「湯気の香りと色に涙」・中編

     
 母校である中学校の体育館を覗く。  放課後の少し気だるい空気の中で、運動系の部活の部員の上げる元気のいい掛け声が響き渡る。 「ああ、懐かしいなぁ」  キュッキュとなるバッシュの靴音と、ボールが床で跳ねる音。  それらに美佳が目を細めて遠い思い出に浸るような顔になる。 「美佳、今だって女バスのエースじゃん」 「でもやっぱ中学の空気感とは違うわけよ」 「ふ〜ん。わたしは運動系の部活の人には気後れして帰る家庭科部だったから」 「なんで気後れ?」 「う〜ん、なんかがんばって青春の汗を流している運動系の人たちの方が、偉くみえたっていうか。… …たぶん、わたしは苦しいことに堪えられない性質だから、羨ましかったのかな」  中学のときから、ずっと大親友だとお互いに思っていた仲だったが、初めて聞く告白に、美佳がそん なこと気にしてたのかとさくらの横顔を眺めた。  だがその顔が一瞬にして笑顔に変わる。  もちろんその先にあるのはタイタンが手を振る姿。  いっちょ前にバッシュを履き、短パン姿で並んでいる。  いつまでも子どもだと思っていたタイタンだったが、思いの他様になっているではないかと美佳が思 ったが、次の瞬間にはやっぱ子どもだと笑ってしまう。  パスの練習中だったくせにさくらに気をとられていたせいで、ペアの放ったボールに気付かずに顔面 にボールが直撃。  バチンといい音を立てたボールに顔を顰めて倒れむは、顧問には「なによそ見してる、このボケ!!」 と怒鳴られるは。 「ああ、タイタン、かわいそう」  口を手で覆って目を見開くさくらだったが、隣りの美佳は腹を抱えて大爆笑だった。 「おまえら、何しに来てんだ」  美佳の存在に気付いたバスケ部の顧問が、体育館を覗く二人に側へと歩いてくる。 「ウイッス」  慣れた調子で挨拶する美佳の横で、さくらも頭を下げる。 「高校で中学に戻って勉強し直して来いって言われたか?」  毒舌で有名なバスケ部顧問の言葉に、だが美佳も負けてはいない。 「いや〜、先生のメタポ腹が成長してないか、心配で見にきました」  美佳のその言葉に、顧問も律儀に自分の腹を見下ろす。  そこには体育教師とは思えない、なかなか立派に成長した腹がある。 「妊娠何ヶ月ですかぁ?」  おちょくった美佳の言動に、顧問の先生が飽きれた顔でため息をつく。 「変わってねぇな、おまえのその減らず口」  そう言って美佳の頭を小突く先生だったが、顔は頼もしく成長した愛しい生徒を見る笑顔がある。  中学生の時は完全に子ども扱いで、厳しく規則を叩き込もうとするように感じていた先生が、今は一 人の大人を目の前にしているように、対等に相対してくれることが分かって、さくらも緊張を解いて声 をもらして笑う。 「ところで、今年の一年はどうっすか?」  美佳が体育館の中を覗き込みながら言う。  体育館の中にはたくさんの掛け声と靴が床と擦れ合って立てるキュッという音が響き、熱気が立ち上 っていた。  美佳の後ろからそっと体育館を覗いたさくらは、自然と目がタイタンを探してすぐに見つけてしまう。  短い髪の先から汗が滴っているのが見える。  真剣な目でボールを追って走り回る姿は、思わずさくらに「かっこいい」と思わせる精悍さが溢れて いた。 「そうだな。結構やる気もあるし、努力も怠らないつわものが揃ったかな。鍛えがいがある」  にやりと笑う先生に、美佳はかつて経験した吐くほどの練習を思い出して苦笑いを浮かべる。 「あいつは? 結構有望?」  もちろん美佳が指さしのは、ボールを手にして目の前のディフェンスにフェイントを入れて抜こうと しているタイタンだった。 「ああ、泰蔵か。いいんじゃないか? そういえば、やたら今度のマラソン大会で記録作るって意気込 んでたけど。………まさかその噂聞いて来たのか?」  美佳が記録保持者であることを知る先生が探るように美佳の顔を見る。 「う〜〜ん、半分正解ってとこかな。噂は聞いてる。このさくらから。あの小僧さ、わたしの大親友の さくらに告白して今健全交際中ってやつで」  あっさり喋ってしまった美佳の後ろで、さくらが顔を赤くしてその背中を叩く。 「ちょっと美佳!」  でも時は遅し。しっかり聞いていた顧問の先生がまん丸になった目でさくらを見て、それから体育館 の中のタイタンを振り返ってみる。 「へぇ〜」  そうとしか言いようがなかったのだろう。先生はそう言うと、さくらをじっと見た。  以前から鋭い目つきが怖いと思っていた先生に見つめられ、さくらは目を合わせていることができず に俯いた。ともすれば、すいませんと謝ってしまいたくなる。  だが先生は腕を組むと、「そうか」と呟いて頷く。 「さくらだったな」  不意に名前を呼ばれ、顔を上げたさくらが直立になって身を硬くする。 「はい」  そんな反応に美佳も先生も笑う。 「おまえの教科担任になることはなかったから話をする機会はなかったけどな、このお転婆娘とつるん でいることもあって知ってはいたんだ。  まぁ、運動はできるとは言いがたいが、でも一生懸命に取り組む姿には感心していたんだ。跳び箱で 必ず真ん中で座り込むことになるのに、全速力で助走を走っていく姿とか、つい応援したくなるんだよ な」  そんな自分の失態を改めて感慨深く語られ、さくらは何もいえずに顔を赤くした。 「そうそう目立つタイプではないだろうけど、でも自分の存在価値を見失わないようにな。あの小僧が 惚れただけのものが自分にあるんだってな」  そう言って優しく笑ってくれた先生に、さくらは恥ずかしそうにしながらも頷いた。 「はい。ありがとうございます」  それを横に立った美佳も嬉しそうに見つめていた。 「先生も案外良い事言うんじゃん」  誰よりも早く部室を飛び出してきたタイタンは、大きなスポーツバックを肩に掛け、髪からは汗の雫 を滴らせていた。  初めて見たときよりも学ランが様になってきていて、背もさくらとほとんどかわらないほどに伸びて いた。 「ごくろうさま」 「うん。さくらさんも来てくれてありがとうね」  そう言って差し出す手に、さくらも当たり前のように手を差し出し、並んで手をつないで歩き出す。  その二人の横をチラっと気にした様子で通り過ぎてい何人かで連れ立った女の子たちを、美佳はおも しろく眺めていた。  明らかに中学生には見えないうえに、かなり有名人であった美佳には、先輩だと気付いて頭を下げて いく後輩も多い。だが、さくらには見ない顔だなと不思議がる顔と、タイタンと手をつないでいる女に ライバル出現と焦りと嫉妬が混じった目が向けられる。  どうやらタイタンはかなりモテルらしい。  お子様にはお子様の恋愛事情というやつがあるのか。  クククと笑いを漏らす美佳に、いち早く自分が笑われていると気付いたタイタンが振り返る。もちろ ん不機嫌に眉を顰めて美佳を睨むようにして。 「なに笑ってんだよ」 「いや別に、色男さん」  周りに目を巡らせながら言った美佳だったが、言われた当の本人は無自覚らしく、キョトンとして美 佳の言葉に裏でもあるのかと考え込んでいる。  もちろんさくらは自分を見る目に気付いていたのだろう、分からないでいるタイタンの横顔を見なが ら微笑んでいる。 「バスケしているタイタンってカッコイイね。学校でもモテルでしょう?」  もちろんさくらの発言の比重は後半のモテルでしょう? という質問にあったわけだが、タイタンは さくらにカッコイイと言ってもらえたことで舞い上がって後半は聞いていなかった。  すでに陽がおちて暗くなり始めている時間だというのに、タイタンの顔がポっと赤くなるのが見てと れた。 「いや、そんなカッコいいなんて言われないけど、さくらさんがそう言ってくれるだけで、俺、鼻血出 そう………」 「本当に鼻血噴くなよな」  すかさず言う美佳だったが、今はさくらとの世界にどっぷりと浸かっているらしいタイタンはパタリ と耳を閉じている。  美佳など無視で、さくらの手を引いて歩き出したタイタンに、いい根性じゃないかと足早に歩み寄っ た美佳がその耳を掴んだ。 「あ、たたたたた。イタイって」  思いっきり引っ張られて無様な格好で倒れそうになるタイタンに、美佳が顔を近づける。 「なぁ、おまえ。わたしのマラソン大会の記録を塗り替えるつもりらしいじゃん」  パッと離された耳をさすって立ち上がったタイタンだったが、自信ありげに顎を上げると「うん」と 頷く。  挑戦者の意地に火がついたのか、いつもおちゃらけムードから戦闘モードに移行した闘志燃える目が 美佳を見ていた。 「だって、俺、さくらさんの隣りにいていいって自分で納得できるようになりたいから」  ほう。  タイタンの言いたいことを理解した美佳は腕組みすると、目を細めてタイタンを見た。  さくらは言いたいことの真意が分からないらしく、首を傾げている。だが、一気にライバル同士の火 花散る視線の応酬に、ここは大人しくしていようと思ったようで口は挟まなかった。  さくらの隣りで彼女を守る最高位のナイトは、美佳か、それともタイタンか?  守られる当の姫は呑気に首を傾げていたが、決戦の火蓋は切って落とされた。  ゴンゴンゴンとファイトの鐘が鳴らされた。そんな空気が漂っていたが、不意にその空気を断ち切る 音が鳴った。  場違いな水戸黄門のテーマソングが流れ出す。 「おっと、わたしの携帯」  美佳が肩に掛けていたスクールバックを漁る。 「おまえ、着うた水戸黄門?」  タイタンが呆気に取られた顔で美佳を眺める。  が、美佳は楽しげに通話ボタンを押す。 「はいはい。こちらいつも元気な美佳ちゃんです」  美佳が答えるのを聞きながら、さくらがタイタンに耳打ちする。 「あれはね、美佳のおじいちゃんからの着信専用の着うたなの」 「ああ。あの豆腐屋のじいちゃんか」  和やかに話すさくらとタイタンだったが、そこに割って入った美佳の深刻に上がる驚きの声に振り返 った。 「ええ? 本当ですか。わかりました。わたしもすぐに行きます。母や父にはわたしから連絡しますか ら。はい。よろしくお願いします」  笑っていた美佳の顔が、今は眉間に皺を寄せた厳しい顔に変わっていた。 「どうしたの?」  さくらの問いかけに、美佳は気忙しそうに携帯で電話をかけながら答える。 「……じいちゃんが倒れたらしい。救急隊の人からの電話だった」 「え?」  では美佳のおじいさんは、救急車で運ばれているということだろうか。  親に連絡を取った美佳が、走り出そうとしながら二人に告げる。 「悪い。すぐに病院に行かないと。さくら、また明日な。タイタンもまたな」  返す言葉が見つからずに頷く二人に、美佳は大通り目指して走り出していった。
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