第四話



 コーヒーを片手に外に張り出したテラスで庭の風景を眺めているのは、あのバイオリン奏者、トニー
だった。
 トニー・ジョーンズ。ジャズバーでバイオリンを弾いているところを見出され、クラッシックの世界
に転向。師について修行すること5年で頭角を現し、今回のコンクールで入賞するこが海外への留学獲
得への条件となっている。元は街にたむろす不良少年だった彼が、音楽の世界に見出され、成功者とし
ての道を歩み始めたことが注目される要因にもなっていた。
 そこまでを調べたところで、男はトニーの側へと歩いていった。
「やあ、トニー・ジョーンズだね? 初めまして。ライターのヒューだ」
 男はあえて砕けた言葉で話し掛けると、トニーの前に手をさし出した。
 そんな男を、トニーは笑顔一つ浮かべずに見上げた。
「おっと、黄金の腕をそう簡単には握らせては貰えないか」
 男は気さくな笑みを浮かべてさっさと手を引っこめた。
 そしてトニーの隣りの席に座ると、ウェイトレスにコーヒーと叫んだ。
「さっき、君の演奏を聴かせてもらった。リハーサルのね。とてもよかった」
「それはありがとうございます」
 お礼の言葉を口にするトニーの言葉には、しかし少しの有り難味も滲んではいなかった。
 はっきりと迷惑だという空気感が漂っていた。
「君の演奏には、なんというか、凄みと、同時に哀愁が漂っている。そんな風に感じるんだがね。他を
圧倒するほどの力強さと同時に、その力では決して手に入れることのできないものに対する愛着と寂寥」
「何に対する愛着だと?」
 トニーが顔を男から背けたままに聞いた。
「さあ、何だろな?」
 男はそこで腕を組んで唸ると、トニーの横顔を伺った。


 少なからず、男に興味を示し始めている。
 トニーがコーヒーのカップを手にした。
 ソーサーにそえられた左手の手の平が見えた。
 引き攣れて白くなった傷がそこにはあった。
 あの脳裏をよぎった映像と寸分違わぬ場所に。
「誰しも、愛情には飢えている。一人で生きてやるっていきがってみたところで、所詮人間は弱い。支
えてくれる手が欲しい。恋人でも友人でも。…親でも」
 その瞬間、トニーの顔に少しの変化がよぎったことを男は見逃さなかった。
「今日のコンクールには、君のお母さんも来るのかい? さぞかしご自慢の息子さんだろうに」
 男はウェイトレスの運んできたコーヒーを一口飲みながら言った。
 トニーは口の端に苦笑をのせた。
「母にとってわたしが自慢の子どもであったことなんてありはしない。いつも手に余る、危険で野蛮な
野獣より性質の悪い存在だったろう」
「それは昔、不良少年のグループに入ってたってこと?」
「不良少年のグループね」
 トニーは男の方に体を向けると、その目を見た。
 音楽に没頭した真摯な男の目に、ふさわしくない危険な光が灯る。
「そんな生易しい言葉に括れるようなところじゃなかった。強盗、強姦、殺し意外のことは何でもやっ
た。そんな仲間でも、いないよりはましだった。いつもつるんで、世界の端っこでそれでも宇宙に弾き
飛ばされてなるものかってしがみ付いてるようなもんだ。だがな、そんな仲間はもろい。疑い一つで制
裁が待っている」
 トニーの挑戦するような口調と目を見ながら、男は自分の左手を示した。
 そのしぐさに、トニーがうなずく。
「グループの頭をはっていた奴の女が、陰で俺を誘惑していた。それをチクった奴がいたんだな。半殺
しの目にあった。あの時の奴の顔は忘れられないな。あれは自分の女が盗られたなんて少しも思ってい
ない、ただいたぶることに喜びを覚えるサドの殺人鬼の顔だった」
 トニーはそこまで言うと、不意に顔から危険な匂いを殺ぎ落とした。
 そして人好きのする笑顔を見せると、傷痕の残る左手を見た。
「でもこのおかげでバイオリンに出会えた。とても感謝できるような事件ではなかったが、何事にも意
味があることを知った。だから、今は自分を生んでくれた母に感謝してますよ。
だから今日も、ぜひ母には来て欲しいと思っています」
 苦悩という壁に逃げずに乗り越えた自信が、トニーの全身から発散されているような気がして、男は
居心地の悪さを感じた。
「その君に怪我を負わせた少年はどうなったんだい?」
「さあ。でもあの世界で頭をはっていた人間は、そうそう易々とあの世界から抜け出ることはできない
。どこかの闇の世界で生きているか。あるいは、刑務所か。もしかしたら、もう生きてはいないかもし
れない」
 トニーはそんなことを真剣な顔で聞く男を怪訝な顔で見た。
「いや、君がそんな酷い過去の出来事を、すっかり許しているようだから、すこし不思議に思ってね」
「視点が変わっただけです。力で人を支配することにだけ精力を傾ける世界では味わえない光景を今の
わたしは手にできている。あんな底辺の世界でトップになることだけを目標にしている人間と同次元に
なることを捨てたんです。ただそれだけ」
 男は冷や汗が流れそうになるのを押さえながら、うなずいた。
「そういえば、あの男には癖があったな。緊張すると、しきりに胸のボタンを掴んで撫でるんだ」
 男はまさしく自分の手が、服の胸ポケットのボタンを掴んでいるのに気付いて手を止めた。
 そしてトニーの目が自分と同じようにその手を見ていることに気付いた。
 男は慌てて手をボタンから離し、その手を空中でヒラヒラさせた。
「いや、これは。なんだ…」
「そんなに慌てなくても、同じ癖の人間なんてどこにでも居る。それに、あなたはあの世界に所属して
いた人間の空気を持っていない」
 トニーは笑顔で答えると、右手を差し出した。
「思いのほか楽しくお話できた。わたしはもう少しここでゆっくり演奏前の心の準備をさせてもらいま
す」
 男はトニーの右手を握ると立ち上がった。
 握手した自分の右手が、緊張の汗に濡れていた。




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