実験 4 「ちゃんと服着なさい。ね?」



《美知子編》


 しっかりと閉じられた厚手のカーテンの隙間から、朝日の白光が斜めに差し込んでいた。
 ちゅんちゅんという朝を清々しく演出するすずめの声を、意識と無意識の合間を漂いながら神野美知
子は聞いていた。
 頭まですっぽりと覆ったフトンは、ずいぶん太陽に晒されていないために湿って平たくなっていた。
 それでも今は何よりもラブリーな、全身にその存在を感じたい愛しいアイテムだった。
 半分覚醒した夢の中で、美知子が対峙していたのは巨大スイカの頭を持った男だった。
「ぼくをスープのダシとして使ってみてください。そうすれば、かの有名占い師のおばちゃんも太鼓判
を押す、いやいや、世界の名シェフでも唸るような、うまいスープが作れますから」
 スイカ頭の胴体は肌色の全身タイツ。
 かすかに乳首が透けてみえているのが、美知子には気になって仕方がなかった。
「そのダシになるのはぁ、その頭の部分だけですか? それとも、その乳首やもっこりとした股間を含
めた全身でしょうか?」
 その質問に、腕組みしたスイカ男が自信満々に胸をそらす。
「決まっているでしょう。全身ですよ。乳首から甘味が、股間からは酸味が適度に出ますから」
「ふ〜ん」
 なんとなく味を想像しながら上向いた美知子だったが、「わかった」と頷くと、大鍋に湯を溜め、庭
に設置したかまどの上に据えるのだった。
「では、遠慮なく湯に浸かりたいと思います」
「はい、どうぞ!」
 グラグラと煮え立った湯からは、水蒸気がボコボコと上がり、全身タイツのままの男が足を投入する。
「ああ。いい湯加減だ」
 湯が染みて透き通り始めたタイツのしたの肌が真っ赤になっている。
 もしかして、やせ我慢?
 そう思ってスイカ男の頭を見上げた瞬間、バン!とスイカが音を立てて爆発したのだった。
 無惨にスイカ割りにでもあったかのようにはじけた頭から、スイカの汁と真っ赤な果肉、黒い種が飛
び散っていた。
「スイカさん!」
 大変だ! 殺人事件だ!! いや、殺スイカ男事件!!
 大きく叫びを上げて手を伸ばした瞬間、美知子は目を覚ました。
「あれ? スイカさん?」
 薄暗い天井に向かって自分の手が伸ばされているが、目に入るのは、くもの巣と、さらにそれに埃が
覆い被さった、よく見慣れた自分の家の天井だった。
 が、同時に見慣れている以上に煤けているというか、霞んで見える気がする。
 しかもなにやら焦げ臭い。
 ムクっと反動もなしに起き上がった美知子は、「あ!」と声を上げてワンルームの片隅にあるキッチ
ンのガステーブルの上で卵が炭となって煙を上げているのを見つけた。
「うわおあ! やっちゃったよぉ〜!」
 大急ぎで立ち上がろうとした美知子だったが、すぐにいつものドン臭さが発動され、足に纏わりつい
たフトンにベットから転がり落ちる。
 ゴンと音を立てて、手を付く暇もなく床に額を打ち付ける。
「うぎゃぁぁ! 痛いっちゅうの!」
 床に向って「メ!」と叱った美知子は、だが額を一撫でしただけでズルズルとフトンを引きずったま
まに這ってガスコンロまでいく。
「あ〜あ、昨日豪華朝飯をもくろんでセットしておいたのに」
 ガスコンロに取り付けておいたタイマーを切り、ガスコンロのつまみをオフにする。
 昨晩の努力が水の泡ならぬ、炭カスだ。
 昨晩にセットしておいたのは、フライパンの上に味付けまでは完璧にしたタマゴ液。そしてフライパ
ンにアルミ箔で作った仕切りの向こうにウインナーが三本。
 隣りのコンロにはミルク鍋でカフェオレ。
 トースターには食パンの四枚切りをギリギリの幅で二枚突っ込んだのだった。
 それが朝の7時にタイマーで自動で料理され、いい匂いで目が覚めたときには完成。「ああ、おいし
そうな匂いね。なんて素敵な朝なんでしょう」と目を煌めかせながら言う予定だったのだ。
 だが、タマゴは黄色い色なんてどこにあるの? と目を凝らしてもどこにも見えないくらいに焦げつ
いているし、ウインナーは片面だけが加熱され続けた結果、爆発して油を壁にまで撒き散らした形で変
形した上で、炭になっていた。
 カフェオレは辛うじて残っているが、煮詰まって牛乳の膜の下でいやに黒ずんでいた。
 トースターに至っては、本来入るはずのない四枚切りを突っ込まれたために、焼け上がって自動的に
ポンと上がるはずのレバーが上がらずに、トースターごと過度の加熱のためにオシャカになっていた。
「うまくいかないものね」
 カフェオレをマグカップに移して口をつけた美知子は、その苦さにウヘと叫んで顔を顰める。
「これ、焦がしたイナゴの味する」
 虫のイナゴ。
 佃煮にして食べたことがある美知子だったが、その味がするカフェオレが手の中にある。
「すごい。ある意味、驚異の化学変化」
 美知子はそう呟くと、自身の化学キットの中からスポイトと採取用のチューブを取り出し、イナゴ味
のカフェオレを保存する。
 あとでイナゴの成分と比較してみようと誓う。
「お腹減ったけど、食べるものないや」
 美知子はぐ〜と音を立てた腹を手で押さえ、コンロの上の消し炭たちを恨めしく見つめた。
 だがどんなに呪いの呪文を送ってみたところで、炭がおいしい朝食に化けてくれるわけでもない。
「しょうがないか」
 美知子はつぶやいて立ち上がると、消し炭たちに背を向け、勢いよくパジャマを脱ぎ捨て、床に転が
っていたジーンズと洗濯籠の中のTシャツをにおいを確かめて、「うん、OKかな?」と独り言を言う
と、着込む。
 部屋の壁にかかった鏡に向って寝癖を手で梳いて直しながら、一応は外出に堪える外見であるかは確
認する。
「学校ないし、まあ、これでいいか」
 Tシャツの首の下には、ネックレスだってついている。かわいいドーベルマンのチャームを皮の紐で
釣ったのだ。
 鎖骨と鎖骨の谷間で銀色に光る時人作の犬がお気に入りで、美知子はふふふと笑って一撫でする。
「ご飯でも食べに行こう」
 ハンドバックを引っつかみ、腰には化学実験キットを詰めたウエストポーチをつけ、キャップを被れ
ばお出かけ準備は完成だ。
 はき潰したスニーカーに足を通した美知子は、下駄箱代わりに自分で作ったダンボールの箱の上で愛
らしく身をくねらせたサボテン君に「入ってきます」と声をかける。
 そしてサボテンくんに行ってきますのキスをする。
「あ、イテ!」
 だが唇に返ってきたキスは手痛い、棘の一刺しという刺激的なキスだった。
「なによ、わたしの愛情が受けられないって?」
 腰に手をあて、サボテン君に文句を言った美知子は、だが次の瞬間にはサボテン君の意見を聞こうと
耳を傾け、沈黙する。
 そして。
「え? 口が臭い? 本当? そうか。昨日の夜から歯を磨いてないからな。朝のお口は殺人的に細菌
天国になってるからね。そうか。それでサボテン君はキス拒否ですか」
 納得して頷きながら腕組みした美知子は、チラリと振り返って流しの上のコップに立てられたハブラ
シを見つめた。
 歯、磨いてから出かけたほうがいいんだよね。
 自分に聞いてみる。
 が、その直後に目はすでに靴を履いてしまっている足を見下ろし、空腹でぺっちゃんこの腹も見下ろ
す。
 足が一歩、戻ることよりも先に進むことを選択して動きだす。
「大丈夫。わたしの唾液は殺菌力旺盛なほど分泌量過多だし、朝飯食べれば、また一緒ってネ」
 自分の詭弁に騙されて笑うと、美知子は家を飛び出していった。


 日曜日の朝八時。
 朝早い老人たちが住宅街の中の小さな公園でゲートボールをしていた。
 それもそろそろお開きのお時間らしく、世話好きなお婆さんたちがみんなでお茶の準備などをはじめ
ていた。
 どこからともなく、大量の湯のみがお盆の上に並べられ、クローバーの繁る草の上に座布団を広げて
いる。
 美知子はその公園の中に無邪気な顔で入っていく。
「おお。みっちゃん。またお茶だけ飲みに現れたな」
 打つ順番を待っていたおばあちゃんのひとりが麦わら帽子のひさしを上げて言う。
「うん。また鶴ちゃんのお饅頭が食べたくなった」
「そんな調子の良い事言って、朝飯代わりに来たくせに」
「あれ? ばれてる?」
 頭を掻きつつ笑えば、太った肝っ玉母さんのような君代ばあちゃんが、首にかけていたタオルで美知
子の顔を拭いてくれる。
「女の子なんだから、顔ぐらい洗ってきなさいな」
 少し押し入れのにおいがするタオルで、背の小さい君代ばあちゃんに合わせて膝を屈め、美知子は子
どものように拭いてもらう。
「まったく誰かの孫みたいな顔して現れるっていうのに、聞けば誰の孫でもねぇってんだから、みっち
ゃんも肝が据わってるわな」
 すでに顔馴染みになっている美知子は、えへへと笑うといち早くお茶のための座布団を確保する。
「定子ばあちゃん、今日の目玉はなに?」
 お茶の準備を進めていた定子ばあちゃんの手元をのぞき込みながら、美知子が問えば、長い髪をきれ
いに結い上げた上品なおばあちゃんが笑顔で振り返る。
「今日はおはぎ作ってきたよ」
「おはぎ! 何味ある?」
「あんことごま。それからわたしの田舎の方の名物のくるみのおはぎ」
 まだみんなはゲートボールの最後の勝負を続けていると言うのに、美知子は差し出された三つのおは
ぎの乗った皿を受け取り、目を輝かせる。
「みっちゃん、ヨダレたれてるよ」
 ボールを打とうとゲートを見据えていたはずの鶴ばあちゃんが呆れ声で言い、次の瞬間には小気味い
いまでに朝の空の下に響き渡る音を立ててボールを打つ。
 勢いよく一直線に地面の上を赤いボールが転がり、銀のゲートを潜ったのと、おはぎが美知子の口に
ゴールを決めるのは同時だった。
 得意満面で振り返った鶴ばあちゃんに、口にあんこをつけた美知子が親指を立ててナイスと示す。
「ああ、今日も鶴子のひとり勝ちだ」
 君代ばあちゃんがおもしろくなさそうにムスっとした顔をしていうが、太った体を揺すってお茶のみ
の座布団に座る頃には、すっかり笑顔に戻っていた。
「みっちゃん、優勝のわたしよりも先に景品食べてたらいかんでしょうが」
 鶴ばあちゃんは細身で肩にゲートボールのスティックを担いで言うと、なかなか様になっている。昔
女学生の頃はテニスで優勝したことがあると自慢話をしていたが、あながち嘘ではなさそうだ。
 タイミングを逃さずに定ばあちゃんが鶴ばあちゃんに、お茶の入った湯のみを手渡すと、勝利のあと
の一杯というように、豪快に飲み干して汗を拭う。
 美知子の友だちであり、世話焼き人の三婆たちが揃い踏みだった。
 体もほっそりとしていて、いかにも活発な鶴ばあちゃん。趣味はカラオケ。ちなみに好きな歌は大塚
愛の「さくらんぼ」らしい。
 対照的に大柄で太った肝っ玉母さん風の君代ばあちゃんは、農業の達人。今日も自作の白菜をゆでた
白菜のおさしみを広げている。
 そして何かにつけて言い合いをする、気の強い鶴ばあちゃんと君代ばあちゃんの間を取り持つのが、
上品な大奥様な定ばあちゃんだ。由緒ある旧家から地元の和菓子処に嫁いできたのだと、鶴ばあちゃん
が言っていた。
 そんな三人が競って美知子の世話を焼いてくれるので、美知子は何もしなくても手に持った皿や湯の
みに次々と食べ物やお茶が追加されていく。
「ほら、みっちゃん、あんたはもっと食べて魅力的に肥えないといけないよ」
 たっぷりとあんこを乗せたおはぎをポンポンと美知子の皿に乗せてくれる君代ばあちゃんだったが、
実は作ってきたのは定ばあちゃんだ。
「ちょっと、あんたね。みっちゃんまで自分と同じようにブタにしようたってそうはいかないよ。この
町にブタはあんたひとりで十分なんだから」
 ずずっとお茶をすすりながら鶴ばあちゃんがすかさずいう。
「鶏がら婆は黙っときな。だいたい男はちょっと肥えてるくらいが好きなんだよ。だからあんたみたい
な鶏がらは、気位ばっか高くて結婚できないんだよ」
 子どもを5人も産んだ君代ばあちゃんは、生涯独身を通した鶴ばあちゃんにお返しという。
「わたしは結婚なんてして男に頼らなくても生きていけるだけのココがあったんだよ。どっかの誰かと
違ってね」
 鶴ばあちゃんが自分の額を指さして言う。
 その言い合いを見ながら、言い合いの原因たる美知子はすでに君代ばあちゃんが積んでくれたおはぎ
は食べ尽くしていたりする。
「かぁ〜! 口の減らない婆だね」
「ほら、トロイ頭では言うべき言葉が見つからないから、怒鳴って威勢で威圧かい?」
 鶴ばあちゃんはそう言いつつ、お皿の上の白菜のお刺身を口に放り込む。
「うん。でもあんたんとこの野菜は本当においしいね。スーパーに売ってるのとは甘さが違うわ」
 まさしく竹を割ったような性格の鶴ばあちゃんの褒め言葉に、そこまで気分の転換がうまくいかない
君代ばあちゃんはフンと鼻をならしておはぎにかじりつく。
「野菜に対する愛情が、そんじょそこらの奴らとは違うんでね」
 君代ばあちゃんは照れながらそう言って、他の老人方にも白菜のお刺身を配り始める。
「さあ、食べてくれや。この気難しい鶴婆がウマイって太鼓判押してくれるくらいだから、絶品さな」
 そんな二人の遣り取りを見つめていた美知子の横で、定ばあちゃんが困ったような笑顔で言った。
「あれで昔から大の仲良しなんだからね」
「そうみたいだね」
 美知子は鶴ばあちゃんの皿にも山盛りの白菜を載せてやっている君代ばあちゃんの背中を見ながら笑
って言った。
「あんた、わたしはこんなに食べれないよ。ブタじゃないんだから」
「いいんだよ。ニワトリみたいに、いつまでもずっと菜っ葉齧ってれば」 
 喧喧諤諤と言い合いながらも寄り添って座っている。
「いいよね。わたしばあちゃんたち本当に好き。ばあちゃんたちと知り合えて良かったよ」
「そうね。朝ごはんも食べれるしね」
 返された言葉に立ったまま給仕を続けている定ばあちゃんを見上げ、美知子はニヤっと笑ってみせる
のだった。

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