第三十話



 空気も凍った深夜の静けさの中で佇む倉庫の前で、ジーナとクレアが車を降りた。
「本当にこんなところに乗り込んで大丈夫なの? 相手はあんたが撃った弟を溺愛する兄なんでしょ?」
「まあね。ダメそうだったら全力で逃げる」
「あんまりあてにならないわね」
 クレアの皮肉にジーナが笑う。
「まあ、気合入れていきましょう」
 重い鉄の扉を開き、倉庫の中に入っていく。
 湿ってカビの匂いに満ちた空気が溢れてくる。闇の中で宙を渡るクレーンのワイヤーや金具が影とな
って目に映る。
「来たわよ、サンドラ!」
 入り口に仁王立ちしてジーナが叫ぶ。
 その瞬間、投光機が明々と光を発してジーナとクレアを照らし出した。
 余りに強い光に手で遮り、目を眇める。
「ようこそ、ジーナ、そしてドクター・クレア」
 倉庫の二階部分に並んだ三人の人間のシルエットが浮ぶ。
「サンドラ?」
 いつの間に用意していたのか、ジーナはジャケットの胸ポケットからサングラスをかけるとシルエッ
トの人物に声をかけた。
 だがそこにいる人物はサンドラではなかった。
 そこに長髪で蛇のようにずる賢い顔つきをした男はいなかった。
 全身に筋肉をまとったような黒人の男と、短い黒髪と顔につけられた無数のピアスが特徴的な男、そ
して、その二人の前に立つ一人場違いにスーツで身を固めた男。
「トニー?」
 一度は面識のあるその顔に、ジーナが驚きの声を上げた。
 音楽家として誠実に取り調べに協力し、傷ついたサイドルのためにバイオリンを奏でていた男とは、
表情からして違った。
 鋭く尖った空気を全身からかもし出し、触っただけで切れそうな凶悪な棘を隠しもせずに発散させて
いた。
「お久しぶりというほどでもないか。サイドルを無事生還させてくれたみたいだ。感謝するドクター・
クレア」
 二人を強く照らしていた投光機が反らされ、三人を照らす。
 そして同時に、自分たちを二重にも三重にも取り囲む少年たちに気づく。
 手に手に様々な武器を手にした少年たちが、トニーの指示ですぐにでも襲いかかろうとする獣の群れ
のようにそこにいた。
 横目でそれを確認したジーナに対し、明らかにクレアは怯えた蒼白な顔でジーナの背中に身を寄せる。
「ドクター・クレア。ぼくの指示がない限り彼らはあなた方を襲ったりはしない。彼らにもちゃんと脳
みそはあるんでね、安心してください。それに、ぼく自身あなた方に危害を加えようというつもりはな
い。ただ協力を願いたいというだけで」
「協力?」
 ジーナは頭上を仰ぐと、手すりに身を寄せるトニーに言った。
「わたしには、この協力もとい脅迫の意味も分からないけど、その前になぜあなたがココに現れるのか
が分からない」
 この状況にも少しも動揺を見せず、腕組みして自分を見上げてくるジーナに、トニーが笑う。
「芸術家として成功への道を歩んでいたぼくが、なぜこうして体制に対して悪の組織に舞い戻っている
かってことですか? それとも、ぼくの未来を奪ったサンドラの組織にいることの矛盾ですか?」
 トニーは余裕の笑みでジーナを見下ろす。
「これは我々の取引のやり方でしてね。不快に思われたのなら謝罪します。そしてこの組織はすでにサ
ンドラの手の中にあるわけではない。
 サンドラはこの薬の意味を取り損ねて自ら崩壊への道をたどった」
 トニーは青い薬液に満ちたチューブを掲げてみせる。
「どうしてそれを!」
 クレアがトニーを見上げて叫ぶ。
「あなたの研究所から研究員が拝借した分の回収は終わった。そうですね? でもあなたの手を離れた
あとの政治的取引のうえでの動きはご存じないでしょう? あれはすでに海外にも流出している。そう
してここにも」
「……」
 絶句するクレアをよそに、トニーは得意に話をすすめる。
「ぼくはサンドラを憎んでいる。常に先回りしてぼくの将来を潰そうと現れる悪魔だ。だが、その悪魔
がぼくをつけまわす理由も分かる。サイドルだ。深い部分で結びついたぼくとサイドルが許せないんだ。
サンドラに友情なんてものは理解できない。あいつに理解できるのは、弟への愛情だけだ。それも独占
的でお気に入りのテディーベアを守るような愛情だけどね。それでもないよりはましさ。そして、その
部分でぼくとサンドラは利害が一致した。サイドルを助け出す。そのためにお互いが協力を約束した。
 我々は、今夜サイドル救出計画を実行する。だが、この計画の援助者の要望で、ドクタークレアの協
を仰がないとならなくなってね」
「わたし?」
 突然上がった自分の名前に不安を露わにしたクレアに、トニーが頷くと、背後の男に合図をした。
 男が、何かを押して前に進み出る。
「エリザベス!」
 車椅子に乗った美しい少女。だがその目に生気はなかった。
 まるで等身大のビスクドールが車椅子に乗せられているような退廃的空気を纏った白い顔が車椅子の
上で傾いていた。
「サンドラから託された切り札。エリザベスだ。ぜひともこの青い薬、ナーブリバースの犠牲者である
彼女を救ってほしい」



 白い雪で表面だけは美しく覆われた地面の上で、身を寄せ合うようにして笑い会う兄弟がいた。
「ほらサイドル。チョコがあった。こいつ大人のくせに菓子なんてもってあるいてやがるんだな」
 ピンク色の銀紙に包まれたハート型のチョコをサイドルに差し出し、サンドラが笑う。
 銀紙を取って出てきたチョコを、サイドルの今にもよだれ垂らしそうな口に放り込んでやる。
「おいちー、兄ちゃん」
 自分もチョコを口に運びながら、サンドラも頷く。
 そしてきれいに伸ばした銀紙を弟の手に握らせてやる。
「きれいだろ」
「うん。ピカピカ」
 はしゃぐ弟に、サンドラが手を取って歩きだす。
 冷たい雪に足跡を残しながら、遠ざかる。
 その白い雪に汚らしく赤い血を垂れ流す死体に背を向けて。



 その様子を見つめていたサイドルの背中に、サンドラが立つ。
 振り返ったサイドルは、久しぶりに見るまともな笑みを浮かべたサンドラを見た。
「あれは俺の記憶? それともお前の?」
 まともに口をきくサンドラに、サイドルは目を見開いた。
「平気なの? この空間が?」
 大抵今までみた被験者は、突然目の前に展開される場面に、自分も取り込まれることを拒否して混乱
し、そのぶんサイドルがその精神の深層にもぐりこむ隙を見せるのだ。
 だがサンドラはさも当たり前の日常のようにそこに立っていた。
「俺もだてにジャンキーじゃないってことか? 薬には慣れている。しかもこの青い薬、ナーブリバー
スとかいうらしいけど? これには苦しめられた分つかんだものもある」
 そう言って笑ってみせると、コートの内側に手を入れた。
 サンドラが掴み出したのは黒々と光る拳銃。
 がちゃりと撃鉄を起したサンドラは、銃口をサイドルに向けた。
「え?」
 当惑するサイドルに、サンドラがウインクする。
「消えな」
 銃口が火を吹いた。




 

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