第三十一話



 銃口から発射された弾丸が激しい回転を見せながら硝煙を撒き散らし、サイドルの額目出して飛んで
いく。
 容易にサイドルの額を貫通した弾丸は、そこにぽっかりと黒い穴を空ける。
 だがその痕から飛び出すはずの血は一滴もなく、まるで巨大なガラスを打ち抜いたかのように粉々に
サイドルの体が砕け散る。
「アッシャーだろ。勝手に俺の弟を演じてるんじゃねえよ」
 砕けたサイドルの体が再構成され、エリザベスの形を取る。
「今度はあのお嬢ちゃんか」
 サンドラの声に、目を開けたエリザベス。
 その目は瞳孔のない真っ赤に染まった瞳だった。自分とサイドルの描き出す世界を破壊する凶悪犯を
恨みの念で睨み続けるために血で染まったような深紅の眼球。
「サイドル!」
 エリザベスが叫ぶ。
 構築されていた冬の街灯に照らされた裏通りが消失し、灰色のコンクリートが剥き出しの一室が現れ
る。
「おい、アッシャーさんよ、どうしてお前が偽者だって気づいたか教えてやろうか? さっきの記憶は
サイドルが美化して覚えていたせいだろうな、事実とは異なる。俺とサイドルの両方から記憶を抽出で
きればより正確な仮想空間が描けたんだろうが、俺は完全に記憶をブロックしている上に、サイドルも
出し渋る。あの時倒れていた男はね、下半身丸出しで、そのうえ縮み上がったお粗末なものを晒してた
んだよ。運悪く襲われたのがサイドルの方だった。嫌がるあいつは殴られて鼻血噴いてたしな」
 部屋の隅で膝を抱えて座り込んでいるサイドルが、全てを拒否するように頭を抱えて蹲る。
「サイドル!」
 再度エリザベスが声を上げた瞬間、サイドルが頭を抱えたまま唸り声を発した。
 痛みに耐えるように両手で髪を掻き毟る。
 そのこめかみを太い血管が浮き上がり、脳内に向かって蛇行しながら這い上がっていく。
「俺の弟で遊ぶの止めてくれない?」
 サンドラが口に笑みを乗せたまま、その実、目には殺気を滾らせエリザベスに手を伸ばす。
 その手がエリザベスの首を掴み上げる。
 だが締め上げられた首に顔を歪ませたのは、サイドルの顔だった。
「やめて、兄ちゃん」
 苦しげに口から涎を垂らしながら、涙を流して訴える。
 だが無表情になったサンドラが失望したと告げるように、目を眇め、首を左右に振る。
「だから下手な演技はやめてくれ。だいたいサイドルは俺を兄ちゃんとはもう呼ばないよ」
 ギュッと込められた手の中で、不意に首を握る感覚が消え、手の中に何もなくなる。
 そして少し離れたところで喉を押さえて蹲るエリザベスが、床に跪く形で現れる。
「てめえ、殺してやる!」
 エリザベスの口から、だがエリザベスのものではない男の声がもれる。
「とうとう本性現したか? それにしてもかわいいお嬢ちゃんの姿とは、なんともお似合いだぜ」
 嘲笑うサンドラに、エリザベスが歪んだ笑みを浮かべる。
「では、これには耐えられるかな?」
 やってみろよとサンドラが片眉を上げてみせる。
「It's  show  time !」



 慌てふためいて指示を飛ばしながら、走り回りデーターを取り続ける研究員たちの横で、ケヴィンが
おもしろい見世物を見学するようにガラスの下で眠る二人の男を見下ろしていた。
「サイドルの兄か。同じく適正があったか」
 目の前のモニターの中で、アッシャーとしてサイドルを導く役目を果たしていた男が、サンドラとの
幻覚合戦の中で、かかりすぎた負荷に耐え切れずに鼻血を流し始めていた。
「ミスター。このままではアッシャーがもちません」
 指示を求める研究員に、ケヴィンが頷く。
「まあ、それもいいじゃないか。限界突破した世界とやらも見てみたいしな」
 鷹揚な声で、だが娯楽のために人間をライオンと戦わしたローマの皇帝たちのように、ケヴィンが笑

う。
 被験者など、使い捨てのコマでしかないだろう?
 言外に含まれるその意味、研究員はしばし沈黙する。
 だが反論は許されない。
「わかりました。実験を続けます」



 サンドラは変化した視点に辺りを見回した。
 壁にかかった鏡を見つけ、その前に立つ。
 まだ十代の、男になりきらない線が鋭くなりかけた顔がそこにあった。
 耳に下げたピアスがやたらと多い。
「……ガキに戻されたか……」
 サンドラが舌打ちする。
 きっとこれから遭遇するであろう世界が、自分にとっては最悪と類される世界であることは分かって
いた。
 だが、自分にとって最悪の世界とはなんであるのかがまだ分からなかった。
 様々な悪事に身を染め、辛酸を舐めてきた。だが、そのどれもがサンドラにとっては日常であり、自
分を追い詰めるものであるとは思えなかった。
「どんな余興か楽しんでやろうじゃないか」
 サンドラは再度部屋の中を見渡した。
 それは以前に自分とサイドルが住んでいた部屋であることに気づく。
 今自分が立っているのがダイニングキッチン兼居間。意外ときれい好きなサイドルのおかげで、男二
人の家だとは思えないくらいには小奇麗に片付いていた。
 もちろん穴があいてスポンジの飛び出したソファーはガムテープで補修され、破れたカーテンにはキ
ャラクターのシールが貼られているような部屋ではあったが。
 そのとき、隣りの部屋から聞こえたコソコソと話す人の話し声。
 隣りは寝室。
 一つの声はサイドル。
 楽しげに笑いあうその声に、答えているのは女の声。
 ああ、あの時の。
 そう思い出した瞬間、サイドルは顔をゆがめた。
 絶対に聞きたくないと思っていたあの言葉を、もう一度聞かされる嵌めになるとは。
 笑ってやろうと思った顔に余裕がなくなり、引きつり始める。
 女の声が言う。
「ねえ、なんでサンドラって女がダメなの?」
「……知らないよ。なんだよ、サンドラと寝たいの?」
 拗ねたサイドルの声の後に、湿ったキスの音が続く。
「わたしはサイドルが好きなの。サンドラなんかじゃなくてね」
 女の上気した息遣いの後に続く、クスクスという笑い。
「そういうあんたはどうなのよ。こんな風に毎日サンドラとベットを並べて寝てるんでしょ? もしか
してサンドラに抱かれたりしてるの?」
 このあとに続く言葉だ。
 サンドラは耳を塞ぎたい思いになりながらも、あの時と同じようにただ立ち尽くしているだけだった。
 ドア一枚隔てた向こうから聞こえる物音とサイドルの声に耳をそばだてる。
「サンドラなんて大嫌いだよ。側に寄られただけで胃の中味をぶちまけたくなる位に。どうしてあんな
に俺にこだわるのか分からない。いい加減に解放して欲しいよ」
 強烈な痛みを発した胸に、サンドラが手で押さえる。
 その体から二重に存在していたかのように、十代の自分が蒼白な顔色で拳を握って部屋の中に入って
いく。
 部屋の中から女を殴り続ける音と、悲鳴、サイドルのやめろ! という怒鳴り声が聞こえる。
 あれがサイドルの本心だったとしても、それを責めることはできないはずだった。
 だが、あのときのサンドラには、自分の中にある価値が全て崩壊したように感じる言葉だったのだ。
 自分は何のためにしたくもない売春をしてきたと思う?
 なんのために人を嬲り、いたぶり、殺しているのだと思う?
 なんのために俺は、おまえを育て養い……。
 その間に自分がどれだけのものを失ったと思っているのか?
 自分が犯される嫌悪感に、男としての機能を失い、仲間からの信用も失った。今あるのは信用ではな
く、自分への恐怖による服従のみ。
「俺は自分のためにしたことなんて、一つもなかった。みんなおまえのために」
 苦鳴りのような吐き出された言葉に、サンドラは額に押し付けた拳を握った。
 だがこのサイドルに向いた暴力さえ、今度はサイドルのサンドラへの恐怖を生んだだけだった。
 どんな悪行を積もうとも、サイドルにとっては兄であれたサンドラが、ただの恐怖を撒き散らす悪魔
へと変わってしまった。
「クソ!」
 目の前の壁を力任せに殴る。
「クソ!!」
 記憶の奥底に仕舞いこんでいた記憶に、痛みが走る。
 叩き込んだ拳が擦り切れ、血を滲ませる。
 だがその肩に、置かれる手があった。
「ごめんね、サンドラ。あれは本心なんかじゃないよ。ただ嫌気がさしてたんだ。みんなにサンドラと
体の関係があるんだろって冷やかされえるのが。それで」
 申し訳なさそうに眉を下げたサイドルが、目の前にいた。
「いいんだ。おまえの言ったことは間違っていない」
 サンドラはサイドルを腕の中に抱きしめる。
「いいんだ。おまえが俺のことをどう思おうと、俺はおまえを守り続ける」
 サンドラの腕の中で、サイドルが頷き、笑う。
「だから、偽者のおまえはいらない!」
 腕の中でサイドルの体が強張る。だがそれを力の限りに締め付けて拘束し、握っていたナイフをその
背中に突き立てる。
「偽者は死んでもらう。ここで死ぬと、本体も本当に死ぬらしいからな。せいぜい足掻けよ」
 背中に突き刺さったナイフが心臓に到達していることを知っていながら、サンドラが囁く。
 そして床に投げ捨てるように、サイドルの体を手の中から落とす。
 サンドラは静まり返った寝室の中へと足を踏み入れた。
 血に染まった拳を握った少年時代の自分と、意識をなくしてベットの上横たわった、形相もすでにど
んなだったか分からないほどに顔を腫らした下着姿の女。
 そしてサイドルが、壁に蹲った蒼白な顔でサンドラを見上げていた。
 殴られて変色した頬にも気づかずに、ただ物音一つで自分に飛び掛って来そうなサンドラの様子に畏
れをなしている。
 サンドラは荒い息をつく、かつての自分に近づき、その体に触れた。
 その瞬間に、その体と自分の体が溶け合っていく。
 胸のうちに渦巻いていた怒りと悲しみを自分の中に取り込み、溶かしていく。
 目を閉じたサンドラの中で、激怒に燃えた赤や嫉妬の紫、絶望の黒が混ざり合い、色を無くして消え
ていく。
 目をあけ、蹲っているサイドルに近づく。
 それだけで怯えて後退さるサイドルに苦笑して足を止めると、その場でしゃがみ込み、サイドルの目
線で語りかける。
「今までおまえを縛っていた悪かった。全部おまえのためだと思ってやってきたけれど、違ったのかも
しれないな。俺のためだったんだ。おまえを俺だけのものにしたかった。俺にはおまえしかいなかった
から。そして、おまえは俺の側にい続けてくれた。だから、今度は本当の意味でおまえを守る。俺の命
をかけて」
 サンドラの言葉に、怪訝な顔をしたサイドルが顔を上げる。
 かつての二人の住まいが消え、コンクリが剥き出しの部屋が現れる。
 部屋の隅にうずくまっていたサイドルが、じっとサンドラを見つめていた。
「サンドラ?」
 その声に、サンドラが笑う。
「最後ぐらい、昔みたいに兄ちゃんって呼んでくれよ」
 久しぶりに聞く穏かなサンドラの声に、なぜかサイドルは心が締め付けられた。
「最後ってなんだよ」
 サンドラが笑う。
「ナーブリバースの適正が低い俺では、たぶん体がもたないだろうって話。でももういいさ。俺の体は
もともとボロボロだ。薬やって、売春で病気もらって」
 サンドラが立ち上がると、真剣な目でサイドルを見下ろした。
「トニーがお前を迎えに来る。だから、ここからなんとしても逃げ出せ!」
 最後の命令だと告げ、サンドラが目を閉じる。
 その瞬間、世界は地獄へと変じた。


 

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