実験 6  何よりも大切なもの 




 のんびりとした足取りで家路までの道のりを歩いていく。
 大きな家の多い住宅街だけに、庭木も大きく育っている立派な庭が多く、太陽光を受けて手をふって
くれているように煌めく葉が美しい。
 日陰になった木の根元には普段は目がいかない小さな花が開いていて、見ているだけで体の中に涼が
広がる。
「気付かなかったな、ここにこんなキレイな風景があるなんて」
 時人はいかに自分が世の中から切り離して見ていたかに気付き、少しの後悔を感じた。
 自意識過剰になって世界から自分は特別な存在だと切り離した結果、どれほど多くのことを見落と
してきたのだろう。
 そんな風に自分の内面に向き合えているのも、村上氏の奥さん、ゆりさんの影響だった。
 そっと抱きしめ、自分を思いやってくれる視線に触れたとき、心を覆っていた鎧戸の一部が鍵を外し
たように感じたのだ。それほど自分以外を敵として警戒しなくても大丈夫なのよと、体にこめていた力
を緩めてくれるように。
「なんか軽いな。体も心も」
 時人には珍しい穏かな笑みが自然と顔をほころばせる。
 こんな気分になると、髪を乱す風さえ優しく頬や髪を撫でる手の平のように感じるのだから不思議だ。
 そんな気分で歩いていたときに、家の方からポチが吠えている声が聞こえて顔を上げた。
 目も耳も老化でほとんど効かないポチには珍しい吠え声だった。だが吠えてはいてもそれが警戒や威
嚇ではなく、嬉しい訪問者を歓迎しているような鳴き声だった。
 案の定、家の門から覗き込んだ時人が見たのは、ポチの前に座り込んでいるさゆりの姿だった。
 草だらけの庭の中に立った錆びだらけの物干し竿の下に、スカートにも関わらずに足を広げてしゃが
み込んださゆりがポチの頭を撫でている。
 ポチに何かを話し掛けているのか、盛んに頭を上下させている。そしてポチはそんなさゆりの顔を嬉
しそうに舐めている。
「おい、勝手に人んち入るなよ」
 別にさゆりが来ていることに不快感はなかったが、これがいつもの時人の声の掛け方だった。
 時人の声に気付いたポチが顔を向け、いつも散歩に連れて行ってくれるご主人の登場と認識して尻尾
を振る。
 だが嬉しそうなポチの顔が時人を困ったように見上げてクーンとかなしげな声をあげる段になって、
振り向かないさゆりに不信の目をむける。
「おい、女、どうした?」
 ポチと話しているわけではないのにさゆりの頭の上下は止まらない。
「おい」
 時人がさゆりの肩に手を掛けた。
 その瞬間、振り向いたさゆりの顔にぎょっとして出しかけた声をなくす。
 顔中を涙と鼻水まみれにしたさゆりの顔の中で、頬が赤く腫れ、口の端からは血が滲んでいたのだっ
た。


「イタタタ!」
 消毒薬を染みこませた綿球で口の切り傷を消毒してやった途端にさゆりが声をあげる。
「あぁ、ごめん」
 手当てしてやっているのに謝ることは不本意だったが、女の子が殴られた顔で登場して泣いた真っ赤
な眼で目の前にいられては、いつもの毒舌もなりを潜めて出てくる余地すらない。
 とりあえず伴創膏を貼ってやり、氷を入れた袋をタオルで包んで差し出せば、嬉しそう受け取ったさ
ゆりが頬に当てる。
「はぁ、生き返るなぁ」
 すっかり涙で取れてしまった化粧で、見知った顔よりもあどけない顔で微笑まれ、時人は落ち着かな
い思いのままにさゆりの隣りのソファーに腰かけた。
「……いったいどうしたんだ? 女の子が殴り合い?」
「まさか!」
 涙目ながらあっけらかんと笑って見せたさゆりが、開けた口に傷がしみて「イタタタ」と声を上げる。
「じゃあ、男に殴られたの?」
 男同士の喧嘩でもすぐに暴力にうったえるような輩には腹が立つ時人だったが、女の顔を殴る男がい
るのかと思うとムカッ腹が立つ。そんなやつは生物として欠陥品だ。
 そんな時人の思いが通じたのか、さゆりは弱った笑みを見せて両手で氷入りのタオルを包んで頬に押
し当てる。
「うん。彼氏がね。うっとおしいんだって、わたしみたいな女は」
「………そうか」
 時人はなんと声を掛けてあげるのがいいのか全く分からずに困惑しながら、いたたまれずに俯きなが
ら相槌だけはうった。
 こんなとき幸太郎ならもっと気の利いた言葉をかけたり、もしかしたら傷ついた女の子を抱きしめて
慰めるなんて手も思いつくのだろうが、女経験どころか人間関係の築き方もまともにできない時人には、
いきなり出現した大きな壁で越える方法すら見当がつかなかった。
「なんで男って浮気するのかな?」
 今度は無理やりに怒った口調で言ったさゆりに、時人が顔を上げる。
「浮気?」
「そう。もう絶対にしないとかって前は土下座したくせに、一週間もしないうちにまただよ。他の女と
ベッドの中でいちゃいちゃしてたの。そのくせ、浮気したほうのアキラが平気な顔でおまえとはもう寝
るの飽きたって。おまえみたいなのはうっとおしいんだって」
 ほんの数秒前まで怒っていたはずの顔が、今度は泣き顔へと変貌し、頬に押し付けるために与えたタ
オルで目を覆って声を上げて泣き始める。
 おいおいと声を上げてなくさゆりの前で何もなす術がなく、目に見えてオロオロし始めた時人に、タ
オルの隙間から鋭い視線を送ってくるさゆり。
「どうせ時人くんだって男だから浮気するんだ! 女なんて一時の遊び道具で飽きたら捨てちゃえばい
いって思うんだ!」
 感情のままに言い放たれた言葉に、時人は一瞬呆気に取られるのだったが、次の瞬間にはむかつきが
頂点に達して声を荒げた。
「なんだよ、それ! 自分の男が浮気性だったからって、ぼくのことまでそんなのと一緒にするなよ!」
「じゃあ、時人くんは絶対浮気しないって誓えるの!?」
「ああ、誓えるよ。っていうより、女なんて大嫌いだから側になんておかねぇよ。もしかりに好きな人
ができたら、絶対大切にするわ!!」
 思いがけず自分でも大声で宣言した言葉に呆気に取られる。
 好きな人ができたら? 大切にする? 
 実体験がないだけに絵空事を思い浮かべるしかなく、自分でも目をパチクリとさせる。
 そしてそんな時人を、びっくりしすぎて涙が止まってしまったのか、タオルから顔を上げてさゆりが
見つめる。
「……女嫌いなのに、大切にできるの?」
 もっともな質問に、時人がウッとつまる。
「……キライなのは、好きな人が今までは現れなかったからで……」
 しどろもどろで言い訳をしながら、パニックになりつつある頭の中まで見通しそうな大きな目でみら
れて閉口していく。
「……ふ〜ん」
 時人の怒鳴り声に毒気が抜かれたのか、すっかり冷静になった風なさゆりがタオルを膝の上に下ろす。
 目と鼻を真っ赤に染まり、頬も痛そうに腫れている。唇の端は紫色に変色が始まっている。
 そんな顔で俯かれると、途端に時人も怒鳴って悪かったのかなと不安になりはじめる。
「あ、あの。ぼくも大きな声だして――」
 ごめんと続けようとした時人だったが、不意にさゆりに手をつかまれて言葉を喉の奥に飲み込んだ。
 氷ですっかり冷たくなった手がぎゅっと時人の手を握り、見開いた目でさゆりの顔を見れば、見たこ
ともない熱っぽい目で覗きこまれる。
「時人くんって、思っていたよりもずっと優しいね。ポチのことも大切にしてくれてるでしょう。ポチ
に聞いたよ。毎日散歩して、散歩の後には全身にブラッシングをしてくれるって。それがとっても気持ち
がいいんだってポチが感謝してた。それに、ときどき豪華にお肉がドックフードの上に載るんだって自
慢してたよ」
「なんでそんなことまで知ってるんだ……」
 つかまれた手が気になって上擦る声で言えば、さゆりの顔が接近する。
「わたしバカだから時人くんみたいな頭のいい人の気持ちは分からないけど、なんだか今日はすごく時
人くんが素敵に見える」
 さゆりの吐息が鼻先にかかる。
 少し甘い匂いの吐息に、体の芯が痺れ始める。
「目、閉じてよ」
 時人の上に圧し掛かってくるようにしてさゆりが言う。
「………」
 さゆりの体に恐れをなして手で押し返そうとして、ムギュッと柔らかな感触が手の平に伝わる。
「……時人くんってば、結構積極的」
「あ、ごめん! そんなつもりじゃ」
 豊満な胸の感触に慌てて手を引こうとしたが、すでに時人の体とさゆりの体密着しすぎて手がぬけな
い。
 脳裏にはいつか見たさゆりの下着姿が思い浮かぶ。
 や、やばい!
 体の芯を走る痺れと激しい動悸に目を瞑った瞬間、時人の唇にさゆりの柔らなな唇が触れたのだった。



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