「実験3 奪うものには近づくべからず」



2
「ああ、もう誰かいないの〜〜」  途方にくれる声が聞こえる。  しかもドタドタと体が揺すられる。  微かに開いた視界に見えるのは、黒いの長い女の人の髪。  ああ、シャンプーのいい匂いがするなぁ。  幸せな思いのままに、再び意識は喪失。  自分のものではない、甘く柔らかな匂いの染みた布団の中で目を覚ました時人は、目をあけた瞬間に 勢いよくガバっと起き上がった。  ぼやけた視界では状況がよくは分からないが、ここが自分の部屋や大学の構内でないことは分かった。  蛍光灯の光に照らされた小さな部屋のようだった。 隣りの部屋から、がちゃがちゃと何かをしている物音が聞こえる。 一体ここは、どこなんだ? 枕元を振り返り目を細めると、眼鏡が置かれていた。  あった!  時人は眼鏡を手にとり、急いで辺りを見回した。  それはたぶん女性の部屋だと思わせるインテリアの部屋だった。  たぶんというのは、女の子を連想させるピンクやレース、ぬいぐるみが皆無の部屋だったからだ。  地味な松模様のふすまの隙間からTシャツの裾がはみ出しているし、その横に大きなカバンが投げ捨 てられていた。  そのカバンの中からも、飲み終わった空のペットボトルや丸まったティッシュが転げ落ちている。  だがそのカバンには見覚えがあった。  今どきのギャルが持ちそうな豹柄のカバンなのに、なぜか取っ手部分に下げられたマスコットは薬局 で時々もらえるケロヨン。そして酒瓶を下げたうろんげな表情のタヌキ。 「南さんのか……」  ということは、ここは南さんの部屋。  そう思ってみれば納得の部屋な気もした。  年中出っ放しなのだろうコタツの上には、工学やナノテクノロジーを利用した医療器具の開発プロジ ェクトの専門書が崩れ落ちそうに積み重ねられ、使いっぱなしのマグカップがいくつもコタツの上で干 からびて転がっていた。  それでもタバコを吸わないことや、男でないだけに、部屋に異臭がすることもなく、ひとまず洗濯は してあるのだろう服が、たたんで籐の籠の中に放り込まれていた。  随分とボロイアパート。それが時人が持った感想だった。  壁はきっと時には顔にキラキラした素材がつくこともあるだろう土壁で、窓も今どきあるのだと感心 するほどの古びてささくれ立った木枠の中に、磨り硝子がはまっている。  カーテンはかかってはいるが、いつから放置されているのかと疑いたくなるほどに、黄ばんでいる。  唯一女の子らしい部屋を演出しているのが本棚に並んだ写真立てだった。  いくつも並んでいる写真立てはどれもクマを描いたファンシーなものであったり、押し花をアクリル の中に閉じ込めたかわいらしいものだったり、ワイヤーアートの小洒落たものだった。  それらを呆然と布団の上で眺めていた時人だったが、不意に隣りの部屋とのガラス戸が開き、南さん が現れたところで慌ててベットから飛び降りた。 「ああ、上条君。頭打ったんだから、急に動いたらダメよ」  笑顔で言った南さんは、キッチンミットをはめた手で湯気を上げる土鍋を持っている。  それをコタツの上に載せようとして、載せるスペースがないと見るや、足でマグカップなどを転がり 落としてスペースを作る。 「汚いところでごめんね。わたし基本的に主婦的なことできなくてね。これもコンビニおでんをそれっ ぽく土鍋で温めただけ」  そんなことはばらさなければ分からないというのに、バカ正直に報告すると、転がっていったマグカ ップを回収して隣りの部屋へと出て行く。 「あ、ぼくも手伝います」  時人は立ち上がると南さんのあとを追った。  ガタガタと錆びたレールの上を転がる、これまたいつの時代のものだと疑わせる雪印のマーク(?) 入りのガラスがはまった戸を抜けると、そこはキッチンになっていた。  家族三人くらいなら一緒に食卓を囲めそうなダイニングテーブルの置かれたキッチンは、だがとても 食事ができそうもないくらいに物が溢れている。 「上条君、ゴキブリ平気? そこら辺にけっこういるから気をつけて」  南さんが平気な顔で言って指さす方向をみれば、ゴキブリほいほいが置かれている。そして今しもそ の中に一匹の黒々とした体が入り込んでいった。 「あ、ごきぶり……」  初めて見たその決定的瞬間に目を見開いたのもつかの間、時人は目を疑う光景に言葉を失う。  入っていったゴキブリが、ゴキブリほいほいの反対側から通過して出てくるではないか! 「そのゴキブリほいほい、もう限界なんだよね。一面すでにゴキブリがくっついっちゃってるから、ゴ キブリがゴキブリを踏みつけて出てきちゃうんだよ。見てみる?」  今にもゴキブリほいほいを掴み上げそうな勢いに、時人は慌てて両手を顔の前で振る。 「いえ、結構です」 「こんなところだから、手料理なんて出されてもねぇ」  南さんは悪びれるでもなく、コンビニの袋を掲げてみせる。 「はい、それで結構です。ありがとうございます」  コンビニ万歳だ!  時人は安堵してコンビニの袋を受け取り、おそろしい魔境を後にするように台所を出て行く。 「適当に座って食べてってね。今日はわたしが全ていけないから、せめてもの償いということで」  そういえば、雷で抱きつかれて床に押し倒され、挙句の果てには頭を強打して失神したはずなのだ。 「えっと、ぼくはどうやってここまで」 「そうそれよ。大変だったのよ。上条君がいくら痩せてるとは言ってもね、女のわたしがここまで背負 って運んだんだから」 「え? 背負って?」  この家の場所を聞けば、大学から三駅分は離れている。 「最初は大学の保健室へ運んだんだけど、もう時間が時間だったから誰もいなくて、病院行こうかと思 ったけど、わたしお金なくてね。失礼して上条君の財布も見せてもらったけど、わたしとたいして変わ らなくて」  そう、ぼくの所持金は本日500円だったはずだ。  わかるでしょ? の視線でとりあえず頷いて返事をする。  それではタクシーは無理だし、男を背負って電車というのも悪目立ちが過ぎる。 「だからって、背負ってここまで来るなんて」 「火事場のバカ力ってやつ? わたしの場合はケチ力だけど」  南さんがそう言ってふふふと笑う。  こんな汚い部屋の住人で、女の人らしいところは何もない人だが、この笑い方だけは上品だった。  と思った矢先にコンビニの袋から取り出したのがワンカップだったので、上品と浮んだイメージがた ちまち消滅する。 「えっと、おにぎり各種と酒とお茶。上条君は?」 「お茶で」 「飲まないの?」 「一応未成年なんで」 「またまた堅いわね」 「……飲んだことないし、飲酒は脳を破壊する行為なので」  真面目な顔で言って緑茶を受け取った時人が封を切ると口をつける。 「そんなに頭いいんだから、ちょっとくらいの脳の死滅は目を瞑れない?」  わたしは死滅の恐怖よりも、酔いの誘惑を取らせてもらいますと、豪快にワンカップの酒をごくごく と音を立てて飲み干していく。  その喉元を見つめながら、時人はぼそりと呟く。 「ぼくの価値はこの頭だけですから、惨めったらしくそれを守ろうと必死になってるだけですよ」  その言葉にワンカップを煽った姿勢のままで、腕とワンカップの隙間から南さんが時人を見た。 「上条くんの価値?」  その年上の女性特有の見透かすような声色に、時人は慌てて取り繕って話題を変える。 「おでん、いただきます」  取り皿と割り箸を構えて土鍋の中から大根を掴み取る。 「上条君」  だが時人の意図とは裏腹に、真面目な顔になった南さんがじっと見つめてくる。 「……はい」  割り箸に刺した大根を齧ろうとしながら、上目遣いに南さんを見つめる。  その時人の眼鏡を、大根から上がる湯気が白く曇らせる。  その絶妙なタイミングに、南さんが笑い声を上げる。  時人も幾分緊張をみせていた空気が和らいだことに安心して、眼鏡をTシャツの裾で拭う。 「上条君はさ、おでんで言えばこれかな」  南さんは土鍋の中から「もち巾着」を掴み上げる。  それをパクっと口の放り込み、「うまい!」と口の端に付いたつゆを拭いながら言う。 「もち巾着がぼく?」 「そう。お高くて、しかも調理が面倒くさい」  次にがんもどきを取り出すと、汁を飛ばすのも気にせずにくるくると回す。 「で、これがわたし。お安くて、おでんのメインにはなれないんだけど、全体をおいしい味にかえてく れる陰の立役者」  それも口に放り込みながら、南さんがわかる? と時人の顔を探るように見る。  時人は土鍋の中をのぞき込みながら、それならと考える。  ちくわぶが美知子で、煮たまごが幸太郎だ。 「この土鍋が世界と見立てれば、どれが欠けても、どれが主張しすぎても不味いものしかできあがらな い。みんなが必要とされるところで必要な仕事をこなして、はじめておいしいおでんができあがる。決し てもち巾着は大根になりたいと思ったところで、なれないし、ならないほうがいい」  幾分酒が回ってきた座った目で笑う南さんが、時人の取り皿に時人に見立てたもち巾着をのせる。 「もち巾着は、うまいけど、もちは高いうえに油揚げを湯切りしないといけなかったり、面倒くさい。 でも、ちゃんと調理すれば最高にうまい」 「それがぼく?」 「そう。おいしいタンパク質のもとでできてる本体を、油バリアで覆っちゃってるからなかなか味わえな いけど、見方を変えれば、その油だっておいしさの一つである上に、お豆腐をおいしくしちゃう要素そ のもの。上条君の賢さは、とっつきづらく感じさせるし、上条君自身がそんな自分を装うことに慣れす ぎてる。でも、その賢さが上条君の持ち味だし、その下に隠されてる素顔は意外に、かなりかわいい」  眼鏡をちょいとずらされ、時人は照れた顔で南さんの指を逃れて身をそらす。  それを余裕をかまして笑ってみている南さんだった。 「もう、からかわないでくださいよね」  時人はふんと鼻をならしてもち巾着に食いつく。 「いいじゃない。いい年したお姉さんは、かわいい男の子をからかって遊びたいのよ」  二本目のワンカップを開けている南さんを見つめ、その年齢不詳の顔をみた。  実年齢は24歳であるはずの南さんだが、高校生でも通りそうな風貌は酒を飲んで酔っ払っていても 変わらない。  いったいこの人のプライベートとはどんなものなのだろう?  ふと過ぎった疑問に、時人は南さんの顔を見つめた。 「南さんって、恋人とかいるんですか?」  男の影はちらりとでも見たことは皆無なのだが。 「うん。いるよ」  だが予想に反して南さんが言う。  そして時人の顔を見て、今思いついたと目を輝かせてにやりと笑う。 「そういえば、上条君と同い年だ」  その答えに目が丸くなる。  それって。 「高校生ですか」 「そう」  にんまりと笑うその顔を、時人は穴が空くほど見つめた。
back / top / next
inserted by FC2 system