「灼熱の太陽をこの手に掲げ」




7 せつない失恋の記憶
 家々に灯った明かりが、夜の訪れとともに空の星とともに輝きはじめた頃、海賊亭の親父こと、ヴァ イロンが部屋のなかをクマのように右往左往していた。  娘のチェルナットが帰ってこない。  あんなにもかわいい子が一人で歩き回っていて、もしやどこぞやのよからぬ事を考える輩に連れ去ら れたのでは。  ヴェイロンの脳裏に、「お父さん、助けてー!」と叫ぶ娘の泣き顔が、男の脇に抱えられた姿で浮ぶ。  ああ、チェスナット!!  居ても立ってもいられずに外へ探しに出ようと玄関に向う。  だがそのとき、玄関の外から話し声が聞こえて、恐ろしい妄想から意識が現実に戻る。 「ジョリー、送ってくれてありがとう。また明日ね」  愛娘、チェスナットの声だ。  玄関の戸口の前に仁王立ちして立ち尽くしているうちに、ドアが開けられ、笑顔で顔をほころばせた チェスナットが入ってくる。  なんだ、そのはにかんだような、込み上げてくる笑みを抑えられないような口元は!  心配がこうじて、呑気な娘の顔を見た瞬間に怒りに変わる。 「チェスナット!」  いきなり玄関に入ってすぐに、怒りの形相で仁王立ちする父親の怒鳴り声を聞き、チェスナットが飛 び上がって驚く。 「ヤダ! お父さんか。びっくりさせないでよ。お天気なのに、突然雷が落ちてきたのかとおもったじ ゃない」  少し茶目っ気を込めて言ったものの、すぐに父親の恐ろしげに眉の釣りあがった顔に、声が尻つぼみ で小さくなっていく。 「今、何時だと思ってるんだ」  チェスナットは、玄関の壁に掛けられた飾り時計を見上げていう。 「七時」 「もう、辺りが暗くなりはじめていることは、分かっているだろう。そんなになるまでどこにいた!」  聞きながら、ヴァイロンにはチェスナットがジョリーと一緒にいたのだということは分かっていた。  ジョリーが娘を送ってきたのだということは、先ほどの声でわかっていた。  だからこそ許せないという思いが強くなる。  あんな野郎と、こんな時間までどこで何をしていたんだ! 「どこって、ジョリーのママのおかげんが悪いっていうから、お見舞いに行ったのよ。おみやげにジョ リーと海でアサリ採りして。そしたらジョリーが夕飯を作ってくれたから、一緒にいただいてきただけ で」  ジョリー、ジョリー、ジョリー。  何度野郎の名前を連呼すれば気が済むんだ!  自然、ヴァイロンの顔色は、暗く沈んでいく。  しかもこんなにかわいい娘が、あの小汚いガキのことを好きらしいと感じるからこそ、腹立たしさは 何倍にも膨れ上がる。  あのクソガキは、あのカイリを捨てたバカ野郎の胤だっていうのに。 「男の家にこんな遅くまでいるなんて、十年は早いわぁ!!」  怒鳴り声を上げた瞬間、チェスナットの目がびっくり仰天と見開かれ、次に言葉の意味を理解した瞬 間、顔を赤くして嫌悪の目で父親をにらみつけた。 「なにそれ! 男って、ジョリーはわたしのお友達よ。お友だちのお母さんが具合が悪ければ、お見舞 いにいくのが当たり前でしょう。だいたい、お父さんが野菜を持っていけっていうから出掛けて行った のに、何よ!!」  涙目になったチェスナットが力の限りに叫び、全身から父親への反発のオーラを吹き上げる。  その姿を目にして、ヴァイロンは初めて自分がチェスナットに海賊亭の厨房をかたずけながらお使い を頼んだことを思い出す。  カイリが具合が悪いらしいとチェスナットに告げたのも、元をただせを自分だった。  ハッと気付いても、すでに口をついて出てしまったことは訂正できない。  動揺しつつ娘を見た瞬間、父親を打ちのめすロケットパンチにもにた言葉が放たれる。 「お父さんなんて、大嫌い! 変な勘ぐりして、いやらしいのよ!!」  チェスナットが泣きながら、二階の自分の部屋へと階段を駆け上がっていってしまう。 「チェスナット!」  いつの間にやら、声は迫力をなくして縋るような弱々しいものに変わっている。  だがそんな声を叩きのめすように、チェスナットの部屋のドアが拒絶と叫びながら閉じられる。 「ああ………、またやっちまった………」  大嫌い。  前にも言われて野郎に殴られた傷よりもズキズキと何日も疼いた日々が甦る。  ああ、女ってぇ奴は、どうしてこうも俺を打ちのめしてくれるんだろうなぁ。  胸のうちでぼやきながら、ヴァイロンはトボトボと肩を落としてダイニングに戻っていく。  そして娘がくるまで食べずに待っていた夕飯の席につくと、パンと千切って口に運ぶ。  かつてヴァイロンに手痛い心の傷を負わせたロケットパンチを放った相手の顔が、脳裏に浮ぶ。  ジョリーの母親、カイリの顔であった。 「カイリちゃん、婚約破棄ですってよ」  若かりし日の、今のようなヒゲも生えていない頃のヴァイロンが、母親とはじめた海賊亭の手伝いを していたときに耳に挟んだ噂話に、手にしていたビールのジョッキを落とした。 「ちょっと、ヴァイロン!」  大きな体を白いエプロンで覆った女将の声に我に返ったヴァイロンだったが、「すいませんね」と声 をかけて片付け始めた母親の横を離れると、声をひそめて噂話に興じている奥さま方に近づく。 「あの、カイリが婚約破棄って――」  いかつい顔の海賊亭の息子が近づいてきたのに恐れをなし、身を寄せ合って顔を見合わせた奥様方が、 しばらくして頷く。 「なんで」  呆然とつぶやくヴァイロンに、奥方の一人が訳知り顔で言う。 「原因はカイリちゃんの浮気だって噂よ。あんな素敵なロバートさまに見初められながら、海で違う男 と逢引しているのを、見つかったって」  カイリが浮気だと!?  ヴァイロンの顔色が一気に変わったのに気付き、奥方たちが再び恐怖で身をすくませる。  まるで飢えた野獣の檻の前に立たされている気分だったのかもしれない。  あのバカ。何をやってやがる!  ヴァイロンが胸の内で怒鳴り声を上げる。  だが、同時に。 「馬鹿息子! なにお客様に凄んでやがる」  バチンと音を立てて、女将の平手がヴァイロンの頭を殴る。 「痛」  頭をさすって振り向いたヴァイロンに、女将は顎をしゃくって厨房に行けと命令を出す。  そして再び奥方たちに「すいませんね、図体ばかりがデカイ、役に立たない息子でして」などと 謝っている。  図体はでかいが、母親に首輪をつけられたクマだと噂される、海賊亭のいつもの光景だった。  厨房に戻っても、仕事が手に付かずに皿を割る息子に、大きくため息をついた女将は、息子の耳をひ いて店の裏口から連れ出す。 「あたたた、母ちゃん、痛いって」  耳たぶを千切れるかと思うほどに引っ張られたヴァイロンが訴える。 「いちいち小さいことにうるさいよ」  息子の耳から手を離し、腰に手を当てて睨みを聞かせて立つ母親をうな垂れて見るヴァイロンに、女 将はため息をつく。 「あんたがカイリちゃんに惚れてることは知ってたよ。あんな美人に、野獣みたいなあんたが似合うは ずはないと、自ら悟ったかと安心していたけど、どうやら心底納得はしてなかったみたいだね」  初めて自分の恋心を言い当てられたヴァイロンは、首まで赤くしてうつむく。 「まったくデカイ図体で、かわいくもない」  モジモジするヴァイロンを見上げながら、息子に向けるとは思えない冷たい視線で女将が言う。 「いいかい。カイリちゃんがたとえ婚約破棄しようと、おまえには関係がない話だろう。チャンスは回 っちゃ来ないんだから」  その断罪ともいえる言葉に、まさしくガーーンという効果音が見えそうな顔で後退さるヴァイロン。  そんな息子に、女将は汚い野良犬を追い払うように手で払う。 「ああ、もうバカな子だよ。今日はもういいよ。役に立たないばかりか、足手まといだからね」  白いエプロンのリボンを、牛のシッポのように大きな尻の上でヒラヒラさせながら、女将が海賊亭の 中に戻っていく。  それを見送って、呆然としていたヴァイロンだったが、これ幸いとエプロンを脱ぎ捨てると駆け出し ていくのであった。  カイリ、バカなことするなよ。でなきゃ、泣く泣く諦めた俺の夜の涙が無駄になるじゃないか!  心の中で叫ぶヴァイロンの背中を、厨房の窓から見送っていた女将が、苦笑まじりのため息で見送る のであった。
back / top / next
inserted by FC2 system