実験 6  何よりも大切なもの 




「時ちゃん!」
 後ろから駆け寄った美知子の前で、時人が苦しい嘔吐の声を上げて胃の中のものを吐き出す。
 とはいえほとんど中味のない胃から出てくるのは、今さっき口に入れたばかりの消化もなにもされて
いない肉とビール。そして胃液だけだった。
 酒に酔ったからの嘔吐というよりは、極度の精神的緊張に体が堪えられなくなった結果だ。
「ごめんね、時ちゃん」
 後ろから時人の背中をさする美知子に、時人が口を手で覆ったまま惨めな自分を見られたくないと主
張するように、その手を払いのけた。
「ぼくに触るな!」
 あまりに鋭いその声に、ビクっと体を縮めた美知子が手を引く。
「………」
 地面に手をついた荒い息で背後を振り返ってみた時人が、傷ついた美知子の顔に眉間に皺を寄せる。
 なんでそんな傷ついた顔すんだよ。傷つけるようなことを言ったのはそっちじゃないか。それなのに、
そんな顔されたら男のぼくの方が悪者みたいで……。
 時人は自分の吐き出した饐えた匂いに液体を見下ろし、ますます眉間の皺を深くした。
 なんて大人気ない考え方なんだろうと自己嫌悪にさいなまれる。
 ついさっきは自分と幸太郎を比べて、子どもだと見下げられる自分が嫌だと叫んでみたはずなのに、
今度は男としての度量を求めらることへの不満を胸で呟く。
 大人の男になりたいと思いながら、その責任までは受け入れるつもりがない。ただの駄々っ子じゃな
いか。
 不甲斐なさで時人は地面の草を掴んでうな垂れた。
「時ちゃん、本当にごめんね。わたし、時ちゃんの気持ちも考えないで」
 美知子の声が背中でする。だが先ほど時人にきつく触るなと命令されたせいで、一定の距離を保って
側に寄ろうとはしてこなかった。
 そんな怯えた態度に、時人はただ頭を横に振ることしかできなかった。
 今は美知子やさゆりの言動に怒っているわけじゃないと、自分の甘えに嫌気がさしているだけなのだ
と言ってやりたいのに、プライドと口を開く面倒さで言葉が出てこない。
 美知子はそっと時人の隣りにしゃがみこむと、手持ち無沙汰な様子で草をちぎりはじめる。
「わたしね……男の子って実はどう接したいいのか分からないんだ」
 不意に告白した美知子に、時人はその横顔を窺うように覗き見た。
 少し口元に笑みを浮かべた美知子の顔は、だが楽しい思い出も思い返しているというよりは、僅かに
切なさを滲ませた目で遠くの庭の木を見つめていた。
「うちって女しかいない女系家族でさ。お母さんにわたしに、妹二人。お父さんはわたしが五歳の時に
事故で死んじゃってね。だからずっと男の人が家族にいない中で育っちゃったんだ。だからかな? 男
の子と話すのが苦手でね。特にわたしのことを異性と意識して声をかけてくる男の子がね」
 美知子が時人に目を向けると、目のあった時人に笑いかける。
「だからわたしが話せるのは幸太郎くんと時ちゃんだけ。幸太郎くんはああみえて女の子を女としては
見てない。一人の人として見てる。時ちゃんも、女の子の女の部分を見ないでわたしを見てくれてる。
だから二人だけが、わたしの男友だち」
 美知子は笑いかけると、ポケットからハンカチを取り出し、時人の前に差し出す。
 それを受け取って口を拭うと、時人は地面に座り込み、思っても見なかった美知子の告白を黙って聞
いていた。
「それからついでに告白すると、わたしって人と触れ合えないんだよね」
「触れ合えない?」
「うん」
 初めて返事を返してくれた時人に微笑みながら、美知子も時人と同じように地面に尻をつけて座り込
む。そして空に浮んだ月を見上げて話しを続けた。
「わたしとすぐ下の妹って年子なんだよ。そのうえうちのママは美容師やってて忙しかったから、甘え
てる暇がなかったっていうか。きっと抱っこしてもらったり、自分からママやパパに抱きついていった
りってことができなかったんだと思うんだ。かえってそうすることに罪悪を感じてしまうように育った
んだよ。忙しいママやパパに迷惑をかけてはいかないって」
「……うん」
 両親の記憶のない時人だったが、思い浮かんだ情景に頷いてみせる。
 きっと小さな美知子は、誰もが求める子どもらしい素直で聞き分けのいい子どもを演じて、心の中の
本当の気持ちを押し殺し続けてきたのだろう。ぬいぐるみを抱っこした美知子が、父親や母親の背中で
今まで見せていた笑みを消して切ない顔でぬいぐるみを抱きしめているのが見える気がした。
「だからかな。わたしって、女の子とでも手を繋いだり、抱きしめたりってことができないの。恥ずか
しいとかってことじゃなくて、胸の中が嫌な気分でいっぱいになっちゃうの。女の子って、泣いていた
りする友達がいると抱きしめてあげたりすることがあるんだけどね、わたしはできない」
 子どもの頃に落としてしまった落し物は、みつけることが容易ではない。取り戻しに戻りたくても、
それは遥か彼方の時に沈んでしまっているからだ。
 そしてそこまで戻るためには、多くの犠牲を払う覚悟が必要なのだ。恥や外聞を捨て、その時に立ち
戻らなくてはならない。
 時人は自分がついさっきした子どもじみた言動を思い返して頷いた。
「ぼくもできない。誰かに触れることが怖いんだ」
 時人は美知子以上に親とのスキンシップなどという機会を剥奪されて育った子どもだった。より早く
自立することが求められたからだ。
 だからこそ、調和のとれた人格形成ができずに成長してしまったのだと自分でもわかっていた。適度
な甘えとは何なのか、理解することができない。なんでも自分一人でできるんだと、自分にも周りの人
間にも過剰なほどにアピールして生きることしか知らないのだ。
「ぼくはだから人を遠ざけて一人になろうとした」
「わたしは子どもみたいな言動でみんなに可愛がってもらおうとしてた」
 二人で自分の行動を見つめ直し告白し合うと、顔を見合わせて笑った。
「似た者同士ってことか?」
「……そうかもね」
 時人も頷きつつ、声を漏らして笑う。
「だからか。女の子に興味がないんじゃなくて、人間と触れ合うことから最初から逃げてるんだ。それ
じゃ、好きなんて感情は生まれないよな」
 時人は足を投げ出して座り込むと、美知子と一緒になって空を見上げた。
 大きな満月が、空に淡い黄色の光を広げながら浮んでいる。
 美知子は芝生の上に寝転がると、大の字に手足を広げた。
「わたしたちの明るい将来のためにも、取り逃してきたものを手に入れないといけないよね」
 決意を表明するようにいう美知子の顔を、時人は見下ろして言う。
「どうやって?」
「時ちゃんにはママに甘えた経験がない。わたしにはパパに甘えた経験がない。だから、時ちゃんには
わたしがママになってあげる」
「………だったらぼくが美知子のパパ?」
 有り得ないからと首を振る時人に美知子が笑い声をあげる。
「だったら、わたしたち姉弟になろう?」
「姉弟?」
「そう」
 美知子はそういって芝生の上の時人の手を握った。
「お姉ちゃんと弟で、仲良く芝生に寝転んでお月見」
 そののほほんと幸せそうな口調に、時人は苦笑しつつも一緒になって芝生に寝転んだ。
 背中にチクチクと刺さる芝と、立ち上る草いきれが時人を包む。
 そして同時に繋いだ手から、人の温かい体温が伝わってくる。
 背中はひんやりと冷たいのに、そこから出た腕を暖かな気持ちの愛撫を伝えてくる。
 こんなのもいいかもしれない。
 時人は草むらから聞こえてくる虫の声に耳をすませて目を閉じた。
 美知子と繋いだ手に、何の違和感も不快感もない。あるのは安心感だった。
 その二人の顔の上を、プーーーンと音をたてて蚊が飛んでいく。
「蚊が雰囲気ぶち壊し」
 美知子がいつもの拗ねた口調で言う。
「おまけに焼肉の煙の匂いも風流をぶち壊してる」
 時人はそう言って鼻で笑うと起き上がって明かりの灯る庭の方に目をやった。
 そしてそこに、壁に身を潜めながらこちらを窺うさゆりの姿を見つけてため息をつく。
「アレで隠れてるつもりか?」
「ダメダメなピンクレンジャーだから」
 美知子の言葉に、二人で顔を見合わせて笑い声をもらす。
「ああーーーー。何こっそりとしのび笑いしあってるわけ? やらしいなぁ。せっかくお肉焼けてるか
らおいでって迎えに来て上げたのに!」
 さゆりが壁から姿を現し、腰に手をあててプンスカと怒ってみせる。
「はいはい、分かったから。わたしと時ちゃんは、秘密の姉弟の契りを交わしてただけ」
「……それ、もう秘密って言うか、全部言っちゃってるから」
 隣りで時人がボソっと呟く。
「姉弟?」
 そしてさゆりが首を傾げる。
 だがその三人の会話を断ち切るように、ファンランの怒鳴り声が響く。
「トキート、ミチコ、サユリーーー。わたし、こんなにお肉食べれないよ。お肉炭にするつもりあるか
?!」


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