第二十ニ話



 目の前に現れたクレアは、両脇に筋肉隆々の男性看護士を従えて現れた。
「さあ、あなたはさっさと手当てと検査に行ってちょうだい」
 クレアの言葉に疑問を口を差し挟む猶予さえ与えられず、サイドルは両腕を看護士につかまれて連れ
て行かれる。
「え? 検査って何?」
 吊るされて運ばれるサイドルが首だけをクレアの方へと捻って尋ねる。
 だがクレアはジーナと立ったまま「バイバイ」と笑顔で手を振っている。
「大丈夫、怖くないですよ」
 筋骨隆々な笑顔で微笑まれ、サイドルは観念した様子で頷いた。
 自分で歩いているのか、引きずられているのか分からない姿で研究所の中に消えていくサイドルを、
ジーナは気の毒にと見送った。
「さあ、これでサイドルの様子は検査次第で分かるわ」
 クレアは一つ仕事を片付けたと呟く。
「で、そちらもわたしに仕事を持ち込んだのでしょう?」
 ジーナの顔を横目で見ながら言う。
「お察しがいいことで」
 ジーナは笑顔で応じると、胸のポケットからサンドラの家から持ち出した青い薬液に満ちたガラスチ
ューブを取り出した。
「これを分析してくれる?」
 ポイとクレアの手に向かって放った。
 それを手の中に受けるクレアを見た瞬間、ジーナはクレアの目の中にある変化を感じた。
 驚愕と戦慄。安堵と絶望。
 だが一瞬でジーナの思いがただの思い違いだと宣告するかのように無表情が取って代わる。
「これがサンドラの家にあったの?」
「ああ、そう。サイドルの話だとそれをサンドラが試してから様子がおかしくなったって」
「そう。新手のヤクかしらね。非合法と合法の合間を縫うように、新種のヤクは次から次へと開発され
ているから」
「……そうね」
 ジーナはクレアの顔色を窺ったが、何かを読み取ることはできない鉄壁の無表情がそこにあった。
「わかったわ。結果が出たら知らせるから」
 お願いねと言ったジーナにクレアが後ろ手に手を振って去っていく。
 それを見送るジーナの元にも携帯による呼び出しがかかった。
「わかった。署の方に戻る」
 ジーナは電話に向かって言うと、歩きだした。



 歩き去るジーナの後姿を廊下の曲がり角から見ていたクレアは携帯電話を取り出した。
「例のものが手元に戻りました。使われた形跡があるので減ってはいますが、使った男の名も分かって
います。……はい。これで外部に出回ってしまった分はすべて回収したことに。ところでこれを取り戻
した刑事には、分析の結果を求められていますがいかがしましょう? ……わかりました。……ええ、
彼はまだ意識を取り戻していませんから、結果はまだ」
 何度かの確認の返答を繰り返し、クレアが電話を切る。
 その顔に浮んでいたのは、焦燥と何ものかを恐れる蒼ざめた恐怖だった。
 クレアは重い足取りで歩き出すと、研究室の一つのドアを鍵を使って空けた。電子キーのピピっと反
応する音にドアを開け、暗く闇に沈んだ室内を見回した。
 計器の発するわずかばかりの青白い光の中で、銀色の浴槽のようなものが部屋の中央に置かれていた。
 様々なチューブや電極で結ばれた一人の男が、その中に横たわっていた。
 金髪が緑色のどんよりとした液体の中で踊り、幾つもの傷が浮ぶ白い肌がそこにあった。サイドルと
よく似た容姿で。
 額と足にできた銃創も、手の平の傷もまったく同じにその体の上にあった。
 クレアは薬液の中に手を浸すと、その男の頭に手を置いた。
 愛しげに撫でるその手付きは、科学者でも医師としてのものでもなかった。
 今にも涙が零れそうな悲痛な表情で、クレアが呟いた。
「ごめんね。こんなお母さんで」
 そう言うと、クレアは男に繋がれた機械の一つのスイッチを切った。
 パワーがダウンしていく音と、薬液の中でピクリと震えた男の体。
 心電図計が異常を訴える絶え間ない音。
 それらを聞きながら、クレアは男の唯一苦しみを訴えて引きつる手を握り締めていた。
 心電図計がピーと音を鳴り響かせ、心停止を告げる。
 元より意識はなかった男の体から、だが確かに命が抜け落ちた気配が伝わる。死が今目の前にあった。
 クレアは何かを断ち切るように薬液の中から手を抜くと、内線電話を手に取った。
「サイドルが心停止を起したわ。今すぐ蘇生準備を」



「ジーナ、おまえが今している捜査はなんだ?」
 署長の前であらぬ方向に顔を向けて立つジーナがいた。
「ブラウンのやつに口止めしてお前が勝手な単独捜査をしていることなんて分かっているんだ。俺の目
は節穴じゃない!」
 ドンと机を叩いて怒鳴る署長に、ジーナはだが平然とした顔であった。
「エミリー・ウェイザマン殺し」
 署長の言葉に、ジーナの目が細まる。
「その件からは一切手を引け。これは命令だ」
 一方的な通告で告げられた言葉に、ジーナが署長の机に手をついた。
「どうして? あれはうちの管轄で起きた殺しでしょう! なぜ手を引けと」
「しらん。上からお達しだ。この件ではFBIが動いている。もう我々の手を離れたのだ」
「なぜFBIがしゃしゃり出てくる」
 憤然とつぶやくジーナに、話は終わったと、署長が態度でしめす。
「もう、おまえには次の仕事が用意されている」
 だがそう告げた署長に背を向け、ジーナが言った。
「署長、休暇を貰います」
「ジーナ!!」
 怒鳴る署長に、ジーナが笑う。
「もう2ヶ月も休み貰ってませんからね。休暇です。休暇。あ、あとブラウンをいじめたらただでおき
ませんがからね」
 挨拶もなく署長室のドアを閉めたジーナに、部屋の外で待っていた黒人の相棒刑事、ブラウンが困っ
た顔を見せる。
「おまえもまた強気なことで」
「まあな」
 だがそう言ったジーナの顔に笑みはなかった。
「これはもう、ただの殺しとヤクを巡る抗争なんかじゃない。もっと大きな力が背後で働いている事件
だ」
「どういうことだ?」
 いつもは陽気に笑う相棒の顔が、スッと引き締まる。
「上からの圧力がかかった。エミリー殺しの捜査から手を引けと。しかも、いろいろなことが絡み過ぎ
ている。エリザベス誘拐事件に、新種のヤクを巡る抗争。ヘイワード上院議員。どこに事件の発端があ
るのか、まだ見えない」
 腕を組んで考え込むジーナに、ブラウンが首をかしげる。
「で、おまえのこのあとの予定は?」
 ブラウンの心配と予想はついておりますという困った表情に、ジーナは笑いかけると手を振った。
「聞いてただろ。休暇だ、休暇。かわいいお兄ちゃんでも連れて遊び回るさ」
「そのかわいいお兄ちゃんってのはサイドルのことか?」
「さあ?」
 肩を竦めるジーナに、ブラウンが笑う。
 だがその二人の横を足早に通り過ぎた同僚の刑事が呟いた。
「重要参考人のサイドル・ヘリオットが死亡したぞ」
「これで誘拐事件のための手がかりが一つ消えたな」
 その二人の会話に、ジーナは驚愕の表情を浮かべた。
「おい!」
 通り過ぎた二人を呼び止める。
「サイドルが死んだって?」
 呼び止めたジーナとブラウンに、刑事たちが頷く。
「国立脳科学研究所から連絡があった」
「……」
 ジーナの眉間に皺が寄せられ、信じられないという空気と疑惑が溢れ出す。
「ありがとよ」
 返事を返したブラウンに、刑事たちはジーナを怪訝に見ながら立ち去る。
「ますますきな臭いな」
 つぶやくブラウンに、ジーナはその腕を握って感謝を示すと踵を返した。
「おまえはどこに行くつもりだ!」
「だから言っただろ。デートのための休暇だ!」




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