第八話



 すすり泣く女の子の声が聞こえる。
 窓の外を眺めていたサイドルは、うたた寝から覚めたように、ハッと頭を起した。
 ここはどこだ?
 また移動している。
 窓にかかっているのは外からの目隠しで、黒く汚れた布は、不器用に画鋲で止めてあるだけだった。
 その窓辺で、そっと隙間から外を覗くと、ゴミ溜めとしかいいようのない裏路地が目に入る。
「おい、サイドル、てめえ居眠りしてやがったな」
 背後でした声に振り向き、名前は思い出さないが、見知った顔を見てサイドルは曖昧な笑みを浮かべ
た。
「……ごめんなさい」
「は! それであいつの弟だっていうんだからな。きっとおまえの淫売の母親がどっかでこさえてきた
のが、お前なんだろうな」
 スキンヘットの男が、サイドルの髪を掴んで上向かせるとその顔を見て嘲笑う。
「いつ見ても女みてえな面だ。釜掘られないようにせいぜい気をつけることだ」
「……うん。ありがとう」
 男はサイドルの長い髪にキスをすると、部屋から出ていく。
 サイドルはガラスに映った自分の顔を眺めた。
 これが俺の顔か……。
 細面の白い顔は、たしかに女の顔だった。
 だが体は明らかに男の体であって、胸もなければ肉付きの薄い体は薄く纏った筋肉の形も露わなもの
だった。
 思わず自分でズボンの中味を確認する。
「あ、よかった。男だ」
 その間抜けな自分を見守る視線に気付き、サイドルはズボンを広げたまま視線の方向に目をやった。
 そこに、涙目で自分を見ている小さな女の子の姿があった。
 明らかに誘拐されてきた子どもという感じで、ロープで縛られて拘束され、猿轡をかまされて泣いて
いた。
 キレイな金髪の巻き毛とピンクのドレスを着た女の子は、サイドルに見られていることに気付き、目
を見開いていた。
「やあ、こんにちは」
 ズボンを元に戻しながら、サイドルは挨拶をした。
 その声に、女の子がビクっと体を縮めた。
 こんなとき自分がどんな行動をすべきなのかがわからなかった。
 トニーのときとは明らかに違う。
 自分をよく知る人たちの中で、自分が何者なのかさえ分からずに行動するのは恐ろしかった。
 ヘマをしたらどうなるか分からない。
 とくに自分が身を置くこの集団は、常識的な人間の集まりだとは思えなかった。
 サイドルは女の子が怯えるのは分かっていたが、その目の前に座り込むと目線で話しだした。
「猿轡、苦しいでしょ? さっきの怖いおじさんが戻ってくるまでだけど、叫んだりしなければはずし
て上げる。ちょっと暇だからお話しようよ。ね?」
 にこやかに微笑んで言うサイドルに、女の子が言葉の意味が分からないようにただ怯えているだけだ
った。
 ここに来るまでに怖い思いをしたのだろうから仕方がない。
 そっと手を女の子の頭に持って行き、竦められた首に憐れさを感じながら、いい子いい子と撫でてあ
げる。
「ごめんね。ぼくには力がないから、助けて上げたくても助けて上げられないよ。今起きていることも、
よく分からないし」
 困惑しながら独り言のように言ったサイドルを、女の子が下から見上げていた。
 そして何かを訴えて唸り声を上げた。
「何? 猿轡はずす?」
 女の子がうなずく。
「大声出さないでね。ぼくまで猿轡外したのが分かったら打たれると思うから」
 再び女の子がうなずく。
 それを見てサイドルは猿轡を緩めて顎へと下げてやった。
「……あ、ありがとう……」
 律儀に頭を下げてお礼をいう女の子に、サイドルはどういたしましてと返事を返す。
「君の名前は?」
「……エリザベス」
「へぇ。いい名前だね。すごくお金もちって感じの名前」
「……だから誘拐したんでしょ? おじいちゃんが有名だから」
 女の子がサイドルには危険を感じないからか、様子を伺いつつも正直に話し始めた。
「おじいちゃんが有名なの?」
「うん。上院議員っていうお仕事してるの」
「ああ、政治家か」
 サイドルはエリザベスの隣りに腰を下ろすと、うなずいた。
「ねえ、知らないでわたしを誘拐したの? あなたがわたしをココに連れてきたんだよ?」
「ぼくが?」
「……知らない振りするのは良くないよ。悪いことしたらごめんなさいって謝ればいいんだから」
 エリザベスは自分自身がいつも言われているのであろうことを、口を尖らせて言う。
「そうだね。ごめんね。でも本当にぼく何にも覚えてないんだ」
「病気なの?」
「病気? ……そうなのかな? 気がついたら違う場所で違う人になっちゃうんだよ、この頃」
 自分でもなぜこんなに素直に少女に自分のことを語るのか分からずに、サイドルは語っていた。だが
今自分に危害を加えずに知っていることを話してくれそうなのは、残念ながらこのエリザベスしか見当
たらない。
「エリザベスが知っていることだけでいいから、ぼくが何をしたのか教えてくれる?」
「……うん。お兄ちゃんが来たのは、わたしのピアノの発表会の時だった。バイオリンを持っててね、
今日の演奏を一緒にするんだよって握手してくれた」
 トニーとの符合点。バイオリン。
「名前はなんて言ってた?」
「……覚えてない。でも有名なバイオリニストだっておじいちゃんが言ってた。発表会で一緒に弾いて
もらえるなんて凄いぞっておじいちゃんが喜んでた」
「ふ〜ん」
「バイオリン弾けるの?」
「いや、全然」
「やっぱりね。最初に見たときから、わたしは変だと思ったんだ。弓の持ち方もなってなかったもの」
 物怖じしない喋り方になってきた女の子に、サイドルは小さく笑い声を上げた。
「鋭い観察眼だね。で、そのあとはどうなったの?」
「あなたが皆さんをあっと驚かせるために、二人だけで練習させて欲しいって言って、練習室に行った
の。そしたらあなたが練習室の窓を開けて男たちを部屋に入れた。あとは良く覚えてない。気付いたら
ここにいた」
 かすかに怯えた目で語るエリザベスに、サイドルは手をつないであげると微笑んだ。
「ということは、ぼくが誘拐犯?」
「……そうだと思うけど」
「でも……、ここに来てからはずっと使われっぱなしだよ。いじめられてはいないみたいだけど」
 まさしくその時、部屋の向こうから大声が響いた。
「おい、サイドル。みんなの昼飯買って来い」
 さきほどのスキンヘットの男の声だった。
「うん。わかった」
 大声でそう返してから、サイドルをエリザベスを見て笑った。
「本当だ。ぼくは使いっ走りなんだ」
 エリザベスもはじめて笑みを浮かべる。
「エリザベスにも何か買ってきてあげるね。何がいい?」
 だがそんな優しい言葉に、エリザベスは言い難そうに俯くばかりだった。
「なんでもいいんだよ」
「……欲しいものなんてない。お父さんとお母さんのところに帰りたいだけだもん」
 エリザベスの目に涙が浮ぶ。
 そればっかりはどうしようもできないよ。
 サイドルも泣きたい気分でエリザベスの口に猿轡を戻す。
 その行為をショックそうに見上げていたエリザベスに、サイドルは困った顔で微笑んだ。
「ごめんね。でも、本当にエリザベスのために、何か買ってきてあげるからね」
 汚れて丸まった毛布の上に突っ伏して泣き声を殺すエリザベスを見下ろしながら、サイドルは部屋を
後にした。




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