「実験3 奪うものには近づくべからず」





 南さんが本棚にあったフォトスタンドを持ってくる。
「ほら、これがわたしの恋人で、弟の海ちゃん」
「え? 弟?」
 写真を手に見ていた時人は、思わず写真と南さんの顔を交互に何度も見比べてしまう。
 似てないし、弟なのに恋人?
 二の句が継げずに口をあけたまま自分をみる時人に、南さんはこれ以上ないという笑みを浮かべてワ
ンカップを煽る。
「そうよ。弟」
「でも恋人?」
「そう」
 平気で肯定してチーかまをつまんだ南さんが、お一つどうぞと時人の口にも放り込む。
 写真の中の南さんは、今よりも少し若い顔で、陽に焼けて赤くなった顔にはにかんだ笑みを浮かべた
男の子に後ろから抱きついている。
「海ちゃんはサッカーが上手でね。それは地区大会で優勝したときの写真」
「そうなんですか……」
 聞きたいところはそこでなくて……。
 やはり写真の中で並んでいる二人の顔には全く似たところが見当たらなかった。
 和風な顔立ちの南さんと、大きな二重瞼でアイドルにでもなれそうな顔立ちの男の子。
 南さんも年齢不詳で若く見えるし、きれいな顔立ちだとは思うが、この少年と並んでいる姿は想像で
きなかった。もちろん、恋人として手を繋いでいる姿など、ありえないと思うほどに。
「本当に弟さん?」
「そうよ。血は繋がってないけど」
「……なんだ」
 ちょっと安心してつぶやいた時人は、写真を南さんの手に返す。
 南さん曰く、南さんのお父さんと海くんのお母さんが職場の同僚で、南さんが二十歳のときに再婚し
たのだという。
 そのとき海くんは十二歳の中学一年生だったが、人見知りもなく、はじめてできたおねえちゃんに懐
いてくれた、かわいい弟だったのだという。
 その海くんが大学へ通う彼女のアパートを訪ねてきて告白したのが、彼が高校に入学した昨年のこと
だという。お姉ちゃんだと思って抑えてきたけど、好きだって気持ちが爆発しそうだって。
「そ、それで?」
 本来の自分なら関心なしな話題なのに、今日はなんだかそれが知りたい気分だった。
 愛の時限爆弾を製作したからか?
 自分の存在価値について思い悩んだナイーブな日だったからか?
 はたまた井上幸太郎の悪影響か?
「それでぇ、別に海くんのこと嫌いじゃないし、どっちかっていうと好きだし、キスしても気持ち悪く
思わない人間だなっていう判断で、まあいいかなって」
「まあ、いいかなって、キスしたんですか?」
 思わず上ずる声に、なんだか自分が自分でないような気がして、身を乗り出しかけた自分に気づいた
時人は、南さんから目をそらして深呼吸すると、元の位置に戻って冷静に南さんを見つめた。
「やだなぁ。上条くんも、そんな恋バナに興味あるんだ?」
「あるっていうか、ないっていうか。……南さんだから?」
「やだ。それって、告白っぽいよ」
 おばさんのように手を顔の前で振って言う南さんに、時人が狼狽して顔を赤くする。
「え? いや、そんなつもりは」
「ははは。いい、分かってるって。海くんとキスはまだしてないよ。だってわたし、条件出したんだも
ん」
「条件?」
 なにやら自分の知る恋愛関係以上に特殊らしい南さんと弟くんの恋愛事情に、時人は眉間に皺をよせ、
南さんに顔をよせた。
「そう。条件。一つは海くんは海くんの年齢にあった生き方をすること。わたしに合わせようなんて急
ぎ足の人生はダメって。それから、高校卒業まではプラトニックであること。あとね、大学はボストン
にあるところにすること」
「ボストンって、ケンブリッジ大学とかマアチューセッツ工科大学とか?」
「そうね」
 時人は写真の中のあどけない顔の少年を見下ろして、同情したくなってきた。
 なんて高いハードルを用意されているのだろう? そしてそれを越えさせるほどの魅力が、目の前の
南さんにあるのだろうか? と失礼にも考えてみる。
「海くんは結構頭いいし、がんばって英会話スクールなんかにも通っちゃっててね。愛されてるのよね」
 のろけてみせる南さんに、時人は乾いた笑いを上げる。
 彼、海くんは南さんのどこにそんな魅力を感じたのだろう?
 時人は立ち上がって本棚に立てられた写真を眺めていった。
 どれも南さんと海くんのツーショットで、海や山、遊園地で二人並んでソフトクリームを食べている
ところなどが収められている。
 それらを眺めながら、時人は一瞬感じた違和感に写真に顔を寄せた。
「あれ? この写真の中の南さん、化粧してる。しかもスカートとか履いてるし」
 どうりでいつもよりキレイに見えたはずだ。
 写真のトリックかと思っていた時人は、有り得ないものを見つけたように声を上げて南さんに写真を
取上げて食い入るようにみつめた。
「なにもそんなに驚くことないじゃん。彼と会うのに、いつものスッピン、やぶれジーパンのTシャツ
姿で行く女がいる?」
 それはそうだけども。
 時人は部屋の中を見回し、それでも納得できないと思う。
 化粧台もなければ、化粧ポーチ一つ置かれていない。
 服は押入れの中なのかもしれないが、あの苦しげに断末魔を上げているが如くの、捩れたTシャツの
はみ出した松模様の押入れに、このワンピースが入っているとは思えない。
 よく見れば、靴もストラップ付きのヒールだった。
「この女に化けるグッズはどこに隠してあるんですか?」
「もちろんこの家にあるわけないじゃない」
 当然のことのように言った南さんは、ケラケラと笑って酔っ払った顔で「秘密よ」などと時人の鼻を
つつくと喋り出す。
「化粧はデパートの化粧品売り場のお試し品でするでしょう。服と靴はその前に友だちに借りてくるで
しょう」
 それから遊園地での写真の南さんが手にもったバスケットを指さして笑う。
「この中に入ってるお弁当も、友だちを買収して作ってもらうの。それでもレストランでお食事よりも
格安」
「はぁ」
 嬉しそうに語る南さんの、そこまで節約に徹する真意がつかめずに時人は生返事でうなずくのだった。
 そんな不可思議そうな時人の顔に、南さんはあっけらかんと笑って見せる。
「なんでそんなにまでして貧乏生活するのかって顔ね」
「まあ。だって南さんって、特許も取ってて、お金に不自由しているわけじゃないですよね。お父さん
だって、健在だし」
「まあね」
 南さんの部屋のカレンダーに書き込まれているのは、月1のデートの日だろうハートのマーク以外は、
すべて研究とバイトの文字で埋め尽くされている。
「バイトもしてるんですよね」
「そう。おなかにいい乳酸菌飲料の実験体になるとか、水質調査チームのデーター解析とか、あとね、
地道に花の受粉を一日中やらされる実験施設もあるんだよ」
 他にも怪しげなバイトをしていそうな南さんだったが、時人はそれには突っ込まずに他の問いをぶつ
けた。
「それって、みんな割りのいい仕事ですよね。それだったら、結構お金あるんじゃないんですか? 下
世話な質問だけど」
「まあね。でも、化粧品買ったり、ブランド物のバックや服買ったり、そんなことにお金使ってる余裕
はないの。わたし、来年、MIT(マサチューセッツ工科大学)に留学する予定だから」
 それで海くんにもボストンと言ってるのかと理解した。
 そしてウトウトし始めた南さんが机のおでんの鍋に突っ込みそうになっているのを見つけると、その
頭を支えるために両手を差し出す。
「南さん、寝るならちゃんと布団で」
 だがすでに夢うつつらしい南さんは、時人の手をつかむと、じっと潤んだ目で見つめてくる。
「分かる? わたしは将来の夢を実現することが一番大事なの。だから、他の犠牲なんて、全然苦じゃ
ない。お金かけない生活万歳よ。どうやってもやしだけで生きてくか考えるのだって、すっごくおもし
ろいんだから。だから、ちゃんとおねえちゃんがボストンで暮らせるだけの場所を用意しておくから、
海くんもちゃんとボストンに来るんだよ。待ってるからね」
 どうやら寝ぼけた南さんは、時人を愛しい弟くんと間違えたらしく、切々と語ると、次の瞬間には掴
んでいた時人の手に顔をつっぷして寝入ってしまう。
 威勢のいい寝息を立てる南さんを支えたまま、時人はしばし硬直してその横顔を眺めていた。
 つるりとした横顔に、こめかみから流れた髪が掛かって、一瞬時人もキレイだと見とれてしまう。そ
して無防備に眠るその顔を目の前に、自分は結構きわどい場面に遭遇しているのか? と自問してゴク
っと唾を飲む。
 何を緊張してる? 相手はあの南さんで、しかも何だかんだいってラブラブの彼氏がいる女だぞ。
 ケチに命をかけてるような女で、こんな小汚い家に料理もできずに住んでいる。
 だけど。
 時人はひと先ず、自分の力では華麗なるお姫さま抱っこは無理だと判断してコタツの布団を丸めて南さ
んの首元に枕代わりに押し付けると、ベットの上の布団を剥いで背中にかけてやる。
 酒に酔った赤い顔で幸せそうに口を半開きで寝る顔を見下ろし、時人は改めてコタツに座ると、南さ
んが残したワンカップの酒を飲んでみる。
「酒……おいしくない」
 おでんもすでに冷えてきていて、練りものからでた油が浮いている。
 どう見たって、妙齢の女が一緒にいて出てきた食事でも、部屋でもない。
 だけど、一緒にいて正直に言えば楽しかった。
 目的意識もなく、ただカスカスな自分の中味を覆い隠すために豪奢に飾り立てる女たちと違い、南さ
んは、その内側に大きな夢に向ってまい進する自信と希望が満ちていた。
 だから、あんなに生き生きとして、人間嫌いの女嫌いの頭でっかちな自分でも好きになれるのかもし
れない。
 体から幸せが溢れ出しているようにすら見える。
「そんなところが海くんには見えてたのか……」
 ちょっと恋が分かった気した時人は、おでんの土鍋に蓋をすると帰るために荷物を持って立ち上がっ
た。
「南さん、ごちそうさまでした。風邪ひかないでくださいね」
 時人は眠ったままの南さんに声をかけると、そっとガラス戸を開けた。
 幸せな寝顔を見れば、もしかしたら海くんとデートしている夢でも見ているのかもしれないと、こち
らまで幸せな気持ちになって微笑む。
 起さないようにそっと帰ろう。
 時人は部屋を出て台所を通り、玄関へ向おうとした。
 だが時人のそんな優しさは、南さん宅に住み着いた別の生物たちには理解されなかったのだった。
 ガラス戸を開けた瞬間、何かが足元にいた。
 黒くて光っている丸いもの。
 それがガサっと音を立てて動いた次の瞬間、思いの他大きな羽を広げて飛び立った。それも時人の顔
目掛けて。
「うぎゃぁぁぁぁぁ!!」
 静かに帰ろうどころか、けたたましい悲鳴を上げた時人に、南さんが寝ぼけた顔で飛び起きる。
「な、なに?」
 その南さんの前で再び時人が気絶してバタリと倒れる。
 その顔には、黒々とした立派なごきぶりが止まっていた。
「とりゃ!」
 南さんが起き抜けとは思えぬ動きで、手元の雑誌を丸めて時人の顔ごとゴキブリを叩く。
 南さんが布団から抜け出して見下ろした時人の真っ青な顔の上には、つぶれたゴキブリが転がってい
た。
 もちろん、時人はそんなことまでは知らなかったのだけれども。

上条時人ノデータ2

 南サン ―― 夢ノタメニハ、貧乏モイトワナイ女

 解析結果 ―― 上条時人ガ好ム人間ハ

 刹那的デハナイ、贅沢モ好マナイ人間





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