第六話



 ホテルの玄関に、タクシーがすべり込み、手をあげて立っていた女性が乗り込もうとしていた。
 細い体つきはワンピースの下の背中を見ても分かる。
 茶色のすこしパサついた髪を後頭部で一つに縛り、装飾品一つつけていない手は、苦労の痕を語って
いた。
「かあさん!」
 トニーが声を上げた。
 切迫した、時間さえも止めたいと願う悲痛な声が、ホテルのエントランスに響いた。
 大きな声に皆が振り向くが、トニーはその視線の中を、母の小さな背中だけを見つめて走り抜けてい
った。
 女が振り返る。
 ああ、トニーの母親だ。
 一見してわかるよく似た面差しだった。
 息子の走り寄る姿に目を見開き、一瞬の逡巡が瞳の上を過ぎる。
 このまま立ち去るべきなのか、それとも自分を求めて手を伸ばしてくれている息子をこの腕に抱きし
めるべきなのか。
 演奏会に出かけてきたにしては質素な、一昔前のデザインのワンピースだった。
 だがそれが彼女の精一杯のおしゃれであることは、男にも見てとれた。
 トニーの後を追って走りながら、息を切らしていた。
 一時も緩まないその足の速さに、男はトニーの母親を思う気持ちの深さを思い知っていた。わき目も
振らずに、なんとかして母の手を取ることだけを夢見て、必死で走っていく。
 タキシードを着た紳士の背中が、なぜか母を求めて必死で彷徨う迷子の子どものように見えた。
 不安と張り詰めた緊張を解きほぐせるのは、母の腕だけなのだ。
 トニーは今、その腕を求めている。
 トニーがもどかしげにホテルの回転ドアを抜けていく。
 その時だった。
 母親が乗るために止めたタクシーの横に、2台の車がタイヤの金きり声を響かせながら横付けされた。
 人相の悪い男たちが降り立ち、周囲を威圧して眼光を巡らせた。
 その一人が、進路を塞ぐように立っていたトニーの母親を突き飛ばす。
「ばばあ、邪魔なんだよ。お前みたいなのが、来る場所でもねえだろう?」
 母親は固いエントランスのレンガの上で転がされ、したたかに腰を打ちつけた。
 痛みに顔をしかめながらも、文句一つ言わずにその場を離れようと体を後ろに後退さらせた。
 人相の悪いがその様子に下品な笑い声を上げる。
 だがつぎの瞬間、その男の顔が勢いよく殴られ、後方に吹っ飛んだ。
「てめえ、絶対に許さねえ!!」
 トニーが母親を殴った男に馬乗りになって殴りかかった。
 後から追いついた男は、トニーを後ろから羽交い絞めにすると、殴られて鼻血を出した男のうえから
引きずり下ろした。
「トニー落ち着け。君にはこれから演奏があるだろ。手を大事にしろ」
 トニーの拳は鼻血で真っ赤にそまり、白かったワイシャツにも無数に血が飛び散っていた。
「ああ、トニー。お前の母親か、これが」
 車から降りてきた男の顔に、トニーが気色ばみ、男も喉の奥に悲鳴を上げた。
 初めて見た顔のはずだった。だが男にはすぐにこの男が誰なのか分かった。
 トニーの手にかつてナイフを突き刺した男だ。
 細い目を覆っていたサングラスを外すと、ヘビの眼光に似た冷えた視線がトニーと男を見据えた。
「今日はおまえの晴れ舞台だって聞いたから、わざわざ来てやったんだぜ。おまえの演奏をぶっ潰して
やろうと思ってな」
「サンドラ、貴様!」
 男の羽交い絞めを解こうと暴れるトニーを必死に押さえつける。
 サンドラと呼ばれた男は、高そうな白いスーツの胸から何かを取り出す。
「おい、そこの男。そのままトニーの野郎を押さえててくれよ」
 サンドラが切れそうな笑みを男に向けた。
 男はその目に射すくめられた蛙のように、ただ目を見開いていることしかできなかった。
 俺は、トニーにきちんと演奏をさせてやりたくて押さえているだけだ。
 脳裏ではっきりと主張する自分の声が聞こえた。だが、腹のそこから湧き上がってくるどうしようも
ない恐怖心に、腰が砕けそうになる。ともすればちびってしまいそうだった。
 サンドラが持ち出したのは、あのナイフだった。
 かつてトニーを串刺しにしたのと同じナイフ。
 サンドラはそのナイフを舐めると、すっと構えた。
「もう一度、おまえに勲章をくれてやる」
「やめて!!」
 そのサンドラの足に、それまで沈黙を保っていた母親が掴みかかった。
「お願い、やめて!! 」
 体を張ってサンドラの動きを止めようとした母親に、サンドラがつばを吐きかけると、ナイフを下に
振り下ろすように持ち替えた。
 その動きに男は思わずトニーを拘束する力を緩めた。
 トニーが動きだす。
 力を乗せて振り下ろされようとしていたナイフの先に自分の体をもぐりこませ、母親の盾になろうと
する。
 ああ、これがトニーの手を奪う事件になるんだ。
 そんな感想を持ちながら、男は萎える足でサンドラに飛び掛り、その腕を握った。
「やめろ! トニーの手を奪わないで!」
 男の腕を振り解こうとしたサンドラの荒い動きに、ナイフが男の顔を切り裂いた。
 まぶたの上を走ったナイフの煌きに、一瞬で視界が赤く染まる。
 ざっくりと切り裂かれた頬が熱を持って脈打っていた。
 痛い!
 怖い! 
 それでもトニーを守りたかった。
 なぜか目の裏に飛び交う蝶のように揺らめく記憶が見えていた。
 まだ少年の日のトニーが、自分に向けてバンソウコウを差し出してくれていた。
「おまえはおまえのままでいいんだよ。サンドラになんてならなくて」
 はにかんだトニーの笑顔が眩しかった。
 トニーは、たぶん自分の唯一の友だちだったのではないのか?
 男はサンドラのナイフを手の中に握った。
 手の平に滑るように食い込んでくるナイフの冷たい感触に笑いながら、男はサンドラの首に手をかけ
た。
「調子にのるのも大概にしておけ。おまえはただの社会のおちこぼれだ。這い上がった者を蹴落とす権
利も力もありはしない」
 力をこめた指が、サンドラの首に食い込む。
 だがその体は簡単に宙に投げ飛ばされた。
 飛ばされながら、男は目に写る全てを見守った。
 自分の顔をじっと見つめているトニーの顔。
 そのトニーに守られた母の泣き顔。
 ホテルの中から走り寄せるガードマンの群れに遠くから聞こえるサイレンの音。
 もう、これでトニーは大丈夫だ。
 地面に打ち付けられる衝撃に備えつつ、男は意識を失った。





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