第五話



 演奏会の開始まであと1時間。
 あのバイオリン奏者トニーが手を失うと言われている時間まで30分。
 テラスの喫茶店を後にしたあとも、男はトニーの様子を見守り続けた。
 テラスを見張っているのにちょうどいい花屋の軒先から、店員に煙たい顔をされながらや、本を読む
ふりでテラスの隅の席にもどってみたり。
 だが今は自分の楽屋に戻ったトニーを見届け、楽屋近くの廊下の壁に立っていた。
「俺はストーカーじゃないっていうのに」
 男はため息まじりで半ば呆然として、目の前を忙しそうに行き来する人を見ていた。
 キレイに着飾った女性の演奏者が緊張した面持ちで通り過ぎたこともあったし、演奏に失敗して壁に
穴が開くほど殴りつけていった男もいた。
「こんな演奏直前で、なにがあって手を失うっていうんだよ」
 男はぶつぶつと文句を言いながら、沈黙を保っているトニーの楽屋のドアを見つめた。
 何の音も聞こえてこない。
 ここ数十分は人の出入りさえなかった。
 今あの楽屋にはトニーが一人でいるのだ。
 音楽への集中のために一人、精神の深遠に立っているのだろう。
 自分にもそんな経験があったような気がした。
 そう思って深く思考しようとすると、尻尾をかすかに見せて姿を消すネコのようにするりと手の中か
ら逃げていってしまう記憶。
 だがなんとなく思い浮ぶのが、手に汗をにぎってすわり込んでいるときの激しくうつ鼓動の響きだっ
た。
 目を瞑って落ち着けと言い聞かせる。
 大丈夫だ。自分に自信を持て。
 そう言って自分に語りかけたことがあったような気がした。
 そう思ったとき、自分が再び胸のボタンを撫でていることに気付いて慌てて手を離した。
 この癖は、トニーの話していた不良グループのリーダーで、彼の手の平をナイフで突き通した男の癖
なはずだ。
 いつからこんな癖を持っていたのか検討もつかなかった。
 だいたいにおいて、癖を自覚することのほうが稀なのだから、分からなくて当然かもしれないが。
 自分はもしかしたら、あのトニーを切りつけた男なのではないか。
 そんな思いが心を過ぎっては、まさかという思いがそれを打ち消す。
 あの、人を傷つけることに狂喜する顔が、かつての自分の顔だとは思えなかった。
 それならなぜ、あんな記憶を持っているのか、こんな癖があるのか、説明がつかないのだが、自分の
中の本能がそれを否定していた。
 俺はあんな大それたことをする人間ではないはずだ。
 その時だった。
 沈黙を保っていた楽屋から音が聞こえた。
 携帯電話の着信音。
 初期の何の変哲もないピリリリリという音が、聞えてくる。
 楽屋の中でイスから立ち上がる音がもれる。
 こんな演奏前の大切な集中の時間に、いったい誰が電話を。 人事ながら、そう苛立つような気分で
聞き耳を立てていた男の耳に、トニーの大きな声が聞こえた。
「待って、待ってくれ。母さん。行くな」
 その叫びとともに、トニーが楽屋のドアから勢いよく駆け出した。
 手には携帯電話を握り締め、必死に何かを叫びながらホールの玄関に向かって駆けていく。
「おい、ちょっと待てよ!」
 男もその後を追って走り出した。
 走りながら男は腕の時計を見た。
 あの予告の時間まであと2分に迫っていた。




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