せ、意志の弱い自分に失望したような、でも膝の上のこの
上なく素敵な誘惑にうっとりするような複雑な表情で、袋を見つめていた。
 だが意を決して様子に袋を開けると、栗どらをつかみ出し、顔の前に掲げる。
「後悔しながら食べるなんて、食べ物にも、お店のおじちゃんにも失礼だから、楽しんで食べないとね。
いただきま〜す」
 齧りついた瞬間、歯に当る柔らかな生地と粒あんの感触に、思わず笑みがこぼれる。
「おいし〜〜〜〜い。これだけで、今日の嫌なこと全部帳消しにできるかも」
 齧られて欠けたどら焼きの断面から、栗の黄色が顔をのぞかせていた。
「栗ちゃん、食べちゃいます」
 パクと齧りつき、顔を上げた瞬間には、これ以上ないという、幸せにほころびた顔が空を見上げる。
「あ〜、さくら姉ちゃん、またおやつしてる〜」
 小学生の一人がさくらを指さして叫ぶ。
「今日もキャンディーなら上げられるよ」
「イエーーイ。今日は何飴?」
「今日はミルキーといちごみるくで〜す」
 さくらは手提げのバックの中からキャンディーの詰まった缶をつかみ出す。
 それを受け取った小学生の団体が、次から次へと飴を掴んで口に頬張りながら、「ありがとう〜」と
叫んで、再び遊びの輪に戻っていく。
「どういたしまして」
 すっかり空になって戻ってきた缶をカバンにしまい、さくらは残りのどら焼きを、最後まで味わい尽
くすぞという気合で口に入れ、ゆっくりと噛みしめる。
「あ〜、幸せだなぁ〜」
 サッカーや鉄棒で遊ぶ子どもたちを見つめながら、さくらはボーと幸せの中を漂っていた。

 その様子を、サッカーボールを胸の前に抱えて見つめる目があった。
「かわいい。……ぼく、初恋……」
 少年の手からサッカーボールが転げ落ちていった。


<2―a>


「あー、暑い! ライオン、水!!」
「はいはい、どうぞ」
 ご機嫌斜めの横暴女王のようなラフィーに、ライオンはかいがいしく世話を焼く。
 自分が根から吸い上げた貴重なミネラルウォーターを、葉っぱに乗せてラフィー差し出す。
 それを器用に吸い取ったラフィーに、これ以上の幸せはないという笑顔で、ライオンが微笑む。
「……なんでそんなにご機嫌なのよ」
「あ〜」
 なぜかラフィーの問いに顔を赤らめるライオン。
「だって俺の両手でためた水に、ラフィーが顔をよせて飲んでくれて。ちょっと軽いキスだな〜っとか
って」
 言いながら恥ずかしくなったのか、照れ隠しのようにつぼみの頭をガシガシと掻く。
 逞しく大きな体の割りに、ロマンティストで照れ屋な反応に、ラフィーは少し引き気味で顔をしかめ
る。
「キモイ」
「……あ? なんだよそれ。俺はただラフィーが大好きで」
「ああ、だから! そういうことを口に出して言うこと自体が!」
「気持ちなんて、口に出さなけりゃ伝わらないじゃないか!」
 ムッと顔をしかめるライオンと、もう聞きたくないとばかりに耳を両手で塞ぐラフィー。
 二人の間を、生暖かい風が通り過ぎ、足元を、「犬も食わぬなんとやら」とつぶやくアリのじいさん
がひょこひょこと歩いていく。
「ラフィーはさ――」
 話し出したライオンに、ラフィーは無理やり耳に突っ込んだ指を出し入れして、「あわわわわわわ」
などと言って、ライオンの声がきこえないように意地悪をはじめる。
 その子どもじみた行いに、ライオンはその両腕を掴み上げて、意地でも話をきかせてやる! と思っ
ては見たものの、そんなことをしたらラフィーは本気で機嫌を損ねて、枯れるまで不貞寝をしそうだっ
たので、なんとか怒りの溜飲を下す。
「聞いてなくたっていいさ。俺は俺の夢を語るだけだし」
 ライオンはラフィーから目をそらすと、綿雲の浮く空を見上げた。
「青い空のてっぺんって、どこなんだろうな」
 ライオンはできうる限りの背伸びで、空に向って手を伸ばす。
 青い空をバックに緑の手の平が、太陽の光を透かして輝く。
「俺はさ、立派なたてがみみたいな花を咲かせて、ラフィーと恋人として過ごして、それから綿毛にな
って、空のてっぺんまで飛んでいきたいんだ。青い空を、ラフィーと一緒に飛んで行けたらいいなって。
自分たちの咲いていた大地を、上から眺めて、行ったことのないところに、二人で旅行するんだ」
 絶対に実現させるんだと意気込み、目を夢で輝かせる青年ライオンに、ラフィーは耳につっこんだ指
を緩めて視線を送る。
「おまえのへなちょこ綿毛で、わたしまで運べるかって言うの」
 ラフィーのつぶやきに、ライオンが聞いててくれたんだねと、顔を輝かせて見つめる。
「大丈夫。だって、この夢をかなえるために、毎日筋トレしてるんだから。絶対俺はラフィーと繋いだ
手を離したりしないから」
 ぎゅっとラフィーの手を握ったライオンだったが、ペシっと手の甲を叩いて振り落とされる。
「勝手に燃え上がってればいいじゃない」
 ラフィーはプイと顔をそむけ、じっと遠くの景色を見つめていた。
 そんなラフィーに、さすがのライオンも肩を落とし、頭をたれて地面に座り込む。
「……やっぱり、ラフィーはぼくのこと、好きにはなってくれないんだ」
「…………」
 ラフィーは何も答えずに、じっと空を飛び回る蝶を見つめていた。
 ラフィーとライオンの父と母は、ここ界隈で伝説となる熱愛夫婦であったらしい。
 蝶の受粉させてあげるよの誘惑のも負けず、二人で風に揺られながらキスを交わしてラフィーとライ
オンを生む種を生み出したのだ。
 ラフィーもライオンも、地中で種として過ごしていたとき、その話を団子虫のお玉ばあさんに聞いて、
胸をときめかせたものだった。
 そしてわたしたちも、絶対パパとママみたいな恋人になろうねと、何度も指きりしたものだ。
 でも地上に出て、たくさんの美しさやいろいろな虫たち、花たちと知り合う中で、ラフィーはいつも
隣にるライオンが、素敵には見えなくなっていたのだ。
 もちろん特に好きな相手がいるわけではない。
 遠くからフェロモンバリバリの香りを送ってくる薔薇のロゼくんも素敵だけど、ちょっとキザ過ぎる
し、トランペットを夜毎演奏してくれるスイセンのラッピーくんも、そのおしゃべりが楽しくて、大好
きだった。
 あまりに真面目で、地面に張り付いたようなライオンは、いい奴どまりなのだ。
 約束はしたけどさ、あんなのは子どもの頃の他愛もない口約束で……。
 そう自分に言い聞かせて空を見上げたラフィー。
 だがその瞬間、何かが心の中ではじけたのだった。
 青い空の下で、まるで涙の雫のように散っていく桜の花びら。
 あんなに美しくて、憧れて見つめていた桜の女王、芳野姫が、花の命を終えてラフィーたちの前から
消えようとしていた。
「ラフィー、素直になりなさい」
 芳野姫の花びらの一つがラフィーの耳元に囁いては飛び去っていく。
「わたしたちに、来年なんて言葉はない。一瞬一瞬を大切に生きて、その生きた証を種として来年の命
へと送り出すの」
 頑なに春を知りながら知らない振りで花開かずにいたラフィーに、芳野姫が囁く。
「命の証、恋の証。だからこそ、春に芽吹いたそのかわいらしい新芽に、虫も風も太陽も人間も、感動
して声をかけてくれるの」
「春を告げてくれてありがとうって」
 ラフィーの周りを纏わりついて語りかける桜の花びらに、ラフィーは無言のまま耳を傾けていた。
「さあ、ラフィー。目覚めましょう。恋にも、美しい花としても」
 最後の一片として去っていった芳野姫のひとひらに、ラフィーはちらっと風に揺れるライオンを見つ
めた。
 いずれ花を咲かせ、綿毛となって去っていくライオン。
 いままでずっと一緒にいたのに、どこかへわたしを置いて旅立ってしまうかもしれないライオン。
 もう、ラフィーと笑いかけてくれなくなってしまうのだ。
 ただじっと、一人でこの大地にへばりつき、枯れ落ちるまで目を瞑ったままで。
 隣にライオンがいない。
 そんな想像をしただけで、ラフィーは初めて胸が張り裂けそうになって、声を上げた。
「ダメ!」
 その声にライオンもびっくりして顔を上げ、ラフィーを見上げる。
「……ラフィー、どうした?」
 怒ったような、泣き出しそうな、複雑な顔でライオンを見つめるラフィーに言葉が続かない。
「ライオン、わたし」
「ん?」
 いつもの優しい顔で、ライオンが座り込んでいた地面から立ち上がる。
 いつの間にか、ラフィーよりも背が高くなっていたライオンに、ラフィーは不意に顔が熱くなるのを
感じた。
「あ、ラフィー?」
 なんだか熱くなる頬が、内側からいつもと違う光を放ち始める。
「あの、ライオン。わたし、今まで冷たくしてたけど」
「ラフィー、はな、はなが」
「ライオンのこと、好き」
 言い切った瞬間、ラフィーの姿が変身を遂げたかと思うほどに、美しく輝いていた。
 黄色く可憐な花が、風にゆられて美しい花弁を波打たせる。
「ラフィー、花咲いた………」
「え?」
 言われるまで気づかなかったラフィーは、自分の顔に触れて「あ」と声を上げる。
 そして、ラフィーの思わぬ告白を受けて、ライオンもラフィーを抱きしめると、大きなたてがみのよ
うに立派な花を開かせた。
「ラフィー、大切にするからね」
「うん」
 見つめたライオンの顔は、今まで見てきたどんな花たちよりも、ずっときれいで頼もしく、頬をよせ
たくなるほどに愛しかった。
「……恋知って、芳しく咲く、春の宵夢。ってか」
 振り返ったアリのじいさんが一句を読むと、ホッホと笑って杖をつきつき歩いていった。


<2―b>


 人が溢れた昇降口で、さくらは待ってくれていた美佳に手を振って駆け寄る。
「委員会が結構時間かかっちゃって。今週の土曜日。せっかくの休みなのに清掃委員はモップ洗いだっ
て。美佳手伝ってね」
 美佳は走ってきて息を切らしているさくらに、持っていた飲みかけのいちごみるくのパックを手渡し、
「はいはい」と笑ってみせる。
 そうしながらも、廊下を昇降口へと歩いてくる舞子に向けては威嚇の視線を送る。
 美佳がわざわざさくらを待っていた理由は、この舞子だ。
 運悪くというか、さくらと舞子はともに同じ清掃委員なのだ。
 いつもずる賢く面倒な仕事はさくらに押し付け、自分はさっさとデートのお出かけ。
 そのくせ、大人しいさくらをいい鴨だとばかりに、ストレス発散のいじめ対象とするのだから、憎く
てたまらない。
 視線にのせられる言葉があるとしたら、「てめえ、さくらに何かしてみろ? その顔二度と見れない
くらいに腫れあがらせてやるからな」だった。
 その言葉が受け取られたのか否か、舞子は美佳に鼻で笑った視線を送って顔を背けると、手をつない
だ男子にしな垂れかかって甘えて見せる。
「かぁぁぁぁぁぁ!! なんなんだよ、あの女。男の前ではクネクネしやがって。タコか? イカか?」
 地団駄を踏み出しそうに顔をしかめて言う美佳に、靴を履いていたさくらが呑気に言う。
「タコ? タコとイカなら、わたしイカリングがいいなぁ」
「は?」
 あまりにテンションの違うそのつぶやきに、毒気を抜かれて美佳が口をあんぐりとさせる。
「ん? だからタコとイカの話でしょ? お正月の酢だこも結構わたし好き」
「…………」
 唖然とその顔を見つめた美佳だったが、その天使のごとく純真無垢な鈍感さが大好きさと、さくらの
頭をトントンと叩く。
「さあ、帰えるべ」
「うん」
 二人は葉桜となった桜並木を校門へと向って歩いていった。


「あ、あの」
 校門から出たさくらと美佳に、声をかけてくる存在があった。
 大根坂として有名な、急な坂の上にあるこの高校まで自転車で上がってきたのだろう。頬を真っ赤に
上気させた少年が、校門の門柱のところで立っていた。
 近所の子どもだろうと思って視界にも入れていなかった二人だったが、掛けられた声に足をとめる。
 サッカー少年なのだろう。
 半ズボンに長いソックスを履いた足は、痣や擦り傷でいっぱいで、よく日に焼けていた。
 髪も短く刈りこまれ、凛々しい眉がその下でしっかりとした弧を描いている。
「わたしらに用?」
 美佳が少年の自転車を見ながら言う。
 自転車のステッカーにある小学校の名前は、市内の小学校ではなく、美佳やさくらの地元の小学校の
名前。
 もし自転車でここまで来たのだとしたら、子どもの足だ。ゆうに1時間はかかったことだろう。
 さくらも少年の自転車のステッカーに気づき、びっくりした顔で少年の顔を見下ろした。
「あの、あの、ぼく」
 男の子は真っ赤にした顔でさくらを見上げると、背中に隠してた花束を差し出し叫んだ。
「ぼく、さくらさんに恋しちゃいました。つきあってください」
 きっと庭で摘んできたのだろう。パンジーやビオラで作った花束は、少年の手の熱ですっかり萎れ、
へなへなになって包装紙から垂れ下がっていた。
「あっ」
 少年は花の状態と、自分を取り囲む年上の高校生たちの好奇の目に気づき、たじろいで一歩後退さる。
 その足に自転車にぶつかり、立てかけておいた自転車が大きな音を立てて倒れる。
 慌てる少年の耳に、高校生たちのくすくす笑いが聞こえ、羞恥でますます顔が赤くなる。
 自転車を起こし、立ち上がった少年は、顔を赤くしたまま何も言わないさくらを上目遣いで見つめた
が、失恋したとばかりに背をむけて帰ろうとした。
「おい、待て少年」
 美佳がにやけた顔で呼び止める。
 少年は緩慢に振り向くと、呼び止めた美佳に顔を向ける。
「名前は?」
「泰蔵。みんなにはタイタンって呼ばれてる」
「ふ〜ん、タイタンね。おまえ腹減ってない? 1時間も自転車こいで、こんな坂道も登っておいて、
むなしくただ帰るのもなんだろ。ドーナツでも奢ってやるよ」
「え?」
 怪訝な顔に、わずかに嬉しさをのせ、タイタンがさくらを見る。
 その視線にさくらは一瞬たじろいだものの、かわいい弟みたいなタイタンに、微笑んでうなずいて見
せた。
「おまえのさくらへの思い、じっくり聞かせてもらおうじゃねえか。わたしがまずおまえの恋の試験官
だ」
 ふふふと笑った美佳に肩を抱かれ、タイタンは引き攣った笑みを浮かべるのであった。


「そうだな、おまえはフレンチクルーラーに、チョコファッション。それからエンゼルクリームでどう
だ!」
 少年タイタンにお盆を持たせた美佳が、勝手にドーナツを積み上げていく。
「そんで、さくらはポン・デ・黒糖にストロベリーカスタードフレンチ。でいいんだよな?」
「うん」
 さくらの好みはお手の物と選び、タイタンの顔を「おまえは知らなかっただろう!」と優越感をのせ
た笑みで見下ろす。
 それに気づいてか、ムっと顔をしかめたタイタンだったが、奢ってもらう手前、ドーナツを目の前に
何も言わずに美佳から目をそらす。
「そんでわしは、海鮮野菜麺点心セットじゃーー!」
「ドーナツ食わないの?」
「甘いものは嫌いなんじゃ」
 なかなかいいコンビで会話を交わす美佳とタイタンが会計へと歩いていく間に、さくらが三人分の席
を確保して座る。
 タイタンの後ろ姿を眺めながら、さくらはそういえば自分は告白なんてものをされた身であったこと
を思い出した。
 告白は初めての体験であった。
 友だちの告白体験を聞いてドキドキしていたことはあっても、まさか自分の身に起きるとは。
「さくら、良かったじゃない? 彼氏できるかも? あんなお子ちゃまだけど?」
 不意にした声に顔を上げれば、ここまでことの顛末でも眺めに来たのか、舞子がさくらを見下ろして
立っていた。
 さくらはその顔に思わず及び腰になって不安な顔になる。
 なぜ自分は舞子に目の仇にされなければならないのかが分からない。親しく話したこともないのだか
ら、傷つけるようなことを言ったりしたはずがない。
 そんなさくらの負け犬のような尻尾を丸めた態度に、舞子が片眉を上げてさくらを笑う。
「いい機会じゃない。付き合ってみれば。恋愛初心者のさくらには、あんなのがお似合いよ」
 言い捨てた舞子は、さくらの元にタイタンと並んで帰ってきた美佳に気づいて歩き去る。
「あのバカ女。こんなところまで着いて来やがって」
「さくらさんをいじめた!!」
 二人で重そうなお盆を持ちながら、必殺の視線を並んで舞子の背中に送る美佳とタイタン。
 その姿に、さくらは怖気づいていた自分におかしくなって小さく笑い声を漏らした。
「わたしのナイトが、二人に増えてる」


 ズルズルと豪快に音を立てながら麺をすする美佳が、「ま、お若い二人でどうぞ」などと見合いの斡
旋おばさんのようなことを言って食べることに専念しはじめる。
 と、今まで快調に美佳と会話を弾ませていたタイタンも、さくらを見てかちんこちんに緊張をはじめ
る。
 思わず自分のコーラと間違えて美佳のウーロン茶を飲んで、「人の取るな」とど突かれる。
「えっと、わたしたちどっかで会ったことあったかな?」
 いつもなら会話のリードは取ることがないさくらだったが、あまりに緊張しているタイタンに見かね
て話しはじめる。
「え? うん。さくらさん、いつも学校帰りに公園でおやつしてるでしょ?」
「え? 見てたの? やだなぁ。いつもお菓子パクついてるの見られてたんか」
「ううん。その姿がかわいくて。本当においしそうに食べてて、笑った顔が絵本の中のお姫さまみたい
で」
「……お姫さま?」
 つぶやいて顔を赤くするさくら。
 そしてタイタンの横では我関ぜずのはずの美佳が麺を噴出して笑い出す。
「な、なんだよ! そう思ったから正直に言ったのに……」
 顔を赤くして訴えるタイタンに、美佳はよしよしとその頭を抱いて撫でてやる。
「さくらはそうだな、お花の中から生まれた親指姫ってかんじ?」
「うん」
 同意してくれた美佳に、タイタンは笑顔で頷く。
「だってさ、さくら」
「……嬉しいけど、チューリップの中で桜餅をいただきまーすって叫んで食べる、ふくふくホッペの丸
っこいお姫さましか思い浮かばない」
「らしいじゃん」
「うん。かわいい!」
 美佳の横でちゃっかり握りこぶしで力説するタイタンに、さくらは思わず照れた笑顔を浮かべる。
「タイタンは何歳?」
「十二歳。小学校六年。今年6センチ背が伸びたから、中学生になったら絶対にさくらさんより高くな
るから」
「う〜ん。さくらとの年の差5歳か」
「年の差なんて」
「恋には関係ないって?」
 美佳の揶揄に、タイタンは真面目に大きく頭を振る。
 美佳はおもしろい見世物だとさくらを見ると、恋とは程遠い感じながら、タイタンを微笑んでみてい
るさくらを見て、ほっほ〜と内心で頷く。
「タイタン。さくらと付き合いたいなら、恋の試験官からの試験を受けてみるか?」
 不意に言った美佳の言葉に、タイタンとさくらが同時に間抜けな顔を上げる。
「「試験?」」
 これまた声がそろった二人に、美佳が意味深に笑う。
「今週の土曜日のモップ洗いを手伝いに来い。そんでもって、そのときにさくらが喜ぶプレゼントを用
意しろ!」
 意外な試験内容に唖然とするさくらを他所に、タイタンは上官の命令と立ち上がると顔の前で拳を握
る。
「よっしゃー。任せとけ!」
 タイタンの目が燃え上がっていた。



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