実験 6  何よりも大切なもの 




 大学の構内の一室に集められた一団があった。
「ずいぶんとものものしい装置だな。なんだか俺が喰われちまいそうだ」
 もちろん不敵な笑みを浮かべてそうのたまうのは村上氏。
 頭に巨大な電極を配線した装置を被せられ、全身をイスの上で固定された村上氏が居心地悪そうに身
じろぎする。が、顎までベルトが回されている体ではそれもままならない。
「おい、幸太郎。この装置の開発者の坊やがいなくて大丈夫か?」
 壁に寄りかかって事の成り行きを見守っていた幸太郎に村上氏が言う。
「たぶん。俺はよくわからないけど」
「おいおい、おまえも工学部だろ」
「一応。でも天才君の考えなんて一片たりとも理解できませんから」
 自信たっぷりに腕組みして断言する幸太郎に、村上氏も苦笑を浮かべる。
「自慢できることじゃねぇぞ」
「村上さん。上条がいなくてもご心配なく。彼とも十分に連携してこれまで共同実験を続けていますか
ら」
 側で装置に電極を接続していた技師の一人が言う。
 それに偉そうに頷いて見せた村上氏だったが、再び幸太郎に目を向けると口を開く。
「で、その天才坊やはどうしたんだ?」
「腹こわして病院」
「腹をこわした? まさかゆりの昼飯じゃないだろうな」
「いや、昨日の夜に家でバーベキューして食いすぎたみたいですよ。自業自得」
 幸太郎がフンと意地悪く笑みを浮かべると言った。
「なんだ幸太郎。いやに冷たいじゃないか。友だちだろ? ……ああ、おまえ拗ねてるんだな」
 村上氏が幸太郎の心のうちを見透かしてやったぞと会心の笑みを浮かべる。
「おまえはバーベキューに呼んでもらえなかった!」
 ドーーンと指さしで叫んでやろうとした村上氏であったが、腕も固定されていたために勢いよく上げ
ようとした腕の肉が、ベルトの間で板ばさみで痛みを訴える。
 顔をしかめ、さらに動かないでと厳重注意を受けた村上氏に、幸太郎がさらなる苦笑を重ねる。
「はいはい、先生おとなしくしていてください。子どもじゃないんですから」
 復讐だと幸太郎が言うのに眉を顰めて見せた村上氏だったが、幸太郎の顔をみてから笑みにその表情
を変えた。
「いい友達ができたな」
「?」
 不意に言われて顔を傾けた幸太郎だったが、村上氏にはそんな顔さえ昔には見ることができなかった
豊かな表情なのだと思った。
「はい、では実験始めますよ」
 その言葉と同時に工学部の教授と医師団の一人が村上氏の前に立つ。
 でっぷりと太って張り出した腹を白衣で包んだ、愛嬌のある教授だったが、今日はひどく神妙な顔で
村上氏を見つめている。
「我々が上条君とともに作りあげたのが、実験の第一段階を試す装置です」
「第一段階?」
 機械に飲み込まれているような村上氏だったが、いつもの威厳を保ったままに言う。
「はい、それはわたしから」
 教授の隣りから医師の一人が進みで、話し始める。
「以前にもお話しましたが、我々の脳内で行われる、見るという能力のために行われる処理は多岐に渡
り、全てが解明されているわけではありません」
 まだ三十代だろうと思われる若い医師は村上氏の前にポケットからリンゴを取り出して見せる。
「あなたにはこれが今現在は黒い物体に見えているはずです」
「ああ。黒からグレーへの濃淡ぐらいはあるがな」
「はい。では、目を閉じて今見た映像を思い浮かべてください」
「黒いままだ」
「そうです。今回の実験では、目でみた映像は今までのまま白黒の世界のままなのですが、脳内での色
の回復を図りたい。つまり、目を閉じたときには赤いリンゴが見えるようにしたいのです」
 医師の説明に村上氏は目を開けると頷く。
「あなたは画家だ。色に関する知識は我々の感知範囲を遥かに超えるものがある。でも、今は赤という
色を知ってはいても脳がそれを知覚する機能を停止させている。色の名前と実際に色彩を思い浮かべる
経路を確立すれば、脳内の映像には色がつくと考えられます」
 了解を示して村上氏が頷くのを見て、後ろから幸太郎が声をかけた。
「それが第一段階だとすると、目で実際にみたものに色がつくのは何段階目になるんですか?」
 その質問に医師はともに来ていた医師団と目配せし合う。
 そして村上氏の落ち着いた、わたしも知りたいという頷きに応える。
「まだわかりません。見たものそのものの色を知覚する視神経の働きに支障がないことはわかっていま
すが、それを脳で感受する器官に損傷があるのかもしれないですし。人間の色を感知する機能は高次な
様々な処理の末にあることは確かなので、その道程のどこに損傷があるのかを細かく調べていかないと」
 その全てを受け入れる覚悟を示して頷いた村上氏が頷き、言う。
「わかった。では、始めてくれ」


 ベッドの中に青い顔で横たわる時人を見下ろし、幸太郎がこれ見よがしにお見舞いに持ってきたモモ
を食べてみせる。
「ああ、うまいな」
 時人の小さな部屋の中はモモの果汁の上げる甘い匂いに満たされ、布団から顔の半分を覗かせた時人
が恨めしげな目を向ける。
「……病人の目の前でものを食って見せるとは、つくづく無神経だな」
「なんだ? おまえも食いたいの? あげてもいいけど、こんな繊維の多いもの食ったらものの数十分
でおまえトイレに直行だぞ」
 なんだか頬の辺りまでこけてしまったような顔の時人が、甘い誘惑を断念するようにため息をつく。
 それをおもしろそうに見下ろしていた幸太郎は、モモの皿を背後の机に置くと時人の額に置かれてい
たタオルをひっくり返してくれる。
「熱を出すまで肉食うバカいるか?」
「違う。これはファンランが無理やり食べさせたんだ。それから熱の原因はあのさゆりって女のせいだ
ぞ」
 腹を下したうえに三十八度の熱を出している時人は、熱のためか興奮のためか、赤い顔で訴える。
「さゆりちゃん? 彼女がどうした?」
「あいつの風邪をうつされたんだからな!」
「さゆりちゃんも熱出してるの?」
「さっき美知子が来て言ってた。さゆりが三日前まで風邪で寝込んでたんだって。そんな奴がぼくにキ
――」
 怒りにまかせて珍しく言葉多く喋っていた時人が不意に口を噤む。
「キ? キ、なに?」
 幸太郎が意地の悪い笑みで眉を上げて見せる。
 風邪をうつせるキと言えば、幸太郎に思い浮かばないわけがない。
「ふーーん。時人もなかなかすみに置けないな」
「な、なにが!」
 今にも布団から飛び起きそうな勢いで叫ぶ時人を、「まぁまぁ」と宥めんた幸太郎が子どもを寝かし
つける母親のように上掛け布団をトントンと手で叩く。
 だが次の瞬間にはニヤリと笑って言う。
「さゆりちゃんとキスしたんだ」
 跳ね上がりそうな時人を布団の上から押さえつけ、顔をよせて言う幸太郎を、時人が下から恨めしげ
に睨み上げた。
「あいつが勝手に圧し掛かってきやがったんだ」
「ふーーん。で? ファーストキスのお味はいかかでした?」
 その問いに時人の顔が赤く染まるが、目が同時に左上に向う。
 それを見届けて、時人の上からどいた幸太郎が笑う。
 キスしたのは事実らしい。目が左上に向うのは実際にあった出来事を思い浮かべるときの人間の行動
だからだ。
 さゆりちゃんもこんないたいけな少年を襲って、なにを考えているのやら。
 時人の勉強机のイスに腰を下ろした幸太郎が、照れまくっている時人をかわいい弟を見下ろすように
見る。
 だが本日の用件を思い出して、足元に持ってきていた紙袋に手を伸ばした。
 病気の人間をからかうためだけに、わざわざ時人の家を訪れたわけではない。
「今日来たのはな、村上氏へのおまえの作った試作第一号の実験結果を伝えるためだ」
 その言葉に三角につりあがっていた時人の目が真剣な色合いを帯びて引き締まる。
「で、結果は?」
「うん。まずまず。基本十二色は脳内においては戻った」
 幸太郎はそういうと、袋の中から一冊のスケッチブックを取り出した。
 そしてその中の一ページを開くと時人に手渡した。
「これを村上氏が?」
 スケッチブックの中には、真面目くさった顔の幸太郎が描かれていた。幸太郎の顔には自然な肌色が
陰影をつけてのせられていた。ただ、幸太郎の着ていたジャケットの水色がとらえきれなかったのか白
いままだった。
「すごいな、ここまで描けるのか」
 感心した時人の言葉に、幸太郎も賛同して頷く。
「これもあの人が画家だからだ。色の名前と色彩を何色か思い出せば、あとは実際に見えていなくても
経験で再現できる。陰の出方も色の名前だけで正確に色を選び出す。まだまだ不本意って顔はしてたけ
どな。描き上げたもののデキを自分の目で確認できないんだからそれも仕方ないけど」
 たとえそうだとしても、時人には今手にしている絵が白黒の世界の住人が描いたものだとは思えなか
った。
「目で見たものを、今度は目を閉じて脳内で言葉の指示だけで色づけしていくんだ。もちろん補助して
いるのは色なんて芸術には程遠い学者ばっかだから、肌は肌色。影は濃い茶色なんて指示でしかなかっ
たのにな」
「さすがというしかないな」
 時人の顔に笑みが浮ぶ。
 それを見届け、幸太郎はイスから立ち上がる。
 本日の任務の一つはこなした。だからあとは一つ。
「で、その村上氏から伝言」
 幸太郎は時人のもとにスケッチブックを残したまま、部屋から立ち去ろうとドアへと向う。
 その背中を目で追う時人に、幸太郎が振り返る。
「一週間後、先生が希望通りユリさんの絵を描くそうだ。俺とおまえに立ち会えとの命令だ」
「え?」
 時人がスケッチブックの向こう側で意味を取りかねた顔で幸太郎を見やる。
 だがすぐに何かに気付いた顔で目を見開く。
「まさかその絵って、ゆりさんの」
「そうヌードだってさ」
 幸太郎がウインクする。
 楽しみだなぁとのたまいながら部屋を出て行く幸太郎を呆然と見送り、時人が顔を赤くする。
 ヌードの絵を描くのに立ち会えだと? それもあのゆりさんの!
 時人は高熱だけではない理由でクラリと回った視界に目と閉じた。


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