第三話



 人にぶつかっては、舌打ちや罵声を浴びながら、それでも一目散に何からか逃げるように歩き続けた。
 そしてスタッフルームの文字に、用心深くドアを開け、部屋の中をうかがう。
 部屋の中には誰一人、人の姿はなかった。
 ずらりと並んだロッカーと、ゴミが転がる狭い部屋だった。
 男は部屋の中に転がり込むと、そのままドアにもたれかかるようにして床に座り込んだ。
 あのバイオリン奏者の幼少時の写真を見てから、脳裏をフラッシュバックのように瞬く映像はやむこ
とが無かった。
 それも凄惨で残酷なリンチのシーンだった。




 ナイフが刺さった手を抱え、苦悶の叫びと涙で許してくれと訴えをする少年を、殴り、蹴り続ける。
 それが他人の視点で見た映像ではなく、あたかも自分がその少年を襲っている視点で脳裏に再生され
ていく。
 少年からそらされた目は仲間の賞賛を求めて巡らされ、ナイフを手の中で器用に操って銀の光を天に
突き立てる。
 明らかにこの凄惨な暴力行為に酔っていた。
 この映像を実際に見ている視点の人間も、自分の力の行為に酔いしれ、今の自分も、血の匂いに酔っ
ていた。
 吐き気がこみ上げる。
 男はロッカールームにある、すでにゴミで溢れかえっているゴミ箱に顔を突っ込むと、胃の中にある
ものを全て吐き出した。
「あの少年は、絶対にあのバイオリン奏者だ」
 男は額に浮いた脂汗と口ものの汚れを腕で拭うと、立ち上がった。
 水道で口をゆすいで顔も洗う。
 そして掃除夫としての制服の胸に記された氏名を目にとめ、その名前と同じロッカーを開けた。
 ロッカーの中には、几帳面にハンガーに吊るされた服と、髭剃りやブラシなどの身の周りの品がきれ
いに納められていた。
 男はそのロッカーにも違和感を感じながら、その服を身につけた。
 真っ白で染み一つないシャツに袖を通し、ベルトのついた黒いスラックスに足を通す。
 ロッカーの底にあった黒い革靴をはき、髭をそり落とす。
 そうして鏡を見れば、とても先ほどまでそこにいた死にそうな顔をした男と同一人物には思えなかっ
た。
 最後にブラシで髪を後ろに撫でつけ、男は目を瞑った。
 自己暗示に掛けていく。
 自分は音楽雑誌でクラッシックを担当するライター。今日は演奏会を聞きに来ている。
 そのとき、ドアの向こうを、人の話し声が通り抜けていった。
「もうリハーサルは終わったの?」
「もうバッチシだよ。優勝はもらいだな」
「トニーらしいわね」
 さきほど自分を掃除夫と間違えた女の声と、精悍さを滲ませた男の声が通っていく。
「ちょっとラウンジでお茶でも飲んでくるから」
「そう。ゆっくりしてきて。でも本番には遅れないでよ」
「ああ」
 トニーの足音がスタッフルームの前を通り過ぎていく。軽快なステップを踏んでいるといってもいい
軽やかな足音で。
 男はその足音を聞きながら目を開けた。
 そこに、もう温厚そうな掃除夫はいなかった。
 隙のない光を宿した別の男が立っていた。



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