「実験3 奪うものには近づくべからず」



《時人編 U》


 トイレの洗面台の前で白い錠剤を取り出して喉の奥に放り込み、水で飲み込む。
 クスリを飲むときの自分は、ニワトリみたいに顔を上向かせなければ飲めないのはなぜだろう。
 時人は疲れた不機嫌な顔の自分を鏡の中に見ながら思った。
 今飲んだのは鎮痛剤だ。
 このところ頭痛が続いていた。
 というのも、気分が悪くなることが続発するからいけないのだ。
 原因は絶対にファンランだと時人は決め付けていた。
 愛の時限爆弾のデーターを解析するためのソフトを入れたパソコンが壊れたのだ。
 もちろん直すことは直せたのだが、肝心の解析ソフトの中から、登録しておいた愛の時限爆弾の追跡
ナンバーが消えてしまっていたのだ。
 追跡ナンバーを入力しさえすればいいのは分かっているのだが、自分でも腹立たしいことに、ナンバ
ーの控えを取っておかなかったのだ。
 天才としたことが、なんて初歩的なミスを犯してしまったのだ。
 時人は今朝見た幸太郎の今までに見たことのないほどの上機嫌な顔を思い出し、チっと舌打ちする。
 絶対に昨日、何かあったのは目に見えて明らかだった。
 それなのに、それを逐一盗み見る好機を逃してしまったのだから。
 そこまで考え、時人は「ん?」と意識を切り替え、自分の考えを否定した。
 いやいや、そんな人のプライベートを盗み見たいなどという下世話な考えではじめた実験ではない。
そう、これは高尚なる実験なのだ。
 人間の人に恋するという現象の。
 言い訳がましく自分にいいながら、再び「ん?」と自分の考えに疑問を見つけて思考を飛ばす。
 恋?
 だいたいにおいて、恋なんてものに、自分が関心があったのだろうか?
 人間は恋なんてものなしでも十分生きていける生き物だろうが。恋しないと生きていけないなどとい
う、女子中学生の妄想じみた考えを今さら自分が引き合いに出すまでもない。
 だったら、人間は何のために生きてるんだ?
 思考の螺旋階段にはまってしまった時人の考えが、次第に哲学の世界へと足を踏み入れていく。
 ぼくは何のために生きてる?
 理由なんてない。
 どこの誰だか知らない女がぼくを産み落とし(捨てるくらいなら、産むなだと思うのだが)、命が与
えられたから、その命が消える日まではと思って生きているだけだ。
 人それぞれには生きている意味がある。と、人は言うけれど、それは本当だろうか?
 そう思わないと自分のあまりのちっぽけさに自分の価値が分からなくなり、鼻息でも飛ばされてどこ
にいるのかわからなくなるような、埃の一欠けらと同等であることに気づくから、そう思おうとしてい
るだけではないのか?
 自分は――。
 時人は水垢と埃で汚れた鏡の中の自分を見つめ、考えた。
 自分には価値があるのか? と問われれば、それなりに自分の持つ能力を必要と思ってくれる人の間
では価値があるだろうと思う。
 だが、自分が武器としている知能の高さを抜きとして、人間性そのもので価値を問われれば、価値は
皆無であろう。
 それこそ、鼻息で吹き飛んで目の前から消えても、誰一人見つけられない。それ以前に誰も捜そうと
もしない人間だろう。
 そんな自分の存在をこの地に刻み付けるのが、恋なのかもな。
 不意にそう思い、鏡の中の自分に時人は苦笑を浮かべた。
 誰からも忘れ去られ、この地球に生きていた証拠がなくならないように、誰かの記憶の中に刻まれた
姿で残されるように。あるいは、常に会いたいと思いの中に思い描かれる存在になれるように。
 時人は水道の蛇口を捻ると、勢いよく飛び出した水に手を差し入れ、顔を洗った。
 このぼくが恋について考察しようとはな。
 もし幸太郎に同じ質問をしたら、なんと答えるのだろう?
 ふとそう思ったが、決してそんな会話を交わす機会がないことは分かっていた。
「上条君」
 声を掛けられ、顔から水を滴らせながら振り向いた時人の目の前に、ピンクのハンカチが差し出され
る。
「拭けば? 白衣までびっちゃりよ」
 言われた時人は、お礼に頭を下げてハンカチを受け取ると、顔を拭った。
 眼鏡を外していたためにボケた相手の顔を確かめようもなく、目を眇めつつじっと見つめる。
「はい、眼鏡も」
 女の声がそう言って時人にハンカチと交換で眼鏡を握らせる。
「あ、ありがとう」
 時人は眼鏡を掛けると相手の顔を見た。
「ああ、南さんか」
「今分かったの? 普通声でわかると思うけど」
「……そうなんですか?」
「そうよ。人によっては、足首見ただけで誰か分かるなんていう、女の研究に余念がない人がいるけど」
「足首?」
 言われて時人は目の前の女性、南さんの足元を見下ろした。
 だがそこに足首はない。
 はき潰されたバスケシューズと裾の擦り切れたジーンズを履いた足があるだけだ。
「ヤダな。わたしが足首が細く見えるパンプス履いた、ストッキングの足でいるはずがないでしょう」
 南さんが鷹揚に笑う。
 時人よりも八歳年上の大学院生の彼女は、化粧さえしていない。髪も明らかに放っておいたら長く
なってしまっただけのロングヘアを後頭部で一つに束ねていた。やたら真っ黒な髪が、馬の尻尾かと思
うほどの豊かさで背中に広がっていた。
 女の匂いがしない。
 だから時人が親しく話せる数少ない女性の一人だった。
「回路設計はできたんですか?」
 時人は南さんを見て、意地悪く言う。
「………できてるなら、ここにいないって」
「だと思いました」
 男にしてはまだ背の小さい時人と、女にしては背の高い南さんは、ちょうど目線が一緒だった。
 それでも痛いところ突っ込まれた南さんが、俯き加減にして時人を上目遣いで見つめる。
「上条君、お願い」
 本日何度目かの顔の前で両手を合わせる仕草を見ながら、時人はしょうがないなぁと、わざとらしく
ため息をつき、南さんを追い越して歩いていく。
「どこで躓いてるんですか?」
 その時人の一言で、現金に笑顔で顔を上げた南さんが時人の背中に追いついて高速で喋り始める。
「体内に入れたナノマシンに指令を入れてやって必要な薬を作る理論までは構築できたんだけど、それ
をそのクスリが必要な部位を認定させて届けさせてやる理論にミスがあるみたいで……」
 南さんは今度の論文で医療用ナノマシンについて書くらしい。
 が、実際のデータ作りのために構築しているモデルが、どうしても思い通りに作動せず、時人に助け
を求めてきたのだ。
 ふと研究室のコンピュータの前に座りながら、時人は窓の外を見た。
 すでに暗く闇に落ち、木の葉が風にかさかさと大仰な音を立てていた。
「……風強いね。台風来てるって言うからね」
「そうですね」
 大きくしなった枝が窓を叩くのを聞きながら、時人はコンピューターに向かった。
「わたしね、子どもの頃、台風って好きだったな」
 人に細かいコンピューターの文字を見つめさせながら、本人は夢見ごこちな視線で窓に映った自分た
ちの向こうの、冷たく荒れ狂う風を見つめていた。
「なんでですか?」
「停電になるから」
「停電?」
 折りしも、地鳴りのような大きな雷の音が聞こえる。
「停電になるかな?」
「さあ? でもなったら、困るのは南さんですよ」
「どうして?」
 すっ呆けた顔で本気でわからなそうに見下ろした南さんに、時人が視線でコンピューターを示す。
「ちゃんとデーターのバックアップがあればいいけど、なければ、今までの何時間かの苦労がパー」
 その時人の言葉に、今さらのようにハっとした顔した南さん。
 でもその気づきは遅すぎだった。
 ドーーーーーンという凄まじい音と振動を起して雷が大学の避雷針を直撃。
 昼を思わせるほど明るく光った雷の光と音に首をすくめた次の瞬間、音もなく大学中の電気が落ちる。
 もちろん、コンピューターの画面も、あやしく光る青白い残光を残して消える。
「え?」
 その瞬間、背中から覆い被さってくる体温を感じて時人が身を固める。
 耳の下あたりにかかる南さんの息。
 再び真っ暗な教室の中に忍び込んだ白光に、南さんがさらに力をこめて時人を背中からぎゅっと抱き
しめた。
 わずかな震えが時人の背中に伝わる。
 それを意識したとたんに、同時に時人の背中に触れる二つの柔らかなものにも気づいてしまう。
 こ、これは、南さんの………。
 轟き渡る雷鳴。
 時人の体の中で、意思に反して飛跳ねる心臓。
 だがそんな時人の感情の機微は、南さんの上げた悲鳴でかき消される。
「ぎやぁぁぁぁぁぁ!!」
 女らしからぬ、可愛げもない、例えるならばカエルが「殺される〜〜〜〜〜!」と断末魔の叫びを上
げたような声が、時人の耳を直撃する。
「うわあああああああ!」
 違う意味で悲鳴を上げた時人は、背中の南さんを引き離し、だが、時人の悲鳴にさらなる恐怖の連鎖
を起した南さんが、さらに耳を覆いたくなる声を上げて、時人に正面から抱きつく。
 前後もなく力強く体当たりされて時人が、南さんと一緒くたになって床に転がる。
 ゴンと音を立てて頭が床板を直撃する。
 時人は暗闇なのに、確かにはじけ飛ぶ星の光を見た。
 大学内の自家発電装置が作動して、再び電気が灯る。
 その電灯の下で正気を取り戻して目をあけた南さんが見たのは、はしたなく時人のうえに馬のりにな
った自分と、自分の足の間で白目を見て倒れた時人の姿だった。
「か、上条くん!?」
 時人の意識は、雷に打たれたわけでもないのに、感電して遥か彼方を漂っていた。


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