外伝 「キスの後」



4  人生、塞翁が馬  〈幸太郎編〉
    やっぱり予感的中です。  これは悪夢であって、同時にすばらしく天国な出来事なのです。  俺は、いろんな意味で涙が出るような気分で、周りを見回す。  もう外は肌寒くなる季節だというのに、モワっとせまってくる熱気にマッチして、ヤシの 木が風に揺れている。  その頭上には、燦々と差し込む太陽光を取り込むガラスの天蓋。  ちょっとプール独特の塩素臭さは鼻につくけれど、空気全体を覆う楽しさ全開の人々の歓 声と、走り回る子供たち。  ほのぼのとしています。  そして、俺の腕にもほのぼの……ではなく、ボインボインと揺れるさゆりちゃんの胸が密 着しております。  キャピキャピと音がしそうな足取りで歩くさゆりちゃんは、かわいい水色のビキニで、み んなに自慢したくなるくらいのナイスバディー。  上からちらっと見降ろせば、ビキニのカップから溢れそうな、やわらかおっぱいが揺れて います。ぷるぷるプリンみたい?  この上なく絶景なんですが、禁欲中の男には地獄です。  この休日の幸せな楽しみに包まれた空間の中に馴染めない自分を感じて、そっと溜息をつ いてしまう。 「ねぇ、波のプール行きたい!」  正面に出現したプールでは、巨大な波が起こっていた。その波にキャーキャーと悲鳴を上 げながら、子どもから大人までが激しく揺れる波の高低の中で飛び跳ねたり、流されたりで 楽しんでいる。 「あれ、一番深いところは、俺でも胸まで埋まるでしょう。あんなところに小学生がいてい いわけ?」  プールの表示では一番深いところで160センチとあるが、そこに波が発生して2メート ル近くなるはずだ。  だがそんな荒波にもめげず、一番深いところで小学生たちが大波に乗って楽しんでいる。 「そんなことはいいから、行こう!」  さゆりちゃんが俺の手を引いて走り出す。  どうやらこのプールは、カップルに一番の人気スポットらしい。  他にもウォータースライダーや、流水プール、プール版の樽で滝を下るジェットコースタ ーなどがあるのだが、二人で密着して騒ぎ合うには、この飛び跳ねる水しぶきと女の子では 覚束ない深さがベストらしい。  プールに足を踏み入れたさゆりちゃんも、早速足元で跳ねた水しぶきに「キャ」っとかわ いらしい悲鳴を上げる。  足元にかかる水は温水で、冷たさは感じない。  その中を進んで行きながら、次第に深くなっていく水に、さゆりちゃんは俺の腕にしがみ つき、自然、俺も守るようにさゆりちゃんの腰に手を回して支える。 「きもちいいね」  本当にね。いろんな意味で。  そんな素直な感想は口には出せず、さわやかに笑ってごまかしておく。  波のプールは緩やかにその波の高さを上げていくのだが、マックスになると男の俺でもド ンという衝撃で後ろに流されそうになる。  そんなもんだから、さゆりちゃんも次第に本気モードで悲鳴を上げ始める。  真面目に俺がここでさゆりちゃんを離したら、完璧さゆりちゃんは水没。  そんなところで小学生がこぞって場所取りをしているのだから、子どもの体力とポテンシ ャルはすごい!  なんて思っていたその時、不意に黄色い悲鳴を上げていたさゆりちゃんが、マジな口調で 耳元でささやく。 「ねぇ、幸太郎ちゃん、あれってわたしの目の錯覚?」  そうささやく間にも波は間断なく上下を繰り返し、顔にも水しぶきを掛けてくる。 「何が?」  さゆりちゃんを支えつつ尋ねる俺に、さゆりちゃんが目をまん丸にして前方のプールの中 を凝視している。 「あれ、あそこに子どもが沈んでる」  その言葉に、俺もギョッとしてさゆりちゃんの視線の先を見つめる。  と、確かに赤い水泳帽を被った子どもの体が、プールの底に沈んでいるのが目に入る。 「ヤバいってあれ! さゆりちゃん、俺、助けるから、自分のことは自分で助けて」  そう言って支えていたさゆりちゃんを離し、プールの中へと潜る。  直後に「え?」と慌てたさゆりちゃんの声が聞こえたが、いくらかわいい彼女でも、子ど もの命の危機には代えられない。  波で押し返されそうになりながら、林立する人間の足を擦りぬけて子どもに近づいていく 。  青白い唇で完全に意識を失った体を掴み、水面へと上昇する。  そこで聞こえたホイッスルの鋭い音と、プールサイドに駆け寄ってくる監視員の姿。  その監視員の横で、頭からずぶ濡れになったさゆりちゃんが蒼ざめた深刻な顔で、俺と俺 の腕の中の子どもを見下ろしていた。  プールの中で騒いでいたはずの人たちが、サッと体を退け、幸太郎のために通路を開ける 。  プールの上から差しのべられた監視員の腕に男の子の体を渡し、すぐに始められた心肺蘇 生を見守る。  プールの中は流れる音楽と、遠くこの状況を知らない客の上げる歓声が聞こえたが、緊張 に静まり返った周囲の空気の中で、全員が男の子の蘇生を願って見守る。  男の子の母親らしき人物が叫びあげながら駆け寄り、男の子の名前を叫んでいる。  と、ドッと口から水を吐き、せき込んだ男の子が意識を取り戻す。 「はぁ、よかった」  周囲からそんな声が漏れ、一斉に拍手が送られる。  男の子はタンカーで救護室に運ばれて行ったが、もう顔色も血の気が戻り、しっかりとし た調子で受け答えできていた。 「よかったね、幸太郎ちゃん」  心底ホッとした顔でつぶやくさゆりちゃんに手を引かれ、プールから上がる。 「うん。さゆりちゃんが発見してくれたから、あの子も助かったんだよ」 「ううん。幸太郎ちゃんがすぐに助けに行ったから」  二人で褒め合って、お互いに照れ笑いを浮かべあう。  そこへ監視員の責任者らしい中年のTシャツが似合うおじさんと、男の子の母親が近づい てくる。 「本当にありがとうございました」  頭を下げてくる二人に、「いえ、たいしたことはできなくて」とさゆりちゃんと二人で頭 を下げる。 「助かって本当によかったです。元気になってまたプールで遊べるといいですね」  さゆりちゃんが涙ぐんでいる母親に言うと、もう一度頭を下げて救護室へと戻っていく。 「なんか、遊び来ただけなのに、すっごい現場に立ち会っちゃったね」  少し興奮した口調で言ったさゆりちゃんに、「たしかに」と応じながら、良い事をした満 足感に頷く。  そして俺は、さゆりちゃんの待ちに待っていた言葉を耳にするのだった。 「幸太郎ちゃん、カッコ良かった。女の子にもてる外見のカッコよさだけじゃなくて、男と してカッコよくて、わたし、ますます好きになっちゃった」  うつむき加減で顔を赤くしながら言ったさゆりちゃんに、真顔で呆然と「え?」と聞き返 してしまう。  そんな俺にさゆりちゃんは、背伸びして頬にチュッとキスをしてくれる。 「幸太郎ちゃん、素敵」  人間として真っ直ぐに自分を見てくれたその言葉が嬉しくて、俺はさゆりちゃんの唇にキ スを返す。 「ありがとう」  これって俺の名誉挽回できたってこと? だよね。  
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