実験 4 「ちゃんと服着なさい。ね?」
「ちょっと待ってよぅ!」
車の下を覗き込んで砂利道の上で腹ばいになっている美知子に追いつき、さゆりは荒い息をはぁはぁ
と吐き出した。
ここまでおよそ2キロ全力疾走してきたのだ。
いつものトロイイメージの美知子からは考えられないスピードで走る後ろ姿を追ってきてみれば、と
うの美知子は息一つ荒げることなく、ネコのモモちゃんが隠れた車の下に向って威嚇を続けている。
「モモちゃん! どうしてわたしのこと引掻いたですか! せっかくお友達になろうと思ってたのに」
本気で怒ったようにネコに真剣に語りかける美知子に、さゆりは不思議な映画でも見るように隣りに
座り込むと、じっと美知子の後頭部をみつめた。
と、その美知子の頭が右に傾く。
「ん? なに? ぼくは名のったのに、おまえは名のらないうえに、家族の悪口言ったって。……あ、
そうか」
モモちゃんのウウーーという唸りの後で美知子が翻訳するように言う。
あのウウーはそう言う意味なのかと感心して聞いていたさゆりの隣りで、不意に腹ばいから起き上が
った美知子が、がばっと土下座の体勢になった。
「モモちゃん、ごめんなさい。そういえば、わたし勝手に想像した意地悪家族でしょなんて言ったんだ
よね。それで怒ってたんだね。ごめんなさい」
見事な土下座じゃねぇ。
その平伏した背中を見ながら、さゆりは驚くでもなく見下ろし、次に車の下を覗き込んだ。
すると、さっきまで背中の毛を逆立て、尻尾まで太くしていたモモちゃんが、きょとんとした顔で美
知子のつむじあたりを見ている。
そして尻尾は太いままだったが、車の下から警戒しいしい這い出てくると、平伏していた美知子に、
「もうよいぞ」と許しを与える城主さながら美知子の頭に手を置く。
「モモちゃん! 許してくれるの?」
ガバっと顔を上げた美知子に、モモちゃんは一つ瞬きして応える。
「ありがとう!」
美知子が両手を広げてモモちゃんに抱きつこうとする。
だが、それには拒否しますとばかりに、モモちゃんはヒラリと飛び退ると車のボンネットに飛びのる。
―― ニャハハハ
あ、笑った。
それはさゆりにも分かる、明らかに上機嫌な笑みだった。
「今のはなんて言ったの?」
さゆりは膝立ちで宙を掴んでしまった両腕をもどかしげにする美知子に聞く。
「調子に乗るな、バカ者め! だって」
モモちゃんは愉快そうに尻尾をピンと立てると、車から飛び降りて走り去っていく。
それを見て心底残念そうに肩を落とした美知子は、立ち上がると体中についた砂埃を払った。
「みっちゃんって、どんな動物ともお話できるの?」
美知子を座り込んだまま見上げたさゆりが聞く。
「どうかな? 実家にネコが十匹もいて毎日話しているうちに分かるようになったからなぁ」
「じゃあ、犬とはお話できないの?」
「したことないもん」
「本当? わたし、ポチとはお話できるんだよ」
さゆりは自慢げに言って立ち上がると、偉そうに胸を張ってみせる。
その言葉に、美知子は落としていた肩も眉も空まで飛跳ねるかと思うほどに跳ね上げてさゆりの腕を
取る。
「白レンジャーのポチでしょう? わたしもポチに会いたい」
「だったら連れてってあげる」
手を差し出したさゆりの手を握り、美知子がスッキップをはじめる。
「うわ〜〜〜い! 白レンジャーに出会えるぞ!」
「ちなみにわたしはピンクレンジャーなんだよ」
「ええ〜。いいなぁ。わたしもレンジャーになりたい」
一緒にスキップをルンルンとはじめ、繋いだ手を大きく振って笑顔を振り撒く大人の女二人に、通行
人たちが奇異の目を向け、目が合わないようにそらす。
そんなことには気づかず、二人の世界で微笑み合うさゆりと美知子。
「だったら、みっちゃんもレンジャーに入れてあげる」
「本当? だったらわたしオレンジレンジャーがいいな」
「うん、いいよ。でもなんでオレンジ?」
「美知、みかんが大好きだから」
「そうなんだ。わたしもイチゴ好きだからピンクレンジャーなんだ」
「だったらポチはなんで白レンジャーなの?」
「それはね、ポチは大根が好きだからなんだよ」
「へぇ。ポチ渋いね。さすが、白レンジャーだね」
さゆりのピンクスクーターを目指してスキップしていく二人を、木の上から見ていたモモちゃんは、
一声鳴くのであった。
――ニャー
(翻訳: あいつら、マジ馬鹿。今度来たら、またからかって遊んだるわ)
「ポチ〜〜〜」
バイクを降りた二人は、並んで他人の家の庭に侵入すると、ポチの前に座り込んだ。
平屋の青い瓦屋根の小さな家は、その割りに大きな庭つきで、草ボウボウの荒地ではあったが、昼日
中でも木陰があって涼しい庭だった。
カーテンも締め切られた家の中からは、人の気配はないものの、玄関前に乗り捨てられた自転車があ
る様子から、家の中に住人がいるらしい。
缶ビールの空き缶を溜め込んだダンボールが自転車の荷台に乗っている。
そんな家の庭の大きな木の下に、半分壊れた家を持つポチは、地面に掘った穴にはまり込んで寝てい
た。
それも半ケツが穴に収まりきらずに傾いた、非常に寝ずらそうな格好で苦悶の表情を浮かべて寝てい
た。
「そんな寝方してたら、首寝違えちゃうよ」
さゆりがポチの背中を摩る。
するとビクっと体を奮わせたポチが顔を上げる。
真っ白になった目は目ヤニで覆われていて、見えていないだろう目を彷徨わせる。
だがクンクンと動かした鼻でさゆりの匂いを感知したのか、控えめではあるが、嬉しそうに尻尾を左
右に振り、さゆりの方に顔をむけて頭をその手の甲になすりつける。
「うん。寂しかったの? ごめんね。このごろ忙しくてポチと町内のレンジャーとしての見回りもでき
なかったもんね」
もぞもぞと地面の穴から這い出してきたポチが、さゆりに密着させた体を振る。
「ポチ、さゆりちゃんが本当に好きなんだね」
美知子の声に、初めてその存在に気づいたらしいポチは、ビクッと飛び上がってさゆりの陰に隠れよ
うとする。
「あ、ポチ、大丈夫だよ。みっちゃん、わたしの友だちになった人。しかもね、レンジャーに入ってく
れるってよ。オレンジレンジャーだよ」
さゆりがポチの首筋を撫でながら言うと、さゆりの背中からちょこっと顔をのぞかせたポチが美知子
を見る。
「ポチ様。新入りの美知でございまする。なにとぞ、ご指導ご鞭撻をお頼み申します」
美知子が片膝をついて頭を下げると、ヨタヨタ歩きのポチが美知子に近づき、美知子の匂いが嗅ぎ始
める。
頭、肩。そして顔へと鼻を進め、最後にぺろりと美知子の鼻の頭を舐める。
「合格だってよ。みっちゃん」
さゆりに言われ、美知子は嬉しそうに笑うと、ポチの頭を撫でてお礼を言う。
「ありがとうございまする。町内会の見回りもご一緒するでござる」
その美知子の言葉に、キョロキョロと辺りを見回したさゆりがサッとポチの綱を木から外す。
「では善は急げ。町内の見回りと行きましょうか。白レンジャー、オレンジレンジャー」
「は!」
忍者ごっこと勘違いをはじめた美知子の掛け声と、ポチの元気なワンという声が重なった。
古ぼけたマンションや県営の住宅などが密集する生活臭が多分にする町並みの中を、ポチを先頭に歩
いていく。
昔からある建物が多いらしく、庭木や街路樹も大きく立派なものが多い。木立の前を通るときには、
必ず虫の元気な声が耳に軽やかに届く。
時折現れる田畑は、実りの季節を迎えてカラフルなガーデンカラーを展開していた。
そうした田畑のあぜ道を選んで、ポチは痩せた足でしっかりと草を踏みしめて前のめりになりながら
歩いていく。
「はぁ、いいところですね。ポチもこんなところを散歩できて幸せ者です」
オレンジレンジャーこと美知子が声をかけても、散歩に夢中なポチは振り向きもしない。
「本当に、毎日散歩できれば、ポチも幸せそのものなんだろうけどね」
さゆりは寂しさの含みのある声で、ポチの背中を見ながら言う。
「ポチ、毎日散歩できないの?」
犬といえば毎日の散歩が当たり前だと思っていた美知子は、薄汚れて痩せたポチの背中を見て呟く。
ポチだって毎日おしっこやうんちが出るんだから、散歩にいってあげなかったら我慢しきれないじゃ
ないか。それに、鎖に繋がれっぱなしじゃ、ストレスたまって具合が悪くなっちゃうよ。
美知子の思いが届いたのか、さゆりがおしっこをはじめたポチの後ろに立って、憂いの浮んだ目を見
せる。
「ポチは、昔あの家のおじいさんとおばあさんに飼われてたんだけど、一年ぐらい前に亡くなっちゃっ
てね。あの家には、今はおじいさんとおばあさんの息子がひとりで住んでるの。この息子、って言って
も50過ぎのおじさんなんだけど、動物嫌いらしくて、全然ポチの面倒みてくれないの。餌だって、毎
日もらえてないと思うし、この前なんてカビの生えた食パンがポチのお皿に入ってたんだよ」
「ええーー!! それって虐待じゃん」
美知子も怒り心頭で叫ぶ。
「うん。それで時々隙を見て、わたしが散歩したり餌を上げたりしてるんだけどね。見つかると怒られ
るんだわ。人のうちのものを勝手に触るなって」
「触るなって主張するほど、ポチのことに愛情があるわけじゃないくせに!」
「うん。でも大事にしないけれど所有権だけは主張する人っているじゃない。そういうタイプなんだろ
うね」
そんな二人の怒りと悲しみをよそに、振り返ったポチは嬉しそうに尻尾を振って「もっと行こうよ」
と散歩綱を引っ張っている。
そんな小さな幸せに体いっぱいで喜びを表現してくれるポチに、二人はなんだか心が解きほぐされる
ような、それでいてますます哀しくなるような気がして、顔を見合わせると苦笑いを浮かべた。
足元のネコじゃらしに鼻を寄せてクシャミをしたポチが、むず痒くて堪らなそうに鼻を両前肢で擦る。
「ポチって、もうおじいさんなんでしょう?」
美知子の問いに、さゆりが頷く。
「もっと大切にされて最期まで楽しく生きて欲しいな」
さゆりの心からのつぶやきに、思案顔になった美知子は、腕組みする「う〜ん」と唸りを上げて考え
始める。
ちょうどそのとき、同じく「う〜ん」と踏ん張っているポチがいた。
「ねえ、ポチを誘拐しちゃおうよ」
「え?」
「そのポチのダメダメ飼い主だって、気づいたって厄介払いできたって喜ぶぐらいだよ」
「でも、あの人、わたしの家とか知ってるから、見つかったら困るし」
「そうか」
再び「う〜ん」と唸りだした美知子の足元で、ポチが「うんこ、出た。見たって」とさゆりの足の纏
わりついてくる。
そのポチの頭を撫でて袋にうんちを拾おうとしたさゆりの背を、美知子がドンと押して叫ぶ。
「いいこと思いついちゃったよ。ポチを、時人ちゃんに飼ってもらえばいいんだ!」
美知子が名案とさゆりの背中に取り付いて叫ぶ。
「時人ちゃん、犬好きだもん。しかも一戸建てのでかい家に住んでるって話だし」
が、その美知子が肩越しに振り返ったさゆりの顔は、涙目で哀しい笑みに彩られていた。
「あれ? どうした?」
きょとんとした顔で尋ねる美知子に、さゆりが右手の手の平を向ける。
ムオっと立ち上る、生温かい悪臭に、美知子は後ろに飛び退る。
「クサ!」
「みっちゃんが飛びついてくるから、ポチのうんちの上に、手、ついちゃったじゃん」
「うお! ごめんなり」
「なりとか言っても、許してあげないから」
さゆりがうんちべっとりの手の平を掲げて美知子に追いすがる。
「いや〜〜! うんちはNOサンキューです〜〜〜」
走り出した二人の後を、わけが分からないままに、それでもお祭り? お祭り? と目を輝かせ走る
ポチが、幸せそうに舌を出して愛嬌を振りまいていた。
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