外伝 「キスの後」



5  憧れのスウィート  〈さゆり編〉
    プールで本気で遊びまくってしまったせいで、すっかり疲れてしまった上に、少し冷えて いた体で服を着ると、暖かくて眠くなってしまうのはさゆりだけでしょうか?  プールの更衣室を、メークもバッチし直して出たところで、思わずあくびが出てしまう。  いかんいかん。こんなところを気を抜いて幸太郎ちゃん見られたら、幻滅されてしまう。  何事も心構えから!  ピンクのグロスを塗った唇の口角をグッと上げ、笑顔で待ち合わせのロビーに出ていく。  ソファーに座ってさゆりを待っていてくれる幸太郎ちゃんが目に入る。  濡れていつもよりウェーブの出た髪が、なんともセクシー。これぞ水も滴るいい男って奴 だ。 「お待たせ」  ルンと弾むように幸太郎ちゃんの前に立ち、にっこりとほほ笑む。  別に可愛いっこぶりっこしているわけじゃないの。自然に幸太郎ちゃんの前に立つと笑顔 になっちゃう。何といっても、今日はプールでいっぱい遊べちゃったし、思う存分幸太郎ち ゃんに抱きつけたし。  さゆりは満足じゃ。  幸太郎ちゃんもさゆりを見上げて笑顔を向けてくれる。 「疲れた? プールなんて久しぶりに入ったから、なんか甘酸っぱい高校生の時とか思い出 しちゃったよ」 「それってモテモテの記憶?」  ちょっと眉を持ち上げて意地悪く言ってやると、幸太郎ちゃんが苦笑いで否定する。 「俺のいた高校って、結構体育とか真面目にやらないと補習とか食らう学校でさ、面倒だと 思って休んでたら、しっかり緑色になりかけのプールで遠泳3キロやらされて」  今でも思いだすと鳥肌が立つのか、幸太郎ちゃんが自分の腕をさする。 「もしかしてカエルの卵と一緒に泳いでたの?」  透明のギョロギョロの中にある黒い点のあるカエルの卵を頭に乗せた幸太郎ちゃんをおも いうかべちゃって、両手で肩を抱いて逃げるように身を引く。 「まさか。そこまでいってたらさすがに断固拒否だよ。でも、もう季節も夏って感じじゃな いから水温低いし、水は気持ち悪いし、おまけにみんなが冷やかしで窓から眺めててさ。俺 一人じゃなかったのが、唯一の慰めだったかな」  かなり同情してしまう思い出話に、かつてのがんばった幸太郎ちゃんを褒めてあげるよう に、いい子いい子と頭を撫でてあげる。  それを気持ちよさそうに受けた幸太郎ちゃんが、立ち上がるとさゆりの手を取る。 「お腹空いたでしょう。おいしいご飯食べに行こう」 「うん」  時間はすっかりお昼なんて過ぎていて、今からではおやつな時間。 「こんな時間にレストランなんてファミレスくらいしかないね」  さゆりはそれでもいいけれど、幸太郎ちゃんとファミレスって似合わない。  そう思っていた時、幸太郎ちゃんが思わせぶりな顔でさゆりを見下ろす。 「そう思っていいところ押さえておいたから」 「いいところ?」 「そう。さゆりちゃんが行きたがってるところだと思うよ」  スィート。  甘いって部屋って、お菓子のお家? なんてボケはなしで、ここはスウィートルーム。  甘い甘い二人のための、スィートルーム。  幸太郎ちゃんがカードキーでドアを開ける前から、心臓はドキドキ、バクバク。  スィートルームなんて、一生入る機会がないと思っていたのに。それも幸太郎ちゃんみた いなハンサムな彼氏と。 「どうぞ」  レディーファーストでドアを開けてくれた幸太郎ちゃんが、さゆりを部屋の中へと促す。 「失礼しま〜す」  なんて言って入ったらカッコイイ女を気取れるかな、と一瞬考えたんだけど、考えても分 からないやと放棄して、いつも通りに入っていく。  すると一歩足を踏み入れた瞬間に、甘い香りに包まれる。  ここがスィートルームだから、こんな甘い香りがするの?  濃厚なバラの香りが広がり、暗い室内のどこかでゆらゆらと揺れるキャンドルが焚かれて いる、炎の揺らぎが見える。  そしてもう一歩足を踏み出したとき、フットライトが反応してやんわりと光度を上げなが ら部屋の中を照らし出す。  その瞬間、思わず声を上げてしまった。 「うわ〜。すごい。何これ」  部屋一面、さゆりが歩くための幅を残して、ベッドの上から床一面まで、バラの花で埋め 尽くされているのだ。  ピンクや白や黄色などの柔らかな色合いのバラが、さゆりを迎え入れるために待っていて くれたのだ。 「気にいった?」  後ろからドアを閉めて入ってきた幸太郎ちゃんが囁く。 「うん。でも、すっごいキザ」 「一度やってみたかったの」  そう言うと、幸太郎ちゃんがさゆりを後ろからギュッと抱きしめてくれる。  それにドキドキいっていた心臓が、さらにぎゅっと締めつけられて苦しいくらいに大きく うつ。  幸太郎ちゃんは優しい。  けれど、思えば幸太郎ちゃんからわたしに触れることって、あまりなかった。  キスをせがむのもいつもさゆりで、抱きついたり手を握ったりするのもさゆりからだった。  だから、いつもラブラブで一緒にいたつもりだったけれど、こうして幸太郎ちゃんから抱 きしめられると、初めて手を握り合うくらいにドキドキしてしまう。 「ねぇ、さゆりちゃん。俺のことどう思ってる?」  耳にかかる幸太郎ちゃんの息にゾクっとしながら、部屋の中を埋め尽くすバラの濃厚な香 りに眩暈がしそうになる。 「大好きだよ」 「俺のこと、信じてる?」 「うん」  恥ずかしく思いながら、自分の精一杯の気持ちを伝えようと、心をこめて答える。  それが通じたのか、幸太郎ちゃんがぎゅっと力を込めて抱きしめると、耳元で小さく囁く。 「ありがとう。すごくうれしい。俺、ずっとさゆりちゃんが俺と一緒にいてくれるのは、他 の女の子たちと同じで、興味本位で一時の遊びにはちょうどいい相手だと思ってるだけなの か、分からなかった」 「そんなぁ。さゆりは本当に幸太郎ちゃんって一人の人が好きなんであって」  振り向いてドンと幸太郎ちゃんの胸を叩きながら反論すると、それすらも嬉しそうに微笑 んだ幸太郎ちゃんに、今度は正面から抱きすくめられ、幸太郎ちゃんの胸に頬を押し付ける 形になる。  そうすると、さゆりの耳に思ってもみなかった、幸太郎ちゃんのドキドキと早くうつ心臓 の音が聞こえてくる。 「幸太郎ちゃんの心臓、ドキドキいってる」 「だって緊張してるし」  直接胸から響いて聞こえた幸太郎ちゃんの声に顔を上げると、初めて見る緊張に余裕がな くなった顔が見える。 「さゆりちゃん、俺のこと、ただの女たらしだと、もう思ってないよね」 「女の子にもてるのは事実だけど、たらしじゃないと思うよ。すっごく真面目で優しくて、 それから包容力もあるよね。なんていっても、あの上条時人と友達になれるくらいなんだか ら。それに、子どもも救っちゃうスーパーヒーロー」  嬉しくなって手放しで褒めると、幸太郎ちゃんはますます照れた顔で顔を赤くする。  そしてギュッとさゆりをもう一度抱きしめてから言ったのです。 「俺、今さゆりちゃんのこと抱きたい。いいかな?」  待ちに待っていたはずの言葉で、自分から何度も仕掛けていたはずなのに、その言葉にカ ーっと顔が熱くなる。  思わず固まってうつむいてしまったさゆりに、幸太郎ちゃんが身を屈めると頬にキスをす る。  優しく触れた幸太郎ちゃんの唇が、次についばむようにそっと触れながら、何度もさゆり の頬に触れ、瞼にふれ、それから唇の端に触れる。  目を瞑ってその感触を味わっていたさゆりの口から、思わず吐息が漏れてしまう。  うっとりと潤んだ瞳で見つめ返すさゆりに、幸太郎ちゃんが痺れるくらいにエクスタシー なまなざしで言う。 「さゆりちゃん、大好きだよ」  そしてバラの花びらをまき散らしながら、さゆりはベッドのやわらかな膨らみの中に押し 倒されたのでありました。  
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