「灼熱の太陽をこの手に掲げ」



8 カイリの背中
 カイリの家へと走ったヴァイロンが目にしたのは、家の前に乗り付けられた立派な馬車だった。  あれはこの町一番の大農家エリスン家のものだと理解したヴァイロンは、すぐには近づかずに木の陰 で様子をみる。  この町にある小麦畑の大半の所有権をもつエリスン家は、大きな屋敷を持つ家で、その家の息子ロバ ートは、色男ということもあって町の娘たちの憧れの的だった。  そのロバートと婚約したカイリ。  見初めたのは、その美しさに一目惚れしたロバートの方だったというのが噂だった。  もちろん、この縁談にカイリの家は一も二もなく承諾した。  だが、結果をみれば、承諾したのはカイリの両親であってカイリ自身ではなかったのかもしれない。 「恋って何なのかわからないの。だから、ごめんね」  ヴァイロンの告白には、そう言って謝ったカイリ。  あまり体が丈夫でないカイリは、よく麦の収穫をする家族のためにお茶や昼食をもって畑へと歩いて いた。  大きな麦藁帽子をかぶって、重そうな水筒を首にかけ、胸にはおおきなバスケットを抱えた姿で歩い ているのを見たものだった。そしてそんな姿を見ると、海賊亭の買出しに女将と来ていたはずのヴァイ ロンが、荷物運びのために連れて来られたというのに、カイリの荷物持ちへと転じて走り出すのであっ た。  水筒もバスケットも変わりに運んでくれるヴァイロンに、カイリは笑顔でいつも「ありがとう」と笑 ってくれた。そして内緒で一つねといって、焼きたてのパンを分けてくれたりしたのだった。  その屈託のない、まっすぐな笑顔が大好きだった。  色気なんてものもは感じなかったが、見るだけでヴァイロンにも笑みが浮ぶそんな笑顔が大好きだっ たのだ。  そんなカイリが浮気なんてするはずがない。  じっと見守るヴァイロンの視線の先で、家の玄関先で深々と頭を下げるカイリの父親と母親の姿が見 てとれた。  頭を下げられているにもかかわらず、語気荒く怒鳴り声を上げているのはエリスン家の主人。隣りに 立ったロバートの顔には、大きなガーゼが当てられていた。  父親ほど怒りを顕わにしているわけではないが、怒鳴られているカイリの両親を庇うでもなく、すっ かりカイリへの関心をなくしたような顔つきで立っているだけだった。  あの怪我はなんだ?  おとなしくて喧嘩のけの字も知らないロバートが、なんだって顔に怪我を。まるで殴られたみたいに。  ヴァイロンは木の陰から離れると、海辺へと急いだ。  あの様子では、家にカイリがいるとは思えない。  あの奥様がたの噂話を信じるとすれば、カイリと謎の男は海で逢瀬を重ねているらしい。  思い当たるところのあったヴァイロンは、海辺の崖の間にできた場所へと走った。  海で遊んだ子どもなら知っている、でも大人になると忘れてしまうような、絶好の場所があるのだ。  海の波で侵食されて穴のあいた大きなトンネルのような崖の穴を潜ると、まるで隠し部屋のように開 けた砂浜が現れるのだ。  頭上には吹き抜けの岩穴の向こうに空が開け、細かい白い砂のたまった小さな空間は、静かにたゆた う海水の上にできた島のようにすら見えた。  足元の海水を荒々しく散らしながら、崖のトンネルを潜ったヴァイロンは、その先の砂浜の上にいる カイリと見知らぬ男の後姿に足を止めた。  男の首に腕を回し、男はカイリの腰を抱きしめ、何度もキスを交わす姿がそこにはあった。 「あ」  後退りしようとしたが、水の中で足をとられたヴァイロンが水音高く尻餅をつく。  その水音に振り向いたカイリと男と目があう。 「……ヴァイロン」  恥ずかしげに男の陰に隠れてしまったカイリに、ヴァイロンも水の中に尻餅をついたまま立ち上がる ことができなかった。 「なんだ、てめぇは? またあの男の手下かなんかか?」  背の高い、引き締まった細身の体と茶に焼けた髪の男が、カイリを背中に庇いながら凄む。 「違うの。彼は違う」  カイリは男の腕を引いて止める。  その声に凄んでいた目つきは緩めるが、情けない生き物を見下ろすように、男がヴァイロンを顎をあ げたままに見下ろす。 「何の用だ」  男が傲慢に言い放つ。  ロバートのような優男にはない、男のもつ魅力が発散されているのが、男のヴァイロンにも分かった。  力には自信のあったヴァイロンでも、戦ったら勝てないだろうと思える闘気や触れたら切れそうな危 険な空気が漂っている。  しかも首や耳に女のようにアクセサリーをつけているが、それが嫌味にならずに似合っていた。 「おまえがカイリの縁談を破談にした男か?」  水の中から立ち上がって言ったヴァイロンだったが、無様に膝が震えていた。  もし騙されているカイリのために戦うようなことになったら、殺されるような目にあうかもしれない と恐怖が走る。 「あ? カイリの縁談だ? あんなの縁談じゃねぇだろう。ただの権力をかさに欲しいものを泣き叫ん で手に入れようとする子どもの駄々だ。あいつがカイリを本気で愛してると思うか?」 「それは……」  そんなことは、ヴァイロンとて何度も考えたことだった。  それでも、あの家の女主人にカイリがなれたら、なに不自由ない生活が保証されるのだ。自分にはそ んなものは与えられない。だから泣く泣く手を引いたのだ。 「あの野郎、港でチンピラに絡まれた途端、カイリを差し出すようにしててめぇ一人が逃げ出しやがっ た。だから殴ってやったんだ」 「それで、あんたが代わりにカイリを守ってやったってことか?」  キッと睨みつけて問うヴァイロンに、男は太い腕を見せ付けるように腕を組む。 「美人の女を助けねぇで、誰を助けるって言うんだ? そんなこともできねぇような男は、金玉もぎ取 って捨てちまえってんだ」  さも最高の冗談を言ったように、男が声を上げて笑う。  その顔を見上げ、背後のカイリの背中を見つめる。  自分を助け出してくれた男の力強さに、その自信に、カイリは惹かれたのかもしれない。  そして男は、カイリの美しさに、まっすぐな性格に惹かれたのかもしれない。  カイリが恋を知って幸せなら、ヴァイロンも文句は言わなかった。  だが今の状況はどうみても、カイリを幸せに導くとは思えなかった。 「カイリは、この後どうしたいんだ? 家にはエリスン家の当主とロバートが来てたよ」  ヴァイロンの言葉に、カイリの背中が緊張するのが分かった。  カイリの家とて、しがないただの麦作りの農家だ。しかもその麦畑の土地を貸してくれているのがエ リスン家だ。事と次第によっては、カイリの家族は非常にまずい事態に陥る。 「ヴァイロン。でも、わたし……。わたしはこの人が……」  背中を向けたままに言う小さなカイリの声に、ヴァイロンは返す言葉もなくうな垂れる。  カイリはもしかしたら、家族からも勘当されるかもしれない。へたをしたら、この町にだって居られ なくなる。  それを覚悟してまで、この男の手を取るのか?  ヴァイロンはもう一度男をみやった。  よく日に焼けた腕がカイリの手を取り、ヴァイロンの進入してきた秘密の逢瀬の場所を去ろうとする。  その姿を目にしていて、不意にヴァイロンの頭を過ぎった考えがあった。  この男は、もしかして。 「おまえ、仕事はなにしてるんだ?」  横を通り過ぎようとしている男に問うた瞬間、鋭い横目がヴァイロンに投げかけられた。 「なんでてめぇにそんなこと言わなきゃならない?」 「その潮焼けした髪や肌は、海で仕事する男のものだ。でも、普通、この辺りの漁師は、あんたみたい にチャラチャラした飾りものを身につけたりはしないんだ」  ヴァイロンのその言葉に、男はおもしろそうに眉を釣り上げて笑う。 「だから?」  挑戦的な視線と口調で言われ、ヴァイロンの頭に血が上る。 「だからだと? おまえみたいな男に、カイリが幸せにできるっていうのか? カイリに大きな代償を 払わせるほどの価値が、おまえにあるって言うのかよ!」  ヴァイロンは目の前の男の白いシャツの襟首を掴みあげる。  だが、からかうような笑みを浮かべたまま、何の予告もなしに、男がヴァイロンの顔に頭突きを入れ た。  ほとばしる痛みと血に顔を抑え、ヴァイロンが再び水の中に尻餅をつく。 「やめて!」  カイリも悲鳴を上げて男の腕を引く。 「てめえもカイリが好きなのに、あんな間抜け男からカイリを守れなかった口なんだろ? 今さら文句 垂れにくるんじゃねぇよ」  嘲笑いの声に、ヴァイロンは鼻血を噴出しながら、勢いにのせて男の足に体当たりを食らわせて飛び 掛る。  だが男はそんな動きなど思いとおしであったのがごとく、カイリを抱えて飛び退る。  水音高く転がるヴァイロンを、カイリが心配そうに見下ろす。  その視線があまりに痛くて、ヴァイロンは咆哮をあげて男に掴みかかった。 「おまえみたいな海賊に、カイリをくれてやれるか!」  ヴァイロンは振りかぶった拳を男の頬に叩き込む。  わずかに痛そうに顔をしかめて一歩下がった男だったが、口から血を吐き捨てると、満足か? と目 で訴えかけてくる。  男はヴァイロンを押しのけ、カイリの手を引いて歩き出す。 「カイリ!」  ヴァイロンは立ち尽くしたままに叫んだ。  だが、振り返らずに立ち止まったカイリが言った。 「やめて、ヴァイロン」 「でも、そいつは海賊だ。ただのならず者だ。カイリを騙そうとしてるだけなんだ。お願いだ! 目を 覚ませ!」  だが振り向いたカイリの目に涙が浮ぶのを見て、言葉がつまる。 「やめて! わたしは今、はじめて幸せだって感じられているの。それを否定しないで。彼を否定しな いで」  だがそれは恋の一時の気の迷いだ。後で後悔しても遅いんだ!  ヴァイロンはいい尽くしえない言葉を持て余してカイリを見つめた。 「ダメだ。行くな、カイリ。そいつはカイリを絶対に幸せにはしない!」  どうか伝わってくれと大きな声を出したヴァイロンに、だがカイリは身を折るようにして叫ぶ。 「やめて! ヴァイロン。あなたのことは信頼してたのに。もう、大嫌いよ」  カイリが男の手を引いて走り出す。  そして男も、一瞬ヴァイロンを見て気の毒そうに肩をすくめてみせたが、カイリについて走り出てい く。  ただ一人、静かに寄せては返す波の音が反響する崖の合間に残されたヴァイロンは、呆然と立ち尽く すのだった。  悔しさに涙が滲んだ。  カイリを守れない悔しさ。あんなならず者にカイリを奪われる悔しさ。そして、何もできずに立ち尽 くすだけの情けない自分への悔しさ。 「カイリ……」  ヴァイロンの声が、崖の間を抜けていった。
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