第二十三話



「長いこと待たせたわね」
 サイドルの待たされた病室に入ってきたクレアが言った。
 だがその顔が、今までに見たことのないほどに憔悴していることに気付き、サイドルは言おうとして
いた言葉を飲み込んだ。
 とても「遅い!」と文句を言える雰囲気ではなかった。緊張の限界まで張り詰めた今にも弾け飛びそ
うな、危うい一線の上で、クレアが微笑んでいた。
「あとはわたしがやるから、あなたたちは下がっていいわ」
 病室にいた看護士たちを部屋から出し、二人きりになったところで、クレアが大きくため息をついた。
「……あの。どうしたんですか?」
 恐る恐る口にする言葉に、ドアに片手をついて俯いていたクレアが頭を上げる。
「……あなたをね、ちょっと殺してきたのよ」
「え?」
 うちひしがれて色を失った顔色を誤魔化すようにクレアが笑うと、サイドルにとなりの部屋に移るよ
うに指示した。
 状況など分かりようもないままに、サイドルは隣りの部屋へとクレアについて入っていった。いつも
の自信と活力に満ちたクレアの背中が、憂いと疲れで曇っていた。
「さあ、ここに入って」
 そう言われてクレアの指さしているものを目にし、サイドルは「あ」と声を上げた。
「そう、少し前まであなたが寝ていた、そうねぇ、第二の子宮ともいえるかしら?」
 サイドルは部屋の中を見回して息を飲んだ。
 なんとなく記憶にある部屋であった。
 四方を囲んだ白い壁には窓一つなく、高い天井には、唯一の採光とりで天窓があった。その窓の下で、
空気の温度の違いが生み出す陽炎が揺れていた。
 あのトニーに出会う精神の旅の前、目を覚ました最初に見たのがこの光景だったはずだ。自分が緑の
怪物になってしまったと思わされた場所。
 クレアが指さす巨大な水槽とも浴槽ともとれるものの中には、緑色の液体が満たされていた。
「さあ、服を脱いでこの中に横たわってもらえるかしら?」
 さも当然のことのように言って、クレアが早くしろと促がす。
「あの、これ脱いだら全裸なんですが……」
「そうよ。服を脱いでという言葉は、全裸になってと同じ意味だから」
 サイドルは先ほど看護士たちに着せ替えられた病人服を見下ろした。この服を着ること自体に抵抗が
あったのだ。下着一つ身につけさせてもらえず、背中はリボンで結んだだけのやけに風通しのいい仕様
だった。
 そんな服でもないよりはましだと、今は心の底から思う。
「どうしたの? 自分で脱げないならお母さんが脱がせてあげましょうか?」
 そう言って実際に服の裾に手をかけたクレアに、サイドルが腰を引いて逃げた。
「で、できる! 自分でやるから」
 サイドルはクレアにアッチを向いていてと指さし、ため息をつきつつ背を向けるクレアを睨んだ。
 ゴソゴソと服を脱ぎつつ、クレアが背を向け続けているのを確認して透明な水槽の中に足を入れた。
 人肌に温められた緑色のゲル状の液体が肌に纏わりつく。まるで温かいスライムの中に足を突っ込ん
でいる気分。
「はい、肩まで入って」
 いつの間にか側に立っていたクレアにサイドルが絶句する。
 クレアは何の感慨もなくサイドルの体を眺めていた。
 慌てたのはサイドルだった、頭から飛び込むようにして緑色のゲルの中に身を投じた。
 恨めしげに顔だけ出したサイドルに、クレアが無表情で言う。
「肩まで入ってとはいったけど、まだ潜れとは言ってないわよ」
「あっち向いててと言ったはずだけど」
「それを守ると約束した覚えもないけど」
 淡々と答えながら、クレアがサイドルの顔の前に何かを差し出した。
「これ咥えて。ダイバーの酸素吸入のためのマウスピースみたいなものよ。今度こそ頭まで潜ってもら
うから」
 そのマウスピースを受け取りつつ、サイドルはじっとクレアの顔をみつめた。
「質問」
「何?」
「これで何するの?」
「……君の脳内の様子をスキャンする。それから、もう少し記憶の構築をしてもらう。さっき自分の家
に帰って甦った記憶に付随する記憶が引き出しやすい状態にあるはずだから」
「……また精神の旅ってわけ? そしてまた怪我するの?」
「それは分からない。記憶の再現に対して肉体が反応して傷を再現することはあるけれど、大抵それほ
ど重症なわけではないわ。痛みはあるだろうけど。それから、わたしたちはこの検査をサイコダイブと
読んでるわ」
「サイコダイブ?」
「そう精神という大海原の深層へと潜っていく旅。さあ、ダイビングへ行ってらっしゃい」
 サイドルは不承不承に頷くと、じっと体を覆う緑色の液体を見つめた。
 精神の旅への不快感と恐怖感は拭えない。
 それは恐怖心を抱かせるほどに自分の過去が、血なまぐさく倒錯に満ちていたことを示しているのだ
ろう。
「どうしたの? 怖いのかしら?」
 煽るように言うクレアに、サイドルは上目遣いで睨みつける。
「行ってくるよ。お母さん」
 その一言に一瞬目を見開いたクレアだったが、笑顔でサイドルの頭を掴んで液の中に沈めようとする。
「良い旅を」
 サイドルは視界まで緑に染まる中で、そう願いたいものだと厭世的に思った。



 サイドルの意識が深層まで沈んでいき、新たな記憶の構築にかかった様子を機械の描き出すグラフに
よって知ると、クレアはじっとガラス張りのモニター室の中から眼下のサイドルの様子を見つめた。
「この子はいったい、どこまで知っているの?」
 何かに突き動かされるように、クレアはサイドルを守ってきた。自分を今まで支えてきた信念さえもを
犠牲にするようにして。
 このままサイドルが目を覚まし、記憶を取り戻しつつあることが上に知られたら、彼の身に何が起こ
るのかはわからなった。だが、それは、エリザベス誘拐事件で警察に捕らえられるよりも悲惨であるこ
とは間違いなかった。
「彼が君の息子?」
 不意にした声に、クレアはイスを倒しながら立ち上がった。
「……どうしてここに」
「どうしてって、ここはわたしも創立者として名を連ねている施設だ。わたしがこの研究所で足止めを
食ういわれはどこにもない。そして情報を隠し立てされるいわれもね」
 きっちりとダブルのスーツを着こなした中年の男が、クレアを見下ろし、それから水槽の中に沈むサ
イドルを見つめた。
「養子でもとったのかね? わたしたちの間に出来た子どもは正常な人間にはならない出来損ないだっ
たはずだからね」
「あの子はできそこないなんかじゃない!」
 声を荒げて怒りを露わにしたクレアに、男が微笑んだ。
「そう。君はそう主張し、その子どものためにますます研究にのめりこんでいった。そして、すれ違う
我々の間には深い亀裂ができた。お互いに共通の意識など一片たりとも見出せないほどに。だが、今は
違う。同じプロジェクトの中で動いている。君の能力と熱意をかって、このプロジェクトの研究部門に
おける最高権をわたしは与えた。だが――」
 イスの上で後退りをしていたクレアに詰め寄った男は、突然牙をむいて襲い掛かる野獣のようにたっ
た一歩でクレアの体を掴み壁に押し付けると、その首を片手でにぎりつぶさんばかりに締め上げた。
 突然の凶行にうめきと悲鳴を上げたクレアの口を、男が噛み付くようにして唇で覆う。
 急速に体の中で欠乏する酸素に細胞一つ一つが悲鳴をあげ、空気をもとめてもがく口は、男の蠢く舌
で満たされていた。
 クレアは狂気の中で男の舌に噛み付いた。
 口の中に広がる錆びた鉄の味と同時に、首を離れた手に空気が喉の中を勢いよく通っていく。
 胸を押さえて大きく咳き込むクレアを見下ろし、男は口の中にたまった血を吐き出した。
 そして床にうずくまったクレアの頭を掴むと、その耳元に囁いた。
「あの男はサイドルだろう? もう記憶の構築の段階まで実験は成功を収め、ブルーバードの研究は最
終段階に到達したはずだ。俺の目は欺けんぞ」
 血走った赤い目で睨む男の顔に、クレアは唾を吐きかけた。
「汚い顔を寄せるんじゃないわよ」
 男はその行為と言葉に薄ら笑いを浮かべながら、拳でクレアの顔を殴った。
 壁に頭をしたたかに打ちつけ、白い壁に鼻血を飛び散らしたクレアが失神してずるずると床に倒れこ
んだ。
 そのクレアの胸元を探り、男は青い薬液の満ちたガラスチューブを手に取った。
「おまえの勝手も、自由意志も認めん」
 豊かな胸元が露わになったクレアを見下ろし、鼻をならした男は携帯電話を取り出した。
「計画は滞りなく進んでおります。閣下」




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