実験 6  何よりも大切なもの 




 初めてのキスの感触に、時人は脳みそが溶け出すような解放感を感じていた。
 この感覚はなんだ? 気持ちいい?
 そんな俗物的でも表面的でもなく、もっと体の奥底の深いところに触れられたような感覚。
 ゆっくりと目をあけた時人は、閉じた目でうっとりとした表情を見せているさゆりに、再び心臓をド
キンと跳ねさせた。
 か、かわいい……。
 視界が薔薇色に変色していくのが、時人にもリアルに分かった。
 今までのさゆりを見ていたのとは違う眼球に代わったのではないかと思うほどに、さゆりが可愛らし
く綺麗に見えてくるのだ。
 顔の両側に下がったシャギーの髪の毛先も、頬に陰を落とす長いまつげも、ピンクの頬も、まるで煌
めきをまとったように美しく見える。
 目をあけたさゆりと見つめあう。
「もう一回……」
 そうさゆりが言いかけたところで、時人は自分でも思っても見なかった行動に出ていた。
 右手がさゆりの頬を包み、自ら上体を起してさゆりの唇に唇を重ねていたのだった。
 ほんの一瞬の接触。
 だが時人にはそれが精一杯だった。
 どきんどきんと今までに経験がないほどに激しくうつ心臓に、息も絶え絶えになって胸に手を置く。
「ご、ごめん。もうこれ以上はぼくの心臓がもたない……」
 そういって時人がバタンとソファーの上に倒れる。そしてまるで百メートル走を全力で走り終わった
かのごとくに荒い息をつく。
 顔は真っ赤に染まり、恥ずかしくてさゆりを見ることができるずに反らした目が、必死で絨毯の目を
数えているのだった。
「時人くん、かわいい」
 さゆりは年上のお姉さんの余裕で微笑むと、時人の頬にキスを落とす。
 その拍子に頬を掠めて香ったシャンプーの香りだけで、時人の心拍数は急上昇。
 頻脈で意識が飛ぶかも……。
 時人が本気でそう思っていたとき、不意にさゆりが窓の方を振り返って硬直した。
「み、み」
「み?」
 さゆりの変化に気付いた時人が顔を上げる。
 そしてそこに見つけた鬼の形相に、思わずソファーの上であったことを忘れてあとずさった。
 もちろんその結果、ソファーから転げ落ちる結果にはなったのだが。
「美知子……」
 神出鬼没の美知子が、見せ付けられたラブシーンにじっとりとした目で室内を睨みつけていたのであ
った。


「ふーーん、あ、そう。二人ってばわたしに内緒でそんな関係になってたんだ。ふーーーん。時ちゃん
ってば女嫌いとか言っておいて、結構やることやってんだ!」
 庭で始まったバーベキューの準備をしながらも、美知子が腹に据えかねたように文句をいい続ける。
 どうやら時人が知らぬ間にファンランと美知子でバーベキュー大会の開催が決定されていて、さゆり
と時人が家で一騒動起している間にファンランとお買い物に行っていたようなのだ。
「別にみっちゃんが怒ることないじゃん」
 炭をくべて火をおこしているさゆりは、実にシレッとした態度でそういうのだが、時人の方は居たた
まれない気分でいつもはしないファンランの手伝いなどをしてしまっていた。
「もしかしてみっちゃん、時人くんのこと好きだとか?」
 爆弾発言をかますさゆりに、時人がぎょっとして振り返り、美知子もビクっと妙なリアクションで体
を固める。
「まさか。簡単に女の子とキスしちゃうような時ちゃんなんて嫌いだし」
 あまりにストレートすぎる物言いに、さすがの時人もシュンと萎れた花のごとく肩を落とす。
「そんはいうけど、時人くん、全然キス慣れしてない感じだったよ。もう、フレンチキスだけで精一杯
って感じの初々しさで」
「そりゃ男なんてみんなマザコンだし、女を抱きしめつつ本当は抱きしめてくれたママの代わりを求め
てるんだもん。でも、時ちゃんはそんなマザコンになりたくても、本当のママを知らないから甘えベタ
っていうか」
「ああ。その意見にはわたしも同意」
 批評される時人をよそに、さゆりと美知子が時人談義をシビヤに進めていく。
「あ、あの、ぼくのことはもう放っておいて……」
 恐る恐るお伺いを立てるように言った時人だったが、女たちには完全無視を決め込まれる。
「さあ、さあ、肉食べるあるよ。たくさん買ってきたから」
 ファンランが網の上に肉を乗せて焼き始める横にいそいそとむかい、時人は女たちの談義が耳に入ら
ないようにと離れる。
 網の上に乗せられた肉が次第に肉汁を滴らせはじめ、ジュージューといい具合に音をたて、時人の耳
から女たちの声を遠ざけてくれる。
 だが自分の悪口ほど耳は見事により分けて音を聞き分けるのだから、時人は口に入れた肉の味がわか
らなくなる気分で小さくなる。
「そういうさゆりちゃんはどうなのよ。時ちゃんの上にのしかかっちゃって、すんごいうっとりした目
してたの見たんだから」
「う〜〜ん、もちろんキスのテクニックなんて全然時人くんにはないんだけど、はじめて感じた感触だ
ったなぁ。これこそファーストキスの味ってかんじ。もちろんわたしはファーストキスじゃないんだけ
どぉ」
「なんかその発言って、遊んでる女の子が年下の男の子を手の平で転がして楽しんでるって感じて、美
知、好きじゃないなぁ」
 こ、転がされてたのか?
 聞き耳を立てていた時人が、焼けている肉を見つけながら静かにショックを受ける。
「えーー。別に転がして遊んでポイしちゃうような尻軽女になるつもりはないけど」
「じゃあ、時ちゃんと付き合うっての?」
「んーーー。それは…………………ないか」
 随分と長い逡巡のあとの否定に、がっかりなのかホッとしたのか分からない感情が胸に湧き上がる。
 顔は思わず無表情。
 そんな時人の顔をチラっと見た美知子と目が合い、時人はさっと視線を泳がせた。
 そして目に入ったビールをグイッとあおる。
「あーー、時ちゃん未成年なのに、ビール飲んでる!」
 確かに時人はスキップで大学まで進んでいるために未だ16歳。対して美知子やさゆり、そしてここ
にはいないが幸太郎も二十歳の大人なのだ。
 アルコール分などわずかなビールだが、初めて口にした上に、対して腹に食べ物を入れていない状態
であおった時人のバランス感覚が、頭の中でクラリと回る。
「ヘン。どうせ初恋もしらないガキだと思って、二人でぼくのことをバカにしてればいいんだ!」
 いつもは決して口にしないような子どもじみた拗ねた口調で、時人が言ってそっぽを向く。そしてイ
ス代わりにしていたビールのケースを蹴り飛ばす。
「トキート! 酒乱だったあるか。それもすっごく酒に弱い酒乱!」
「うっせい、ババア!」
 手にしていたビールの残りを一気に飲み干し、口から零れて喉に滴った雫を手の甲で拭う。
「どうせぼくは、自分で自分を天才と自称しなければ自尊心も保てないような弱虫だし、人間的な価値
なんてないダメな男だよ。女の子みたって幸太郎みたいに優しくできないし、うまく話せなくてつまら
ない思いさせるだけだし、まともな感性さえないできそこないだよ。そんなぼくだから、親にだって捨
てられるんだ!」
 時人の最後の叫びに、場がシーンと緊張した空気に包まれる。
 やけにジュージューと焼ける肉の音だけがあたりを覆う。
 さっきまで怒っていた時人の顔に、涙が伝う。
「時人くん」
「………泣き上戸だったあるね」
 一人場の空気を無視して肉を食うファンラン。
 その横で不意に口を手で覆った時人が家の裏に向って走り始める。
「時ちゃん!」
 その後を美知子が追う。
 さゆりもその後を追おうとして、ガシっとファンランに腕を捕られる。
「トキートとミチコがいなくなったら、誰がこの肉食べるね。焦げちゃうじゃない!」
 肉を歯の間にはさみながら見上げられたさゆりは、網一面に食べごろの肉が並ぶのをみつめ、「はい」
と迫力負けして返事を返すのであった。


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