第二十九話



 隣りに並んだベットの上で眠るサンドラを、自分も同じようにベットの上に拘束されながら見つめた。
 無抵抗に白いシーツの下で目をつむるサンドラが、サイドルには想像できない姿だった。もちろん、
サンドラとて眠ることはあるのだとは分かるが、寝顔を見た覚えがなかった。
 今目の前にあるのは、平気で狂気に身を貶める男ではなく、子どもから自分を守ってくれた頼もしい
お兄ちゃんのときの顔だった。
 脳裏に甦るのは、一緒に欲望に負けてサンドラを買った男たちを二人で倒し、金を手に入れて、二人
で分けてホカホカと湯気をあげるパンを二人で分けて食べたときのお兄ちゃんの笑顔だった。
 サンドラのほうが体が大きいのだから、大きい方のパンを食べるのが今思えば当たり前なのに、いつ
も一気に口に入れて食べ尽くしてしまった後で物欲しげにみる自分に、サンドラは自分の分を分けてく
れたものだった。
 もちろん「せっかくのご飯なんだから味わって食べろよ」とお小言付きだったが。
 頭に巡らされたベルトで、サンドラに向けていた顔を上向かされる。
「こいつはおまえの兄ちゃんなんだろ? どこでかぎつけたか、お前を探しに来たんだろうな? 侵入
しようとしていたところを見つかって」
 看護士がおもしろそうにサンドラを指さして肩をすくめて見せる。
「肉親だからって、指示に反したら二人ともどうなるか、自分で考えろよ」
 体を拘束するベルトを全て確認してから、看護士たちが出て行く。
 目を正面に向ければ、上から自分たちを見下ろしている研究者や、ケヴィンが見える。
 目が合ったことに気づいたケヴィンがサイドルに手を振る。
 実験の始まりだ。
 拘束されたベットの一部で、モーターが稼動する音が聞こえる。
 この後に続くのは、セットされている薬が自動でうち込まれ、他人の記憶の領域で目覚めることだっ
た。
 サンドラの記憶の中。それは自分の記憶の中でもあるはずだった。



 実験を見下ろしていたケヴィンは、自分の背広の内ポケットの中で震える携帯電話に気づいた。
 携帯の液晶を見てから、ケヴィンはにやりと笑って「失礼する」と周りに声を掛けて部屋を出る。
「やあ、クレア。君から電話を貰うなんて久しぶりだね。どこでこの携帯の番号を?」
 ケヴィンが壁に揺りかかって笑みを浮かべていた。
 端からみれば楽しい語り合いに見える会話だった。だが二人の間にあるのは騙しあいという愛情の欠
片もない会話だった。
「ちょっとね。これでもあなたの元妻ですから」
「ああ、そうだね。わたしが唯一愛した女性だよ、クレア」
「それは随分と光栄だけど、初めて知ったわ」
「それはわたしの愛し方が不器用だったせいかね? でも愛していたのは事実だよ。だからこの前は心
が痛んだよ。君を殴るなんてね」
「そうだったの? ずいぶん楽しんでいたように見えたけど」
「……はは、楽しんだのは、倒れた後の君の色っぽい姿だけだよ。君は相変わらず美しい。もっと他の
場所で君のあんな姿を見たら、理性が飛んでしまうだろうね。今も君の裸体は隅から隅まで覚えている
よ」
「……この変態!」
「褒めてもらえて嬉しいよ。でも、こんな言い合いをしたくて電話をしてきたんじゃないんだろ?」
 苛つくクレアの声を、口の端をゆがめて笑いを堪えながら、ケヴィンが言う。
 その電話口の向こうで一瞬の沈黙のあと、クレアが口を開く。
「サイドルは?」
「いるよ。君の提唱した理論の証明実験に協力してくれている」
「協力? 強要でしょう? ……でも、いいわ。それで? いい結果は出ているの?」
 電話口の口調と声の調子から、お互いに真意を探りあいながら話を続ける。
 ケヴィンはクレアの科学者としての自分の功績を気にしたような口ぶりに、眉を上げた。
 サイドルを取り戻すための演技か?
「実験は至極順調に進んでいるよ」
「あのポートマン議員の暗殺も実験の結果でしょ?」
「ご名答」
 電話の向こうから、無言の、だが確かな成果に対する喜びが伝わってくる。
「……聞いても無駄だと思うけど、一応聞かせて。わたしがその実験に加わることは可能なの? わた
しの理論よ」
「……気持ちは分かるけど、無理だろう。君は我々を裏切るような行動をした。そして、わたしに対し
てもだ。温情を期待するほうが間違っているだろう? 勝手に君の独断でわたしたちの子どもを殺した
んだから」
「そうね。………ごめんなさい。謝って済む問題ではないけれど」
 ケヴィンも初めて目線を床に下ろして表情を消す。
「もう、この番号は破棄する。だから二度と掛けてこないように。でも、嬉しかったよ。君と話しがで
きて。それから、わたしも謝っておくよ。君に手を上げたことをね」
 電話を切る。
 クレアの考えていることくらいは分かるつもりだった。
 気難しくて手に負えない女を唯一手なずけた男が自分なのだという自負もあった。
 クレアはサイドルを取り戻すつもりだ。あの女刑事と一緒になって。
「やれるなら、やればいい。こちらにも切り札はある」
 ケヴィンが笑う。
 新たな挑戦に向かって隠していた牙を煌めかせた瞬間だった。



 電話を切ったクレアをジーナが見つめる。
「居場所は分かったわ」
「そう」
 ジーナが自分の携帯電話を見下ろしながら返事を返すと、その携帯をクレアに差し出した。
「なに?」
 携帯を受け取りながら、クレアが首をかしげる。
 そこに出ていたのは、一通のメールの画面だった。
「これが?」
 クレアは画面に並んだ字を読みながら、次の瞬間にジーナを見つめた。
「どうするの、これ?」
「罠かもしれない」
「でも、チャンスかもしれないわね」
 そこにはサンドラからもメッセージが並んでいた。
 サイドルを取り戻したければ、明日夜埠頭六番倉庫に来い!


 

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