第十ニ話



 サンドラの笑みは足元から冷気が吹き上がってくる。
 その目は決して笑ってはいなかった。狂気が瞳の奥底でうずくまり、残虐な血を求める衝動がそこに
は宿っていた。
 サンドラが床の上のサイドルとエリザベスに一歩づつ近づいてくる。
「そんな餓鬼を膝に抱いて楽しいか? 餓鬼とはいえ女だ。そんなものと肌を触れ合わせているとは感
心しないな」
 サンドラは上からサイドルを見下ろすと、手を伸ばした。
 その手がエリザベスの頭に伸びているのを知り、腕の中に抱きしめて庇う。
 その動きに片眉をしかめたサンドラが、荒々しくサイドルの髪を掴んだ。
 そして後ろに引いて上向かせると、苦痛に歪んだサイドルの顔を、楽しくて仕方が無い遊びを見つけ
た子どものような残酷な笑みで見下ろした。
「おまえは俺のものだ。そうだろ? わが弟」
 そう呟いた口が、サイドルの口を覆った。
 何の遠慮もなしに口の中に侵入してきたサンドラの舌に、体が硬直する。
 抵抗か? 受け入れか?
 サイドルとサンドラの関係など知りもしない。
 弟?
 それならこれはただの親愛の情を示すキスなのか?
 だが執拗に口の中をこね回す軟体動物のような舌は、そんな温かなものは含んではいなかった。
 サイドルはただサンドラの狂気の瞳に射すくめられた動物のようにされるがままに、抵抗もしなけれ
ば、何の反応も示さずにいた。
 ただ下から自分を見上げているエリザベスの視線に、その目を片手で覆って隠した。
 その様子を見下ろしていたサンドラが口を離してフっと笑うと、目を見開いていたサイドルの顔を距
離5センチの位置で見つめた。
「相変わらずおきれいな顔をしてやがる。あの淫売の母親そっくりだ。だからか? 男を引き寄せる淫
靡な空気を体から発散する。お前は蛾を誘引する光のようなもんだ。自分から男たちを誘惑している」
 サンドラの切れそうなほど鋭い視線が、サイドルの両目を見据えていた。
「そんなことしてない。さっき買い物の途中で襲われたこと言ってるんだったら、何もなかった。ナイ
フで反撃してやった」
 精一杯の強がりで言い返せば、サンドラの顔に笑みが浮ぶ。
「そうか。……それはよくやった。おまえは俺の弟だ。舐めたまねは許さねえ」
 荒っぽい手付きでサイドルの頭を抱え込んでその髪を撫でたサンドラは、その頭にキスをすると立ち
上がった。
「このあとの計画を立てる。そんな餓鬼は放っておいて、こっちへ来い」
 サイドルはサンドラの背中に頷くと、ホッと深いため息をついた。
 口の中に溜まったサンドラの唾液を吐き出し、手の甲で唇を拭った。
 そして目隠しをしていた手を下ろすと、エリザベスの顔を見下ろした。どこかばつの悪い顔で。
「……お兄ちゃんでしょ? お姉ちゃんじゃないよね?」
 まさに的確な質問だった。
 サイドルが苦笑する。
「お兄ちゃんだよ。そしてあの怖い人がお兄ちゃんのお兄ちゃんらしいね」
「らしい?」
「覚えてないんだ。なんにも」
 サイドルはエリザベスを膝の上から下ろすと立ち上がり、その手にうさぎの人形を握らせた。
「兄弟でもあんなキスするの?」
「ははは、普通はしないよな」
 しっかり目撃していたらしいエリザベスの好奇心に満ちた目に、サイドルは肩から力を抜いて笑った。
 あれは何を意味しているのか、サイドルにも分からなかった。
 あのキスには、愛情も欲望も含まれてはいなかった。
 ただ罰したキスだ。自分の物が他人の手に渡ろうとしていたことへの罰。これは俺のものだと示すマ
ーキング。
「屈折した兄弟だな」
 まるで他人事のように呟くと、エリザベスの目線でしゃがみ込んだ。そしてその頭を撫でた。
「ちょっと待っててね。あの兄ちゃんに呼ばれちゃったから」
「うん」
 エリザベスが人形を胸に抱えると頷いた。
 だが思いついたように顔を上げると、サイドルに近づいて膝立ちした。
「あのね。お兄ちゃん、さっきの怖いお兄ちゃんにキスされて嫌だったんでしょ?」
 ドアの向こうを気にするように、サイドルの耳元でささやくエリザベス。
「……うん。嫌だったね」
 悪口を言い合うようにこっそりと言う。
「わたしね、お婆さまにキスされるの大嫌いなの。だっていつもママを虐めるし、歯が突然外れてガク
ガクするようなお口でキスされるのは嫌」
 サイドルは入れ歯が外れそうになって手で口を押さえる老婆を思い浮かべて笑った。
「だからねお婆さまにキスしないといけないときとか、されたときにはね、大好きな人にキスし直して
もらうの」
 そう言うと、エリザベスは柔らかい小さな手でサイドルの頬を挟み、ふっくらと膨らんだピンク色の
唇でサイドルの唇にそっと触れた。
 サクランボのような甘い感触が唇に残る。
 エリザベスはエヘヘと笑うと、サイドルに微笑みかけた。
「ありがとう」
 サイドルはエリザベスの頭を抱き寄せると、耳元でささやいた。
 悪意に渦巻く地獄の中で、天使に見出された気分だった。







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