実験 4 「ちゃんと服着なさい。ね?」




 ポチを胸に抱いたさゆりと一緒に、目の前のボロ屋敷を見上げる。
「なんかお化け出そうだね」
 さゆりが言う。
 確かにおばけの一匹や二匹は生息していそうなくらいに、朽ちている家だった。
 庭は草がぼうぼうに生え、秋を感じさせる虫の合唱が気持ちいいくらいに聞こえてくる。
 その庭の一画にある洗濯を干すための物干し竿も、すでに錆びて塗装がバリバリに割れて、中から錆
びた鉄芯が見えている。
 窓は全て埃にまみれて内部など見えるはずがないほどに汚れていた。
 その窓枠は明治期の建物を思わせる木枠で、これまたペンキが乾いた皮膚さながらに剥けている。
 玄関の扉横のインターフォンを恐る恐る押してみた美知子は、思いの他デカイ音で「ビー」となった
音にビクッと体を震わせる。
「みっちゃん、真っ白い顔のおばあさんの幽霊とかが出てきたらどうする?」
 なぜかすでに逃げられるようにポチを抱きながらダッシュの体勢になっているさゆりに、冷や汗を流
しながら、美知子がまさかぁ〜と笑ってみせる。
「はい、どなたさまで?」
 その美知子の背中に声が掛けられる。
 振り向いた美知子と、走り出す体勢のさゆりが同時に悲鳴を上げて駆け出す。
 真っ白に塗られた顔に半眼の老婆が、首にタオルを巻いてドアの隙間から顔をのぞかせていたのだ。
「でた〜〜、おばけ〜〜」
 美知子が叫びを上げ、さゆりがポチを放り出して逃げ始める。
「なんなのよ、あなたたち」
 お化けが皺皺の口をあんぐりさせて言う。
 酷く甲高い声だった。
 だがその声が不意に優しさを帯びた声になる。
「まあ、随分と人懐こい犬だね」
 犬?
 美知子とさゆりがその言葉に引っかかって振り向く。
 するとそこには、お化けの足元に尻尾をふりふり戯れているポチがいる。
 そしておばけの老婆も嬉しそうにポチの背中に手を伸ばして触れようとしている。
「ああーーー!! ポチが食べられちゃう!」
 美知子が叫ぶ。
 が、その美知子の肩を掴んで、さゆりが「違うみたいだよ」と囁く。
 ムンクの叫びそっくりに顔を手で覆って叫んでいた美知子だったが、その視線の先の現実の光景は、
しゃがみ込んでポチを撫でる老婆の姿だった。
「ちょっと、そこの二人。人の家の前で大きな声出すじゃないよ」
 キッと顔を上げて言う老婆の顔は、分厚く塗られたパックで覆われていた。
「……パック?」
「……そうみたいね」
 美知子とさゆりが顔を見合わせる。
 そしてその騒々しさに苛ついた顔を二階の窓から覗かせた時人に、二人が同時に気づいて手を振る。
「おーーい、時ちゃん。遊びに来たぞ〜」
 美知子のその声に、時人の顔が最大限に嫌そうに顰められたのは言うまでもないことだった。


「は? その犬をぼくに飼えって?」
 家にポチつきで上がりこんだ美知子とさゆりを、立ったまま見下ろした時人が声を荒げて言う。
「そう」
 そしてファンランの淹れてくれたお茶をすすりながら、美知子が至極当然の結論のように言う。
 その横ではポチを膝の上に抱いたさゆりが、機嫌が最高に悪そうに眼鏡をいじる時人を上目遣いに見
上げていた。
「どうしてぼくが!」
「ポチちゃんはね、町内を立派に白レンジャーとして守ってきた優秀な犬だったんだけどね、年とって
きた途端に飼い主にもうお払い箱じゃって、苛め抜かれてしまったかわいそうな犬なんだよ」
「だから?」
「だからだとう?!」
 キッチンの入り口に仁王立ちしたまま、イスにも座ろうとしない時人の、愛想など1mgもない言い
方に、美知子が立ち上がって叫ぶ。
「お嬢さん方、言ってやって言ってやって。この男は愛想なくて、一緒に暮らしているわたしは胃が痛
いね」
「いつ胃が痛くなったんだよ。その胃痛はただの食いすぎだ!」
 蒸かしたての肉まんを皿に盛って現れたファンランに、時人が柳眉を逆立てる。
「ほら、あの恐ろしい地獄の使い魔みたいな顔。ああ、怖い」
 恐ろしげに両手で肩を抱いたファンランだったが、次の瞬間には美知子とさゆりに、「これ、たんと
お食べ」と笑顔で薦めている。
「これ、わたしの得意料理ね。ふかひれ入りね」
 そして食べ物につられた美知子は、時人への怒りなど風に吹き飛ばされていなくなってしまいました
の勢いで「わーーい」などと叫ぶと、笑顔で肉まんにかぶりつく。
 その姿に、時人は大きくため息をつくのしかなかった。
「あの、上条くん」
 うなだれてしまった時人に、さゆりが肉まんの匂いに反応して暴れ出したポチを床におろしながら声
をかける。
「なに?」
 うな垂れていたわりに棘はばっちり生えている険しい視線をくれる時人に、うっと後退りしながらも、
視線はそらしたが話を続けた。
「上条くんが犬好きだって、みっちゃんが言うから連れて来ちゃったんだけど、無理においていったり
しないから」
 真剣に話をする二人の後ろで「うまい!」と陽気に浮かれている美知子は放っておいて、二人の間に
無言の遣り取りをする、強張った空気が流れる。
「ポチはね、今本当に悲惨な飼われかたされてて、わたしも放っておけなくて。……わたしが飼って上
げられればいいんだけど、ペット禁止の小さいアパートで。ポチ、今の家では散歩もしてもらえないし、
餌だって毎日もらえないの」
 さゆりの言葉に、時人の目が肉まんのにおいを追ってフガフガと鼻を動かしながらも、ヨタヨタと肉
まんと反対方向に向って歩くポチにいく。
「この犬、目、見えないの?」
「うん。目も耳も、もうあんまりきかないみたい。隠れてわたしがパンとか投げてあげても、なかなか
見つけられなくて食べられないことがあるの。そのパンが飼い主のおじさんに見つかって、勝手なこと
するなって怒られて。あんたが余計な栄養つけるから、なかなかくたばらねぇじゃねぇかって、怒鳴ら
れたこともあるんだ」
「………」
 その一言には、さすがの時人も眉をしかめてポチを見る。
 確かに年寄りの犬だと分かる、毛艶の無さや、しょぼしょぼした目。目やにで汚れた目元に弱そうな
足腰。
 生まれたての子犬に比べたら、比べようもないくらいにかわいくはない。
 だけれども、そんな犬だからこその可愛らしさもあるのだと時人は思うのであった。
 ヨタヨタと歩いてきたポチが時人のスリッパを履いた足にぶつかり、オットットと声をかけながらの
ようによろけ、次の瞬間に時人を見上げる。
 そして「お、すいませんね」と挨拶するように頭を下げる。
 真っ白になった眼球には、時人が写っているのかどうかは分からなかった。
 だがそこに人がいることを感知して、嬉しそうに尻尾を振る。
「ポチ?」
 時人はさゆりや美知子の手前、格好がつかないと渋い顔をしながらも、そっと腰をかがめるとポチの
鼻の下に手を差し出す。
 その手をクンクンと嗅いだポチは、ペロリと時人の手の平を舐める。
 時人はそっと手をポチの頭におくと撫でてやる。
「いい奴だな、おまえ」
 自然と浮いた笑みに気づき、時人は慌ててさゆりと美知子を見た。
 そこには案の定、ぽかんとした顔で時人を見るさゆりと美知子がいた。美知子に至っては、肉まんに
齧りついたまま停止している。
「……なんだよ!」
 赤い顔をして怒鳴った時人だったが、ちゃっかりポチの前に座りこんで首筋を撫でてやっている。
「やっぱり時ちゃん、犬好きなんじゃん。素直じゃないなぁ」
 訳知り顔で美知子が目を閉じて首を振る。
「余計なお世話だ! 人んち勝手に来て、肉まん食いながら偉そうにするな」
「あらトキート! ここはわたしのうちでもあるんですからね。わたし、このお嬢さん方、気に入りま
した。だから、この家立ち入りフリーパスです」
「あ?」
 ファンランは得意げに言う声に、時人が額に青筋を浮かせて見上げる。
 だがそんな視線に晒されると事には慣れっこのファンランは、しらっと無視する。
「お嬢さんたち、今日はこれから友情の大宴会をしましょう!」
「宴会だぁ?!」
 怒りの声を上げて立ち上がった時人を無視して、ファンランと美知子が手に手を取り合ってキッチン
の中へと消えていく。
「……あ、上条くん……」
 取り残されたさゆりが、本来ここへ来た目的がわからなくなっている状況にうろたえて、時人を見上
げる。
 その縋るような視線に堪えられなくなり、時人はフンと鼻を鳴らすとポチを抱き上げた。
「飼えばいいんだろ、飼えば」
 仕方なく飼ってやるよと言いたげな口調のわりに、ポチのことはずいぶん大事そうに胸に抱えている。
「あ、ありがとう!」
 途端に顔を輝かせたさゆりに、時人は顔を赤くして目をそらす。
 さゆりの目に浮いた涙に気づいてうろたえたからだった。
「宴会でもなんでもすればいいさ。ぼくはポチの家でも作ってるから」


 太陽が西の空の向こう側に消えていき、星がチラチラと見え始めた頃、庭に不恰好ながら完成した
ポチの家が設置される。
「ほら、ここがおまえの家だからな。あとで毛布持って来てやるからな」
 しゃがみ込んでポチに話し掛ければ、時人の鼻先を生温かい舌でペロンと舐め上げてくれる。
 そのストレートな感謝のしるしに、時人も笑顔で応じて頭を撫でてやる。
 だがその顔が険悪に顰められ、背後の光の漏れる窓に注がれる。
 どんちゃん、うひゃひゃひゃと、宴もたけなわな喧騒が聞こえてくる。
「騒がしい女どもだよな。全く品もなければ、かわいげもない」
 よっぽどお前の方がかわいいよと呟き、時人はポチの頭を撫でて家の中へと向う。
 あの大宴会の行われているダイニングに入っていくのは気が引けるが、ポチの家作りで体力を使った
後だけに腹もすいていた。
「ファンラン、ぼくの夕飯」
 不機嫌に言ってダイニングに入った瞬間、時人は大きく目を見開いたまま、一歩も前に足を出せずに
立ち尽くした。
 部屋の中で、美知子とさゆりが下着姿で踊っているではないか。
「あーー、時ちゃん。丁度いいよ、男の子の目で判定してよ」
「そうだ、そうだ、それがいい!」
 酔ってタチの悪くなったさゆりまでもが両手を突き上げて、酔っ払いの座った目で言う。
「判定って……」
 呟いた瞬間、さゆりと美知子の陰になっていて見えなかったファンランの姿も目に入る。
 オエーーーー!!
 一気に吐き気に襲われた時人が口を手で覆った。
 ファンランまでデカパンと肌色のブラジャーになっている。
 ピンクのヒラヒラレースつきの水玉のブラとパンティーの美知子。
 時人が最も苦手とする巨乳を紫のレースのブラで覆ったさゆり。
 その間でポーズを決める、皺くちゃボディーのファンラン。
「さあ、時ちゃん、決めて。この中で誰が一番、セクシーボディ?」
 美知子とさゆりもモデルばりにポーズを決める。
「もちろん、Fカップのさゆりちゃんよね」
「違うね、今日もエステで磨きをかけたわたしね」
 時人は気迫という圧力に押されるように、一歩後退さる。
「「「さあ、選びなさい」」」
 ピタリと声を合わせて叫んだ三人に、時人は目を反らすと、喉を競り上がる吐き気と、鼻腔を降りて
きた鼻血に堪えながら言った。
「お願いだから、服着てください。頼みます」
 そうして後退りしながら、ダイニングから出た瞬間にトイレに飛び込む。
「あの鼻血は、わたしのダイナマイトボディーの刺激ね」
 さゆりが胸を張る。
「だったらあのオエーーは?」
 トイレから聞こえてくる時人の嘔吐の声に、三人は顔を見合わせ、「さぁ?」と肩をすくめるのであ
った。
 窓の外では、新しいお家の満足したポチが、安らかな顔で眠っていた。


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