「灼熱の太陽をこの手に掲げ」



9  チェスナットの寝顔
 皿を洗いながら昔の回想を断ち切ったヴァイロンは、チェスナットに今年の誕生日にとプレゼントさ れたエプロンを外す。  とてもじゃないが自分のような大男に似合うはずもない、オレンジのチェック柄にひまわりの刺繍と いうものだったが、毎日大事に使っている。  毎晩こっそりと隠れるように作っていたのを知っていたからだ。  何度も針で指を刺したらしく、部屋から「いたっ!」という声が上がっていた。  そんな心をこめたプレゼントをしてくれる、優しい娘なのだ。  そっと階段を上がり、チェルナットの部屋の前に立つ。  部屋の中は静まり返り、聞こえてくる物音一つない。  ドアの鍵穴から中を覗くも、真っ暗で部屋の明かりが点いている様子もなかった。  そっとノブを握り、ほんの少しの隙間から中を覗く。  廊下から差し込んだ細い光の先にあったのは、あどけないチェスナットの寝顔。 「なんでぇ。寝てやがるのか」  ほっと胸を撫で下ろし、部屋の中に足を踏み入れる。  顔が赤く日焼けしている。  きっとジョリーとしたアサリ拾いでどっと疲れてしまったのだろう。  服のままベットの上に転がって寝ているが、着替えさせてやるのも難しい年頃になってきた娘に、苦 笑を浮べながら靴だけは脱がせ、足元に畳まれた布団を掛けてやる。 「いっぱしの女みてぇな口を利きやがるからな、こいつも」  額にかかった前髪を撫で梳かしながら口元に笑みを浮かべる。  カイリは結局あの海賊との関係を認め、家から勘当された。それでもしばらく幸せそうではあった。 男と一緒に小さく粗末な漁師小屋で暮らし始めたのだ。  だが、ヴァイロンの予想通りのことが起こった。カイリを残し、海賊は海へと戻っていってしまった のだ。  粗末な小屋に一人残されたカイリを、誰一人助けようとするものはいなかった。  助けたいのは山々だったのだが、エリスン家の目を気にしたのだ。  ここいら一帯の農家は、ほとんどがエリスン家の土地を借りているに過ぎない水のみ百姓だからだ。  そのうちしばらくして、カイリが妊娠しているという噂を聞いた。  もともと体が弱くて、今では食べるにも困るような生活をしているカイリが、一体どうやって子ども を産み、育てていくというか。  気を揉み、だが男の自分になにができるのなんて分からないままに、家の前にそっと食べ物を置いて くるだけの日々が続いたのだった。  ジョリーを産むのにも、手助けに入ったのは、ヴァイロンの母親、海賊亭の女将だけだった。 「うちは百姓じゃないしね、エリスンの旦那だって、うちの料理のファンなんだ、一時お怒りになった って、うちの味を恋しさにやって来ること間違いなしだよ。それに、カイリちゃんの命と比べりゃ、エ リスンの旦那の怒りなんて吹けば飛ぶ埃と同じだよ」  だからカイリがジョリーを産むときに側にいてやったのは、海賊亭の女将であり、ジョリーを最初に 抱いてやったのもヴェイロンだった。  だからジョリーのことが可愛くないわけではない。だが、同時に納得できない思いもわだかまりのよ うに残っているのだ。   「かわいい赤ん坊だったな。あんなに小さいもんなんだな」  夜中に生まれたジョリーに乳を飲ませたところで、ヴァイロンと女将は家へと帰ることにしたのだ。  星空がキレイな晴れ渡った夜だった。 「そうさ。あんたみたいなのだって、生まれたばっかはそりゃ抱き上げれば壊れるんじゃないかと思う ほど小さくてね。顔を真っ赤にして泣いたって、どこの子よりもかわいいと思ったもんだよ」  昔を思い見て懐かしそうに目を細める女将に、ヴァイロンも照れたように頭をかいた。  だが、そんな真綿にくるまれたような幸せな空気を壊すように、女将が言った。 「ヴァイロン。あんた結婚しな」 「え? 誰と?」  まっすぐと前を見据えて反論は許さないと強い光を秘めた母親の顔を見つめ、呑気に頭に浮んだ考え は消え失せた。  カイリとのはずがない。 「従姉妹のメアリーだよ。話はつけてある」 「メアリー?」  隣り町に住んでいる女将の妹の子どもだ。  小さい頃から行き来はあったのだから、知っている。勝気で何事も自分の思い通りにならないと泣き 喚いてヴァイロンのことでもぶん殴るような女の子だった。  あんな女のにも見えないようなのと、どうして俺が結婚しなけりゃならない。しかも親の言うなりに なってなど。 「嫌だとは言わせないよ」  鋭い睨みで言われたヴァイロンは、言い返すこともできずに口を開けたまま母親の決意が滲み出る顔 をみつめた。 「……なんで」  そんな馬鹿な言葉しか出てこない。  そんな息子に、女将は弱みを見せてなるものかと唇をぎゅっと硬く結び、前を向いて歩き出す。 「このままあんたがカイリちゃんの周りをうろうろするのを黙っているわけにはいかない。今日を限り にカイリちゃんのことは忘れるんだ」 「でも、あのままじゃ、カイリも赤ん坊も生きてやいけないだろう」 「……それもあの子が選んだ生き方なんだよ。最低限の助けならわたしがする。でもおまえはダメだ。 おまえには、ちゃんとした娘と結婚してあの店を継いでもらわなきゃならないんだから」  ギュッと拳を握って母親の横顔を見たヴァイロンだったが、次の言葉に握った拳さえ力が抜けてしま ったのだった。 「もう諦めな。カイリちゃんはもう、行っちまった男に心捧げちまってる。そんなカイリちゃんでも、 おまえは一人でいたら諦められずに追いかけちまう。……自分の子どもの一人みたいに思っていたカイ リちゃんが不幸になるだけでも、もう堪らないんだよ。あんたにまで、不幸になられたら……」  声が震えていた。  気丈に空を見上げた顔は、いつまでも強い越えられない母の顔のままであったが。  ヴァイロンはメアリーと結婚した。  だがメアリーはチェスナットを産んで半年でヴァイロンの元を去ってしまった。  原因はカイリを忘れられないヴァイロンだった。  癇癪を起したメアリーが、ヴァイロンの腕にチェスナットを押し付けて出て行ってしまったのだ。 「困った子だよ。いつまでも初恋を引きずって」  女将はそうは言ったが、ヴァイロンを責めようとはしなかった。  その母も、チェスナットが三歳を迎えた夏に亡くなった。  ヴァイロンは眠るチェスナットの布団の中に、いつも大事に抱いて眠る縫いぐるみのクマを入れてや る。 「おまえには、俺の勝手で母ちゃん奪っちまって苦労させてるよな」  男手一つで育ててきた娘は、だが誰よりも可愛らしく立派に育ってくれた。  絶対に手離したくないほどに、目に入れても痛くないと本気で思うほどに愛しい娘だった。  でもそんな娘も、次第に成長して父親から手を離すようになるのだ。 「ジョリーが好きか?」  悪い奴じゃないがな。でも、あんな貧乏じゃ、チェスナットが苦労するのが目に見えている。ぜって いダメだな。  昔勝手に縁談を決めた母親を恨めしく思ったこともあった自分が、今度は娘の恋人に目くじらを立て るような時がきたのだと、自分の歳を思って苦笑する。 「幸せになりな、チェスナット」  ヴァイロンは娘の頭を一撫ですると部屋を後にした。  明日からは、また忙しい海賊亭を切り盛りする日々が始まる。  窓の外の夜空は、晴れ渡って星の煌めきをまとっていた。 「明日も天気が良さそうだ。ジョリーの小僧もめいっぱい働かせてやるさ」  ヴァイロンは笑い声を上げて階段を下りていった。
back / top / next
inserted by FC2 system