第二十四話



 サイドルは? そう問おうとしてジーナは研究所の入り口で言いよどんだ。
「あー、クレア、ドクタークレアと約束があるんですが」
「ドクタークレアですね。ただいま確認を」
 研究所の入り口で若い受付嬢の過剰なほどの笑みに、引きつった笑顔を返しながら、ジーナはイライ
ラとした気分を紛らわすように落ち着きなく体を揺すった。
 その様子をチラっと上目遣いで見た受付のかわいい娘に、笑顔をのせた、その実「早くしろ!」とい
うガンを飛ばす。
「あの、ドクターは第三セクターの脳神経科実験施設にいるようなのですが、内線にはお出になりませ
ん」
「じゃあ、自分で見に行くけど、いい?」
 ここぞとばかりに職権乱用で警察バッチを見せ付けると、受付嬢が頷く前に研究エリアへと続くドア
を潜った。
 いつもなら携帯で連絡して、受付を通過できるように手配を頼むのだが、いくら電話してもクレアが
電話口に出ることはなかった。
 だからこそ、受付での一幕があったのだが、いったいクレアはどうしたのだか? サイドル死亡の報
道と関係があるのか?
 天井から下がる案内版の指示に従って脳神経科へと歩いていく。
 その姿を見守る目があった。
 同じく案内版の向こうから見つめていた目。監視カメラ。
 そのカメラが足早に進むジーナの姿を追っていた。



 カラカラというストレチャーの音に、廊下を曲がったジーナは視線を送った。
 何人かの男たちがストレッチャーを押しながら遠ざかっていく。その中の一人が気にさわるほどの強
い負の感情を乗せた視線を送ってきたが、見覚えのある顔ではなかった。ふとストレッチャーに目を向
け、頭まで白いシーツに覆われた様子に死体を想像する。
 角を曲がって消えていくその男たちに、なんとはなしに違和感が覚える。全員が白衣を着ているのに、
どこかいたにはついていない。
「?」
 疑問に思いつつも、ジーナは目当ての部屋を見つけてドアに近づいた。
「クレア? いる? ジーナだけど」
 ノックに返ってくる返事はなかった。
「入るよ」
 ジーナは勢いよくドアを開けた。
 そして同時にもれ出てくる空気の中に不穏なものを感じ取り、条件反射のように拳銃をホルスターか
ら抜いた。
 そっと中を窺い、勢いよくドアを開けると中に飛び込んだ。
 転がされたイスに、床に散らばった書類、その書類の上に点々と散る緑色のゲル状の液体。
 拳銃を構えて部屋全体を素早く見渡したジーナは、床の上に崩れ落ちているクレアに気付いて駆け寄
った。
 壁にはクレアのものだと思われる血が飛び散り、乱された衣服が嫌な想像を掻き立てる。
「クレア!」
 そっと肩を揺すりながら声をかける。
 出ていた鼻血はすでに止まり、首筋に黒い筋を作っていたが、殴られたらしい頬は痛々しいまでに内
出血を起して真っ赤に腫れ上がっていた。
 ウウっと唸って瞼を奮わせたクレアを、ジーナは頭を支えるようにして助け起すと、瞬間的に怯えた
表情で体を押し戻そうとするクレアを見つめた。
「大丈夫、わたし。ジーナ」
 目を開け、痛みに顔をしかめるクレアにジーナが笑いかける。
「随分いい顔になってるじゃない。こっちはわたしの専門って感じだけど」
 壁に寄りかかれるようにしてやりながら、ジーナが言うとクレアは皮肉げに笑った。
 だがその顔から笑みが消える。
「ごめんなさい」
「なにが?」
「だから……!」
 言いよどむクレアが顔をあげ、その表情を硬直させた。
「ジーナ!」
 クレアのその声を聞く前に、ジーナは背後に気配を感じて動いていた。
 背後に近づいていた人物に足払いを食わせる。
 だがそれには気付いたらしい男が飛んでその足を避けると、構えていた警棒をジーナの頭目掛けて振
り下ろした。
 それを側に落ちていたファイルで受け止める。だが伝わる衝撃に、腕がジーンと痺れる。
「警官に警棒振り下ろすとは、いい根性してんじゃねえか!」
 ぶちっと神経が切れたジーナは叫ぶと男の腹に蹴りを見舞った。
 見事にみぞおちに決まった蹴りに、男がうめくが、さしてダメージがある様子でもなかった。そして
ジーナも感じとった危機感。
 この男はそこら辺にいるチンピラ風情とは格が違う。鍛え上げた腹筋が足に重い衝撃で伝わる。
「あんた何者よ!」
 男の風を切るようなパンチを避けながら叫んだ。
 そして拳銃を構えようとして、その拳銃がクレアの横に置かれていることに気がついた。
「クソ!」
 悪態をつきつつ、ポケットの中を探る。手に触れるのはゴミばかり。
 丸めたティッシュにガムの包装紙、清涼飲料水のおまけのピンバッチに書けなくなったペン。
 殴りかかってきた男にイスを蹴ってぶつけると、怯んだ隙に手近な机の上へと駆け上がって男の頭目
掛けて回し蹴りを狙う。
 その蹴りを防いだ男がジーナを見てニヤリと笑う。だがその動きを予想していたジーナは手にしてい
たゴミの固まりを男の顔に向けて投げつけた。ベタベタに溶けていた噛んだ後のガムやキャンディーが
男の顔に纏わりつく。
 ジーナはその隙に側にあった瓶を床に目掛けて投げるつけた。
 バリンという大きな破砕音と同時に、頭の中まで痺れそうな薬品の匂いが広がる。
 その匂いに足を止めた男にジーナが笑う。
「わたし焼き鳥って好きなんだ」
 意味不明に言い渡したジーナは、コンソールの上にあったライターの火を着けた。その火を男の足元
に向かって投げる。
「あれは焼けても香ばしいおいしさはないと思うけど」
「確かにね」
 ライターが床に落ちる前に火は液体の上げる陽炎に引火する。
 ボウっと音を立てて燃え上がった蒼い火に、ジーナとクレアは顔を覆う。
 男はズボンの裾から這い登ってきた火に慌てふためき後退する。だがその足に着いた火が床に散らば
っていた紙という紙に燃え移っていく。
「自業自得ね」
 ささやきながら立ち上がったクレアに「手厳しい」とおどけて見せながら、ジーナは肩を貸して歩き
始めた。
 火災報知気が熱を察知してやかましいほどのサイレンを鳴らし、スプリンクラーが作動する。
 ドアを抜け、集まり始めた人の中を抜けていく。
「あいつどうなると思う?」
 やった本人であるジーナが背後を気にして言った。
「さあ、あなたぶちまけたアルコールで引火した部分に焼けどはするだろうけど、死にはしないわよ」
 クレアはそう言いながら、自分のはだけた胸元に手をやった。そしてため息をつく。
「……」
 ジーナは見てはいけないものを見た思いで目を背けた。
「クレア、もしかして」
「レイプなんてされてないわよ。でも、あなたが持ってきた青い薬は盗まれた」
「え? ……じゃあ、あれが原因で襲われたの?」
 だとしたら持ち込んだ自分のせいでクレアが被害にあったことになる。
 だがそう思った矢先にクレアが首を振った。
「違う。ジーナのせいじゃない。サイドルのことも」
「やっぱりサイドルは生きて」
 その先は言わせずにクレアがジーナの口に手を置いた。
「今はまずは脱出させて。ここは危ない。安全な隠れ家が必要よ。警察も知らない隠れ家が」
「……わかった」
「そしたら全て話してあげる。このカラクリの全てを」




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