実験 6  何よりも大切なもの 




 村上家の華やかな玄関の前まで来て、時人は呼び鈴を鳴らすことができずに立ち尽くしていた。
 なぜに村上氏の自宅に来てしまったのだろう。
 もちろん幸太郎が言ったからだ。村上先生のところに行って聞いてみればと。
 だがなにを聞くというのだ。SEXのすばらしさについて、ぼくに教え諭してくださいとでも頼むつ
もりなのか。いや、そんなつもりは毛頭ない。というよりも、あのおじさんにそんなことを言い出した
ら、俺が教えてやろうなどと襲い掛かってこられるような気がする。きっと気のせいではないはずだ。
 女の体にも嫌悪があるが、男の裸なんて論外だ。胃液しかなくなるまで吐くこと請け合いだ。
 そこまで考えて、自分の思考にあるまじき考えだとムっと顔をしかめる。
「幸太郎に毒されている……」
 やっぱり帰ろう。
 そう思って踵を返した瞬間、家の庭から現れたゆり婦人と目が合う。
「あら、この間の大学生の男の子ね。うちの主人なら今日はちょっと外出していて」
 ゆりさんが頭を示して「ほら、あの実験台にね」と笑っている。
 村上氏の色を取り戻すための実験が着々と進んでいるらしい。
「あ、それならぼくは失礼します」
 もともと帰るつもりだったし好都合だ。そう思って頭を下げた時人だったが、思いの他強い力でゆり
さんに腕を引かれる。
 どうやら庭仕事をしていたらしい格好のゆりさんが、時人の腕を引いて庭に入るとうずたかく盛られ
た草の山を示して笑顔を見せる。
「ねぇ、手伝ってもらえないかしら。いつもは主人に頼むんだけどいないんだもの」
「え? これをどうしろと?」
 広大な庭を有する村上家だ。草もたくさん生えるだろうが、こんなにたくさんの草をこの婦人が一人
で毟り取って山にしたのかと思うと、この小さな体にどれだけの力がねむっているのかと不思議になる
ほどだった。
「あのね、うちの裏に腐葉土をつくるための囲いがあるの。そこに一緒に運んでくれる?」
 ゆりさんの言葉は優しく了解を求めるものであるわりに、すでにしっかりと草を入れて運ぶための大
きなザルが時人の目の前に差し出されていた。
「あ、はい。いいですけど」
 本当のところは、そんなことやりたくもないというのが本音なのだが、さすがは村上氏の妻をつとめ
ているだけのことはある。無言の圧力なるものがが存在する。
 ザルに草を山盛りにいれて胸の前に抱えて歩き出せば、ゆりさんが「こっちよ」と先導して歩いてい
く。
 アトリエと家の間を抜けて裏庭に出ると、そこにはキレイに耕された畑が並び、キューリやトマトの
棚が青々とした葉をつけて繁っていた。
 昨日幸太郎に連れられていった山の畑ほどの規模はないけれど、すごくキレイにできている。今まで
は関心もなかったけど、畑って癒されるかもしれないなぁなどと思いながら時人が歩いていく。
 そんな時人の畑を見る視線に気付いてか、ゆりさんが腐葉土の囲いを示しながら微笑みかけてくれる。
「この腐葉土のおかげでとってもおいしいお野菜を食べられるのよ」
 なるほど、すごいパワーがありそうだ。
 時人は横目で巨大ズッキーニを見ながら納得する。
 だがそんなのんびりした気分で草を腐葉土の囲いに落とそうとしたときだった。
 頭の上まで盛られていた草の中から、ゴソゴソという音と振動が顔につたわってくるではないか。
 ただの草の中からなぜに気配が伝わってくるのだか?
 時人は急いで草を放り出そうとした瞬間に、気配の正体が顔をだす。
 真っ黒で体中に毛がもっさりと生えた八本足の生物が時人の顔の取り付く。
「ぎゃああああああ!!」
 草を囲いとは見当はずれなところに放りだし、顔についた巨大グモを払い落とす。
 ボスっと音を立てて地面に落ちたクモが、突然の天変地異にびっくりした様子でひっくり返っていた
だが、すぐに起き上がると信じられないほどの猛スピードで走り去っていく。
「ちょ、ゆりさん、クモ、クモ!」
 走り去る黒い毛の塊を指さして叫ぶ時人に、ゆり婦人がエヘっと笑う。
「だから頼んだの。草くらい自分で運べるけどね。クモが侵入してくの見ちゃって困ってたの」
「でもそんなこと一言も」
「うん。だって言ったらやってくれなさそうだったから」
 この確信犯め!
 時人はにっこり微笑むゆり婦人に、大きな諦めのため息をつくのであった。


 ゆりさんがクモを押し付けちゃってお詫びにということで、お昼ご飯をご馳走してくれることになり、
時人は村上家の浴室でシャワーを浴び、用意されていたタオルで体を拭いているところだった。
 なぜに他人の家でシャワーを浴びなければならないのだ。
 新品だがおそらく村上氏のために買い揃えてあっただろうトランクスとランニングのシャツを着込み、
時人はため息をついた。
「時人くん。もうシャワー済んだ?」
 すっかり時人に打ち解けてしまったゆりさんが、今にもドアを開けるのではないかという勢いでドア
の向こうで叫ぶ。
「あ、待って。まだ服着てません!」
「大丈夫よ。開けないから。もうお昼ご飯の準備できたから急いで出てきてね」
「はい」
 ルンルンと弾むような声で言ったゆりさんが、ドアの前から離れていく。
 なぜなのかは不明だが、どうやらゆりさんに自分は気に入られたらしい。草運びをしてあげたからか?
 自分の着てきたシャツとジーンズを身につけ、浴室から出た時人は、廊下を漂ってくる炊き立てご飯
の匂いにグーと腹が鳴るのに気付いて、慌てて腹を手で押さえた。
「時人くん、早く、早く」
 白いおしゃもじでご飯をよそいながらゆりさんが手招きする。
「村上先生はまだ帰ってこないんですか?」
「そうみたいね。いいのよ、気にしないであの人のぶんもご飯てんこもり食べていって頂戴」
 本当にてんこ盛りにされたお茶碗を受け取りながら、時人は苦笑しつつテーブルにつく。
 並んでいるのは焼き魚にお味噌汁。納豆と青菜の煮びたし。三品ならんだお漬物もある。旅館の朝ご
はんのようなお膳から湯気が立ち上っていた。
 その匂いを吸い込んだ瞬間に、再び時人の腹がグーと音を立て、その音を聞きつけたゆりさんがおか
しそうに笑う。
「時人くん。お腹空いてたんだ」
 イスに座って箸を持ったゆりさんに笑われ、時人は顔を赤くして箸を取ると頭を下げた。
「いただきます」
 時人は味噌汁に手を伸ばし、大根と油揚げ、そしてわかめの色のコントラストにきれいだなと思いつ
つ口をつける。
「おいしい」
「よかった。若い子にこんな年寄りの食事は合わないかと思ったんだけど」
 普段の食事はどうしてもファンランの中華になるか、学校の売店で買うパンと牛乳になる時人には、
日本の伝統的食卓はなかなか機会のないものだった。
 実はほとんど食べたことのない納豆もご飯にのせて啜ると、醤油の味とマッチした美味が口に広がっ
て笑顔が漏れる。
「幸せそうな顔して食べるのね」
「そうですか?」
 じっと見られている気恥ずかしさで大根の漬物を齧りながら、時人がご飯をじっと見つめながら俯い
た。
「そんなに幸せそうに食べてくれるなら、お母さんも作りがいがあるわね」
 時人という息子をもった母親を羨むように言うゆりさんに、時人は困ったように笑った。
「ぼくには母も父もいません」
「え?」
 時人の言葉に、ゆりさんが言葉の意味が分からないように首を傾げる。
「ぼくは捨て子だったんです。こんな時代ですが。神社の境内に捨ててあったのを、今の養父が見つけ
て養子にしてくれたんです。だから父も母も知りません。身の回りの世話は中国人のおばさんがしてく
れているので不自由はないんですけど、こんな風に日本食の食卓につくことはないですね」
 時人はなんでもないことのように言うと、困った顔のゆりさんに笑いかけた。
「別に悪いことを言ったとか思わないでください。ぼくは気にしてませんから」
 ゆりさんの言いそうなことを先回りして言った時人に、ゆりさんはますます困った顔をしたが「優し
い子ね」と言って微笑んだ。
「でもこんないい子を手放さなければならなくて、親御さんも苦しかったんだと思うわ」
「そうでしょうか? 邪魔だから捨てたんじゃなく?」
 味噌汁を啜りながら言う時人に、ゆりさんは箸を置くと首を振る。
「そんなことあるわけないわ。絶対に苦しかったはずよ」
 ゆりさんはそう言って自分の座っていた席を立つと、時人の隣りに座った。
 そしてゆりさんは時人の箸を置いた手を握ると微笑んだ。
「男の子にこんなことを言っても分かったもらえないかしらね。でも想像してみて。母親は愛する人と
の間にできた新たな命を体の中に抱えて10ヶ月という時を過ごすの。自分のお腹の中に、一つの命と
いう可能性を抱えているところを想像して」
 ゆりさんが手で自分のお腹を覆って目を閉じたのを見て、時人も促がされて目を閉じた。
 もちろん子宮がない自分に子どもを宿す場所はないのだが、でも想像してみる。自分の体の中に大切
な命が宿るという様子を。
「最初はとても小さな命の細胞の始まりなの。でもそれが七週もするとたった2センチにすぎないけれ
ど、ちゃんと指も5本揃った赤ちゃんになって眠っているの。心臓も動いている。目だってある。お母
さんの心臓の音を聞いて安心して眠っているの。親指を吸っているかもしれない」
 時人の脳裏に、かつての自分が辿ってであろう成長の姿が浮ぶ。両手と両足を縮めて羊水の中を漂っ
ていた胎児であった自分。
「お母さんはね、そんな命を大事に大事に抱えながらいろんなことを話し掛けて、想像するの。この子
はどんな声で泣く子なんだろう? どんな子になるんだろう? やんちゃ坊主で窓ガラスを割ったり絨
毯に焼け焦げを作ってしまうような子になるのかしら? そんなときは怒らないであげたいな。でもき
っと大きな声で怒って泣かせてしまうのかしら?
大きくなって大きすぎるランドセルを背負ってわたしを見上げてくるとき、誇らしい顔をしているのか
しら? いつもよりめかしこんだわたしを見てかっこいいと言ってくれるかしら? 春にはピクニック、
夏には海水浴、秋にはリンゴ狩り、冬には雪だるまづくり。なんでも一緒にやってあげたいな」
 最後に震え始めたゆりさんの声に時人は目をあけた。
 これはゆりさんが腕に抱き取ることのできなかった子どもとしていた会話の全てなのだろう。ゆりさ
んの夢だったのだ。
「ゆりさん」
 時人は握られていた手を逆にぎゅっと握ってあげると、ゆりさんが涙を目の中に堪えると笑みを浮か
べた。
「お母さんたちは、みんなそうやってお腹の子どもに愛情を注ぎ続けるの。時人くんのお母さんだって
そう」
「そうだったら嬉しいです」
 時人は照れたように言う。
「絶対そうよ」
 ゆりさんはそういうと時人の頭をぎゅっと抱きしめてくれた。一瞬の抱擁は柔らかく時人を包み込み、
自分が作り上げてきた壁を一気に突き崩していく爽快感に似た感覚を時人に与えた。
 それは時人が始めて感じた母親への甘えに似た気持ちだったのかもしれなかった。
「ぼくは、今日村上さんに教えてもらいたいことがあったんです」
「主人に?」
 時人は自分で言い出しておきながら、なぜゆりさんに話そうとしているのか自分でも分からないまま
恥ずかしく思いながらも言葉を続けた。
「ぼくは16歳の男なのに、女の子に全然興味がなくて。もちろん男に興味があるとかそんなんじゃな
いですよ。……SEXに嫌悪感しか持てなくて」
 言いながら頬がかぁと熱くなって赤くなっていくのが分かる。意識し出せば耳まで熱くなっていく。
 ゆりさんの視線が頬にあたり、時人は居たたまれなくなってうな垂れた。
 女の、しかもそれほど親しいわけでもない人に何を話しているのだろう。
 だが焦って空転する思考とは裏腹に、ゆりさんは柔らかなゆっくりな喋りで言った。
「そうね。わたしもそう思ってたわ。主人と知り合う前はね。きっと心から好きだって思う人に出会う
まではそうなんじゃないかしら?」
「え?」
 あまりに予想外の答えに時人は顔を上げた。
 男として問題があると言われるのではないかと決め付けていただけに、ゆりさんの肯定の言葉はびっ
くりだったのだ。
「だって普段なら裸の体どころか、はいていた下着だってばっちいもの持つ手で持っちゃうじゃない?」
 ゆりさんが下着を指でつまんで持つ動作をしてみせるのに思わず笑いを漏らす。
「でもね、好きな人ができるとね、ずっと一緒に居たくて相手のことをもっと知りたくなるの。なにを
思い、なにを感じ、なにを信じているのか。でも、いくら主人のことが好きでもあくまでわたしはわた
し、彼は彼で、越えがたい溝があるのよ。その溝を埋めて、肌というわたしと彼の体を隔てているもの
を越えて一つになりたいと思うようになるのよ。神様も結婚して二人は一体となるって言ってるでしょ
う?」
「一体に?」
「そう。同じ価値観を持ち、同じ感覚をもって、おたがいを自分の体のように愛して一体になるの」
 ゆりさんは聖母のような笑みで時人の頭を撫でる。
「心配しなくても、時人くんに本当に好きな人ができたら、自然と相手に触れたくなってくるものよ。
SEXは快楽を相手から奪うものではないのよ。自分の体を大事にするように、自分がなによりも大事
にしているものがあなただということを体で示すために、相手を信頼して自分を投げ出し、投げ出され
た相手の気持ちを誠心誠意受け取る作業なのよ」
「肉体的快楽のためだけでなく?」
「そう。快楽はおまけ? 気持ちのやりとり。精神的な会話なのよ」
 その言葉に、幸太郎の言葉が胸に落ちた気がした。
『村上先生が何よりも美しいと感じるのが、自分に抱かれた後の幸福感の中を漂っている眠りについた
ときのゆりさんの顔なんだってさ』
 自分との心からの会話に幸せに中を漂ってくれたのなら、なによりも自分も幸せで相手を愛しく感じ
る瞬間に違いない。
「がんばれ、男の子」
 ゆりさんが時人の頭を撫でながら立ち上がる。
「でもそんな相談あの人にしなくて正解よ。あの人ができることって言ったら、体を使った性技講習く
らいなんだから」
 折りしも、そのとき帰ってきた村上氏の「ただいま」という呑気な声が聞こえてきたのであった。




参考文献:「火星の人類学者」早川書房 オリヴァー・サックス著

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