第三十ニ話



 護衛に守られたトレーラーが用意された研究所へと、ジーナとクレアを連れていく。
 目の前のストレッチャーの上で横たわっているエリザベスをトラックに揺すられながらジーナが見つ
める。
 焦点を結んでいない目が、ただ見開かれてどこか遠い宇宙の果てを見つめていた。
「この子も被害者ね」
 じっと理不尽への怒りを押し殺しながら、膝の上に置いた肘で体を支えて座るジーナが呟く。
「この子がこんな風になっていることに、あんたは関係あるの?」
 沈んだ声で告げるジーナに、クレアはただ押し黙る。
「……関係があるといえば、ナーブリバースを開発したこと自体が無関係とはいえないとは思うけど、
彼女に投与したのはわたしじゃない。ケヴィンよ。わたしの元夫の」
「大統領補佐官殿がどうして?」
「秘密の厳守のためなんでしょうね」
 そう言った瞬間に、トレーラーが動きを止める。
 後ろのハッチが開かれ、看護士たちが乗り込んでくる。
 一言の無駄口もなく、エリザベスのストレッチャーを引き出してバイタルチェックをはじめる。
 その様子を後ろから現れた老紳士が見守り、看護士たちがした耳打ちに頷き返す。
 ストレッチャーが運び出されていく。
 老紳士がクレアとジーナに目を向けて、微笑む。
「ヘイワード議員」
 穏かそうな顔に、だが深く刻まれた皺が苦悩の日々を思わせる老紳士、ヘイワードが、目の前に立っ
ていた。
「待っていましたよ。お二人とも」




 通されたのは病室にしては豪華な一室だったが、確かにそこは病院のような空気感をかもし出してい
た。
 部屋の中央に置かれたベットにはエリザベスが寝かされ、点滴の管が何本も下がっていた。
 ただそのベットの周りに配置された棚には、きっとエリザベスの大好きなのだろう、ぬいぐるみや絵
本、ガラス細工の置物などがところ狭しと並べられていた。
 ヘイワードがぬいぐるみの一つを手に取ってそれをエリザベスの点滴の針が無数に打ち込まれた手に
握らせる。
 うさぎの人形だった。
 他の真っ白な毛や、豪華な装飾が施された人形に比べ、酷く汚れているうえに安そうなぬいぐるみだ
った。
 だがそれを手にした瞬間、開かれていたエリザベスの瞼が、ゆっくりと閉じていく。
「大丈夫だよ。おじいちゃんとおまえが大好きなお兄ちゃんが側にいるからね。ゆっくり休みなさい」
 ジーナには見覚えがある人形たっだ。サイドルが買い与えた人形だ。
 心細く誘拐犯に囲まれた中で、唯一エリザベスの心の拠り所であり、守り手だったサイドル。そのサ
イドルに人形を手渡されたときの、喜びに綻ばせた笑顔がジーナの脳裏に甦る。
 もちろんこの目で見たわけではない。ただサイドルの脳内の神経の再構築の際に見たモニターでの映
像に過ぎない。しかも、それがすでに過去に起きたことの再現に過ぎないと分かっていながら、エリザ
ベスの笑顔に癒された心からの安堵を覚えた瞬間だった。
 あのときも、ジーナが救出に向かったときも、エリザベスは確かに意思を持った少女としてそこにい
た。こんな風に自身が人形のような感情を灯さない存在ではなかったはずだ。
 ヘイワードは眠ったエリザベスの額に口づけすると、傍らに立つジーナとクレアに部屋の片隅に備え
られたソファーへと導いた。
 そして計ったかのような正確さで、ソファーに腰を下ろした瞬間に、コーヒーを運んだメイドがやっ
てくる。
「こんな形でお二人をお連れしたことをお許しください」
 ヘイワードは二人に頭を下げると、ジーナに目を向けた。
「そしてあなたにはもう一つ謝らなければならない。メアリ―のことだ。親友だったのだろう?」
 コーヒーカップに手を伸ばしかけていたジーナの手が止まる。
 今ここでその名前を聞くことになるとは予想もしていなかっただけに、動揺に手に仕掛けていたカッ
プがソーサーとぶつかってカタカタと音を立てた。
「エミリーとのことは、わたしもこの年になって恥ずかしい限りだが、本気だったんだ。妻を失ってか
ら、決してもう女性を好意を持つことはないだろうと思っていた。政略結婚だった妻とは、心が通い合
うことは一度たりともなかった。だから、女性とともに同じ空間を共有することが煩わしいことだとし
か思っていなかったんだ。それを変えてくれたのがエミリーだった。秘書として側にいて気遣いを示し
てくれる彼女が、空気のように常にわたしを支えてくれた。そして安らぎを教えてくれた。だから、彼
女に子どもができたと聞かされたときは、初めて心から自分の子どもが生まれることの喜びを知ったよ
。彼女を愛していたんだ」
 楽しい思い出を語るように穏かな語り口に、だがジーナは揺さぶられた心を納得させることはできな
かった。
「だったらなぜ殺した」
 握った拳を机に叩きつける。
 怒鳴る声を押し殺し、だが確かな呪詛を込めてジーナは言った。
 その思いを受け止めたようにジーナを見つめたヘイワードが口を開く。
「彼女を殺したのはわたしではない。わたしは救出部隊を送ったが、間に合わなかった」
「彼女を殺したのもケヴィンよ」
「え?」
 クレアの声に、ジーナは呆然とした顔を上げた。
「メアリーがわたしを告発しようとしていたことを知っているね」
 ヘイワードの言葉に、ジーナが頷く。
「わたしが行っていたのは、ナーブリバースを海外へと密輸する仕事」
「密輸?」
「ナーブリバースの最大の効用は、敵国の人間の精神をいかようにも操作できるということ。合衆国に
とって都合がいい挑発行為を捏造することができる。もっとも難しいのが人間の気持ちを操作するという
こと。それをナーブリバースは可能にする」
 クレアの説明に、ジーナはまだついていかない感覚のまま、その顔を凝視する。
「先週あったタイでの武装テロ組織によるアメリカ軍兵士への暴行・殺害事件は知っているな。あれは
実地実験第一段階だ。犯人は武装テロ組織の一員でもなんでもない。ただの善良なタイ市民だよ。ただ
運悪く交通規則のルールを破ったことで目をつけられただけの青年。だが彼は本気でアメリカ兵を憎む
テロ組織の一員として仕立てられ、最後まで自らのものと信じて疑わない思想を叫び続け、最後には頚
動脈にペンを突き刺して自殺した。そうするように操作されていたから」
 ヘイワード議員が静かにコーヒーを口に運ぶ。
「あなたは……それが正しいことだと?」
 震えそうになる声をなんとか落ち着け、ジーナが呟く。
「いや、間違っている。人間としては決してしてはならないことだ。人権の無視だということ以前に
、人という生命への冒涜だろう。人の自由意志は誰もが神に与えられた贈り物なのだ」
 コーヒーカップをソーサーに戻しながら、ヘイワードが暗い目で断言する。
「それならなぜ」
「ヘイワード議員は最初、国家の悪事を暴こうとしていたのよ。つまり、ヘイワード議員の意思をメア
リーが継いだということなの。もちろん彼は止めたとは思うけれど、メアリーはヘイワード議員の良心
の葛藤を見ていたから、黙っていることはできなかった。愛したひとの心の平安のために、自らが国家
との戦いに乗り出した」
「………」
 ジーナはただ規模が大きくなっていく話題に、頭を抱えるとソファーの上に身を投げ出した。
「国家ってなに? 大統領もこのことを承認していると?」
「……たぶんね。……そうでなきゃ、なぜケヴィンが出てくるの?」
 クレアの声に、ジーナが頷く。
 大統領補佐官の動きが、ホワイトハウスの影を大きく映し出している。
「その国家の悪事を暴こうとしていたヘイワード議員はなぜ、密輸を行う側にいるの?」
 ジーナは顔を手で覆ったまま聞いた。
「エリザベスを人質に取られたからだ。ナーブリバースの投与という形で」
 顔を上げたジーナは、ヘイワードの背後に見えるエリザベスの寝顔に頷いた。あんなに可愛らしい笑
顔で笑う孫を、こんな人形に変えられてしまっては、気道を塞ぐ意思を持つ腕に喉をつかまれたような
ものだ。助かるために必死に空気を求めて、なんにでも手を伸ばすだろう。それが悪魔の手であるとし
ても握るはずだ。
「ナーブリバースの欠点は、きちんとした神経構築のための誘導がないと、脳内の記憶野を駆け巡り、
様々な記憶の断片を無作為にリロードしてしてしまう。そしてそれが得てして嫌な記憶であるがために
悪夢のような幻覚に悩まされることになる」
「わたしは、エリザベスが部屋の隅を指差して怯える姿を見ることに耐えられなかった。いくらそれが
幻覚だと諭したところで、彼女の目には確かに彼女を捕らえようとする怪物の腕が見えているのだ。エ
リザベスを救うためには、ケヴィンの要求を受け入れ、エリザベスに適切な処置を施す約束を取り付け
るしかなかった」
 うな垂れたヘイワードに、ジーナはかける声もなく沈黙した。
「エリザベスに、あなたも見た幸せな明るい笑顔をした少女という人格を与えたのはわたしよ。ただ、
この人格を維持するには、定期的なナーブリバースの投与と調整が必要になる。つまりヘイワード議員
がわたしたちの計画を裏切ることは、即エリザベスの人格崩壊を意味していた」
「そうだ。わたしはすでに密輸という犯罪の片棒を担がされることがなくとも、裏切ることなどできな
いほどに追い詰められていた。だが、ケヴィンはさらなる保険としてわたしを追いつめた。だが、それ
をメアリーが嗅ぎ取ってしまった。だから、消されてしまった」
 部屋の中に沈黙が落ちる。
 うな垂れた全員の耳に聞こえるのはエリザベスの心臓の動きを伝える心電図の定期的な電子音と、ゆ
らゆらと上がるコーヒーの湯気の気配だけ。
 ジーナは息苦しさを感じてため息をつく。
「そこにサンドラ、サイドルがどう絡んでくるの?」
 吐き捨てるようなジーナの声に、クレアが苦笑する。
「メアリー殺害のためにケヴィンが動かした人間の中に、サンドラの配下が混じっていたのよ。でもそ
の配下の人間は、メアリー殺しの際にエイワード議員が派遣した救出部隊の人間に殺されてしまったの
よ。そのことがサンドラの興味を引いてしまった。プロの手口で殺された仲間は、何に巻き込まれたの
か? そして探し当ててしまったのよ。ヘイワード議員とナーブリバースの接点を」
 ジーナは再び大きくため息をつくと、クレアの言葉を引き継いだ。
「自身も青い薬に冒されていたサンドラは、全ての秘密を暴くためにヘイワード議員と接触する目的で
エリザベスを誘拐したと」
「そう。でもあなたがエリザベス救出に突入したことで、その機会を逸し、エリザベスを連れて逃亡し
た。でもその間にエリザベスにナーブリバースを投与すべき時間が過ぎてしまった。しばらくは禁断症
状が出たはずよ。でもそれを越えても投与されなかったナーブリバースの副作用で、エリザベスの脳内
のシナプスの連結は切断された。だから、彼女は今記憶と意志の多くを消失してここにいる」
 ジーナはソファーから立ち上がると、眠るエリザベスの元へと歩いていった。
 長い髪が枕の上に広がり、白い肌が生命感を失い、本物の人形のような空気感を放っていた。呼吸で
上下する胸がなければ、人間であることを疑わせるようだった。
「助けられるの?」
 クレアを見つめ、ジーナが振り返る。
「ナーブリバースと、それなりの施設があれば。でも、もう一つ鍵が必要なのよ」
「何?」
 ベットサイドで跪いたジーナが、エリザベスの髪を撫でる。
「彼女を覚醒へと導く存在、サイドルよ」


 

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