実験5 伸ばした手を、どうか振り払わないで



《幸太郎編 U》


「え〜、新品と交換なの?」
 パンツのポケットに両手を突っ込んで、あてもなく大学内の廊下をフラフラと歩いていた幸太郎は、
窓の外からした美知子の声に足を止めた。
 校舎と校舎の間を繋ぐ渡り廊下の上で、美知子が口を尖らせて文句をいいたげな顔で立っている。
「新しいのだって、ちゃんと犬の形だし、しかもほら」
 美知子の話し相手は、どうやら時人らしい。
 人がほとんど通らない、構内一汚いことで有名な幽霊便所の前で、二人でこそこそと話している様子
に、幸太郎の好奇心が刺激される。
 あいつら、何をこんなところで揉めてるんだか。
 幸太郎の立つ窓辺から少し下ったところに見える時人の姿は、大きなアジサイの木でほとんど隠れて
見えない。だから時人の顔がどんなだかは見えないが、美知子は明らかに不満タラタラで子どもの駄々
のように体を揺すっている。
 そんな美知子のご機嫌を取るように、時人が明るい声を出している。
「今度の新型は、ほら、ここにリボンがついてるんだよ」
「あ、本当だ! ってことは、この子は女の子だってことなんだ!」
 現金に突然ご機嫌モードの声になった美知子が、手の中のものを見つめて飛跳ねる。
「すご〜い、もしかして、美知のために新しく作ってくれたの?」
 キラキラと乙女モード全開で瞳キラキラ攻撃を仕掛ける美知子に、時人が歯切れ悪く頷いている。
「それで交換ってことでいいでしょう?」
「うん」
 美知子は新しい銀色に光るものをピアスの輪に止めて、指で弾いてはしゃいでいる。
「時ちゃん、ありがとう!」
「いいえ。どういたしまして」
 美知子がきっちりと時人に頭を下げる。
 そして「ファンランによろしくね。ポチの散歩にはさゆちゃんと行くからね」と走りながら告げて去
っていく。
 窓辺に隠れるでもなく寄りかかって立っていた幸太郎の前を、わき目も振らずに走っていく美知子は
気付かずに走り去ってしまう。
 相変わらずのマイペースに美知子ワールドで生きる、謎の生物だ。
 幸太郎は動物園で珍獣を見る気分で、美知子の後ろ姿を見送る。
 動物園を回るみたいなワクワクした楽しさだな。まあ、動物で例えるなら、みっちゃんはカンガルー
かな。確か、一心にボクシングするカンガルーいたよな。ハッチだ。あんな感じ。わが道を突き進んで、
他は知りません〜って顔してるよ。しかも、よくビョンビョン跳ねるから、ぴったり。
 ついでに時人を考えれば。……不機嫌なチンパンジー?
 子どもの頃に動物園に行ったとき、確かチンパンジーにうんこ投げられたっけ。時人はさすがに排泄
物は投げやしないけど、どぎつい雑言は吐いてくれるから、似たようなもんか。
 自分の想像にクククと笑いを漏らした幸太郎だったが、意図せず聞こえてきた時人の独り言に、思わ
ず聞き耳を立てた。
「やっぱ、あの女は変態だよな。時限爆弾の解析機能を不能に陥らせてしまうってんだから」
 解析機能?
 あの女が美知子を指しているだろうことは分かるのだが、そこになぜ解析という言葉が存在するのか
が、幸太郎にはわからなかった。
 あの天才君、化学科ともコラボレーションしてたっけ? 
 それにしたって、みっちゃんの変態っぷりが関係している研究テーマって? 爆発女の謎?
 時人がブツブツ言いながら、幸太郎のいる廊下へと歩いてくる。
「大体さ、あのさゆりって女と一緒になって、セクシー対決なんて言って、服脱ぐかよ。そんなんだか
ら、好みのタイプが老婆? ネコ? 犬? 肉まん? なんて精密機械をぶっ壊すデーターになるんだ
よ。人間も食い物を同じレベルで好きかよ」
 時人が短い三段だけの階段を上がって廊下にでる。
 と、そこに思いがけず立っていた人物に足を止めて、目を見開く。
「よ、天才ちゃん」
「こ、幸太郎………」
 まるで化け物にでもあったかのように蒼ざめた時人は、今まで自分が口にしていたことが聞かれてい
たことに焦った様子見え見えで、口元を手で覆う。
 ま〜、かわいい怯え方だこと。
 友だちだと思っていた男の子に、いきなりキスされて、オスの目をした男を目の前に怯える処女って
かんじ?
 心の中であらぬ想像をして苦笑した幸太郎だったが、あまりに蒼ざめている時人に倒れられては堪ら
ないと、笑顔で口を開く。
「みっちゃんのセクシー対決ってなに? もしかして、時人はみっちゃんとできてるの? みっちゃん
とは裸の付き合い?」
 今度は時人の顔が真っ赤に染まる。
「ま、まさか! あの女とはそんな関係じゃない!」
 まるで噴火が起こったのかと思うほど唾を飛ばして否定する時人に、冗談だよと笑って肩を叩いて宥
める。
「わかってるって。でも服脱いでるの見たんでしょ?」
「あれは、昨日、あの女がさゆりって友だちと一緒にポチっていう犬連れていきなり家に現れて、ぼく
に犬を飼えって押し付けてきて、それでうちの料理人のファンランってばあさんと意気投合して酒盛り
はじめやがって、酔っ払ったあげくにファンランまで含めた三人で誰がセクシーか決めろって服脱いで
て………」
 息継ぎもそこそこに、言い訳がましく言い立てた時人は、荒いをではぁはぁとつくと、情けない顔で
幸太郎を見上げた。
 助けを求める、子犬のような潤んだ瞳だことで。
 幸太郎は時人の眼鏡の下の黒い瞳を思いながら、かわいそうにねと時人の頭を撫でる。
「そうか、そうか。真面目っ子の時人には、ちょっと刺激が強い出来事だったろうね。俺には羨ましい
限りの場面だけど」
「羨ましい?!」
 時人がありえないと高い声で食ってかかる。
「ファンランもだぞ! 七十も後半の皺くちゃ婆の半裸だぞ!」
「その年齢にはその年齢の味わいというものがあるもので」
「おまえ、そんな婆さんとも関係もったことあるのか!」
「……まあ、味見程度に」
「!」
 その返答に、まるで死をもたらす病原体に触れていたことに気付いてしまった顔で、幸太郎の手を払
いのけた時人が飛び退る。
「お、おまえ!」
 時人がひとまず安全と判断したのか、一メートル離れると、幸太郎を指さして叫んだ。
「血液検査して来い! 絶対性行為感染症に罹ってるか見てもらって来い! その結果次第で、ぼくは
おまえとの付き合いを止める!」
 そう言い残して、時人が声が出るものなら、「わぁ〜」と泣き伏して走り去るようにして駆けていく。
「……なにそれ。俺たち、別に付き合ってないし、体の関係なんてないんだから、何神経質に嫉妬モー
ドで怒ってるんだか」
 幸太郎は呆れ混じりの、それでいて最高に楽しい出来事にあってしまったかのように、ニヤニヤと笑
って言う。
「結構、ある意味愛の告白だった? もしかして」
 幸太郎は宝石の輝きに満ちた腕時計を目の高さまで上げると、「ふぅ」と息をつく。
「ああ、めんどくせ。でも、この後の授業でないと、単位落とすって言われてるしな」
 幸太郎は教科書一つ持たずに、プラプラと歩いていく。
 そして今は姿の見えない時人に向けて言う。
「時人ちゃん、大丈夫。俺は血液検査、オールクリーンだから。婆さんの味見も、手の甲にキスだけだ
から。安心してぼくの胸に飛び込んでおいで」
 幸太郎が投げキッスを廊下の天井に向けて放る。
 そしてちょうどその時、背筋を襲った寒気に足をもつれさせ、時人が豪快に顔面スライディングを決
めて廊下で転ぶのであった。
 


back / top / next
inserted by FC2 system