「実験 2 女の相談 蜜の味」2




「うちは幸太郎君ちみたいにお金持ちじゃないからさ。恥ずかしいんだけど」
 小4ではじめてできた彼女の家に呼ばれてあがった部屋を見回す幸太郎に、彼女が言った。
 ピンクとぬいぐるみで満ちた小さな部屋で、どこに座っていいのか分からずに突っ立っていると、ク
ッションが添えられた小さなテーブルに彼女が麦茶の入ったグラスとクッキーの乗ったお皿を置く。
「座って」
 彼女がぬいぐるみを抱えて絨毯の上に座るのを見て、幸太郎も同じようにクッションを抱えるとあぐ
らをかいて座った。
「かわいい部屋だね」
「そうかな?」
 いつもは学校帰りも止めどなく喋る彼女が、いつもとは違うシチュエーションゆえか、恥ずかしそう
にもぞもぞとしている。
「これ、昨日お母さんと作ったんだ。よかったら食べてみて」
「え? クッキー作れるの?」
「うん。ほとんどお母さんが作ったようなもんだけどね。あ、このハート型はわたしが型抜きして作っ
たんだよ」
 指さされたクッキーは、こんがりと焼き上がった上にチョコレートが飾られ、ピンクの文字でLOV
Eと書かれている。
「LOVE?」
「………いいの!」
 手に取って彼女の顔を見れば、照れ隠しの怒った顔で幸太郎の腕を叩く。
「いいから、食べて」
「うん」
 口に入れた幸太郎は、日頃食べつけたクッキーよりも卵やバターの味の濃い家庭的な味わいに、思わず目
を大きく開いて彼女の顔を見た。
「うま!」
「本当?」
「うん。うちの母さんの買ってくるケーキ屋のより絶対うまいって」
 次の一枚を手に取り言えば、彼女の頬がほんのりと赤く染まり、今まで見たことがないほど幸せそう
な笑みを見せる。
「じゃあ、今度はお母さんに習って幸太郎くんの好きなもの作ってあげるからね」
 

 幸太郎はさゆりのいびきが聞こえる部屋の中に戻ると、どうせこのぐらいで起きることはないだろう
と、さゆりの隣りにドカっと腰を下ろした。
 案の定大きくたわんで揺れたベットに、一瞬いびきが途絶えたものの、すぐに至極安定したリズムで
いびきが始まる。
 ベットサイドの電気スタンドの紐に結わえられた緑のチェックのリボン。
 随分長い時間そこにあることを示して、色あせて汚れはじめていた。
 黒とグレーで統一され、物が少ない幸太郎の部屋では一点違和感がある存在がそのリボンだった。
 幸太郎はそのリボンに指を伸ばすと、電気を消すでもなく、そっと引っ張る。
 あの日、彼女の手づくりのクッキーのおいしさを手放しで褒める幸太郎に、彼女の母親が「おみやげ」
といって持たせてくれたのだ。その袋に彼女が結んでくれたのが、このリボンだ。
 初めてもらった手づくりのプレゼントだった。
 それも彼女と彼女のお母さんが一緒にキッチンに立って愛情をたっぷりに込めて作ってくれた。
 今思うと、それほどうまいものでもなかったのかもしれない。
 随分と甘くてクッキーという割りにガリガリに硬くて。
 でも幸太郎はそのクッキーに心の底から感動したのだ。
 まっすぐに家に帰る気にならず、公園の築山の上でクッキーを取り出しては大事に大事にちびりちび
りと食べて一人喜びを堪能し、そして辺りが薄暗くなり始めた頃に家路についたのだ。
 そして子どもらしい優しさで、一つの名案を思いついたのだ。
 こんなにおいしいクッキーなら、お母さんにも分けてあげようと。
「はん。止めとけばよかったんだよな。俺に愛情なんてないことは、薄々分かっていたのに」
 幸太郎は小さくつぶやくと、スタンドの電気を消した。
 闇の中で何かを探すように目をあけて天井を見つめる。
「小学生にそれを受け入れろというのが、酷かもしれないけどな」
 頭の下に腕を差し入れたところで、隣りに寝ていたさゆりが人肌を感じてか、ころころと転がってく
ると幸太郎の肩の辺りに顔を寄せて眠り始める。
 なんとはなしに、幸太郎も人肌が恋しい気分になってさゆりを抱きしめると、目を閉じた。
 人肌の温かさと、女の子の柔らかな甘いにおいが鼻をかすめる。
「………」
 幸太郎は心を過ぎった泣きたいような気持ちを誤魔化すように身じろぎすると、さゆりを胸に抱いて
眠りについた。


「お母さん?」
 きちんと玄関の明かりは灯され、豪華に飾り付けられたカサブランカの花が黄色い光を受けて輝いて
いた。
 いつもは帰りを迎えてくれるお手伝いさんの姿もなく、家の中はシーンと静まり返っていた。
 夕食時だというのにキッチンも物音ひとつなく、ダイニングは人気がなく薄暗い。
「お母さん?」
 幸太郎は母を呼んでダイニングに足を踏み入れた。
 ダイニングのテーブルの上には何かを食べた後がそのままに残されていた。
 すでに乾き始めていたチーズを口に入れ、テーブルに残されていたワイングラスを見つめる。
 一つには真っ赤な口紅の後が残るワイングラスで、もう一つには口紅のあとはない。
 お客さんでもあったのかな?
 幸太郎はダイニングを出ると、自分の部屋へと歩いていった。
 井上家の無駄にでかい家は、夜ともなると閑散としていて、昔泊まりに来た友達がお化け屋敷みたい
だと言ったぐらいだった。
 空き部屋があちこちにあり、一回ぐらい案内されただけでは、迷子になること必至だった。
 だから、幸太郎が捜していた母をこれほど早く見つけられてのは奇跡だった。
 二階への階段を上っていた途中で、耳についた物音があったのだ。
 ギシギシと揺れるベットの音と、合間に微かに聞こえる甲高い女の声。
 空き部屋の一つから漏れるその音に、幸太郎は階段を下りると部屋の前まで行った。
 ドアの隙間から僅かに明かりが漏れ、さっきよりもはっきりとした人の声が聞こえる。
 二人の人間の声だった。
 荒い男の息遣いと、息も絶え絶えの苦しげな母の声。
 お母さん?
 誰かに襲われているの?
 一瞬過ぎった考えは、だが本能的にこれが母の秘めごとであることを感知して否定された。
 胸の高鳴りに心臓が口から飛び出しそうになりながら、幸太郎はそっと部屋の中をのぞきこんだ。
 そして一瞬目に入ったものに後退りし、廊下に尻餅をついた。
 全裸の母が、見知らぬ男ともつれ合っていた。
 幸太郎は叫びだしそうな口を押さえて自分の部屋へと走っていった。
 そして部屋に飛び込むと、トイレに駆け込んで胃の中のものを全て吐き出した。
 なんなんだよ、あれは。
 あれが俺の母さんか? あんな、あんな、動物みたいに這いつくばってうめいているのが………。
 幸太郎は手にしていたプレゼントの包みを抱きしめると、声を殺して泣いた。
 彼女の母親が「また来てね」と振ってくれた手を思い出す。
 大事な娘の肩に置かれていたあの手と、卑猥に口紅のあとを残すシャンパングラスをつまむ手が、同
じ母親という存在の持つものだとは思えなかった。
「あんなの、俺の母親じゃない。あれは、あれは…………」
 

「悪魔だ」
 悪夢で目覚めた幸太郎は、あのときに口にできなかった言葉をつぶやき、ため息をついた。
 窓の外はすでに白み始めていた。
 腕枕していた左手が痺れているのに気づき、さゆりの頭の下から腕を引き抜く。
 いびきはかくが、意外と寝相がいいらしいさゆりは、しっかりと幸太郎のシャツの肩口にヨダレの痕
を作ってくれていた。
「幸せそうな顔しやがって」
 子どもの寝顔そのもので口を開けて寝ているさゆりに、ふといたずら心を起して、その鼻とつまんで
やる。
 しばらくは静かだったが、すぐにフガフガしだしたさゆりに笑い声を漏らす。
 指を外してやると、苦しかったのか、さゆりがガバっと起き上がり、あわや幸太郎の頭と正面衝突し
そうになる。
「うわ! 巨大タコが顔に吸い付いてきて息ができなかった………」
 ボサボサの頭のままにつぶやいたさゆりが、ハーハーと息をつく。
 それから次第に自分の置かれている状況が通常と異なることに気づいたのか、目だけを巡らせて部屋
の中を見回している。
 そして寝乱れた格好の幸太郎と目が合い、エヘっと取ってつけたような笑みを見せる。
 それから慌てた様子でベットの中の自分の体を見下ろし、ひとまず服を着ていることを確認してホッ
と息をつく。
「え〜っと、ここは? えらくキレイなところだけど、もしかしてホテル?」
 確かに幸太郎の部屋はホテルの一室に見えないこともない。バストイレも備えられているし、ばかデ
カイベットの向こうのレースのカーテンの向こうには、英国ガーデン?と思わせるだけの広大な庭園が
広がっている。
「いや、俺んち」
「え? 幸太郎ちゃんち?」
 ベットから飛び上がったさゆりが、肩にずり落ちていたブラジャーの紐を慌てて直し、立ち上がる。
「あの、あの、昨日の夜のことは、さゆり、何にも覚えてないんだけど、もしかして」
 服も着てたし、幸太郎も昨日と同じ格好をしているところを見ると、きっと大丈夫なんだろうけどと
思い巡らしているのがバレバレな顔でさゆりが幸太郎を見上げる。
「覚えてないんだ。最高の夜だったのに」
 勿体つけて答えると、さゆりの目がこれ以上ないほどに見開かれる。
「それって」
「………ベットに先に寝転がって大胆だったよね。一晩中腕枕してあげたのにな」
 さゆりの顔色がおもしろいように変化していく。
 人間カメレオン。
 だがこれ以上いじめると心臓に悪いだろう。
「嘘だよ。家どこって聞いたのに、わけわかんないこと言ってて酔いつぶれてたから、仕方なく家に連
れてきました。何もしてないよ。本当にベットに大胆にも大の字になって寝てたけど」
「………よかった」
 ホッと胸を撫で下ろしたさゆりだったが、次の瞬間にはからかわれたことに気づいて、怒って殴りか
かってくる。
「よくも朝っぱらから心臓バクバクさせてくれたな! さゆりの寿命が縮んでたらどうしてくれるん
だ!!」
「いいじゃん。一晩争奪戦激しい俺の腕の中でぬくぬくとヨダレたらしながら寝られたんだから」
 シャツのヨダレ染みを示せば、さゆりが悲鳴を上げて幸太郎に掴みかかる。
「ヤダヤダ。恥ずかしいから脱いでよ」
 ベットの上に押し倒された幸太郎は、笑い声を上げながらさゆりに上半身裸に剥かれていく。
「ああ〜、さゆりちゃんに襲われる〜〜」
 わざとらしく胸を手で覆って叫べば、馬乗りになったさゆりが頬を赤く染めながらも、フンと鼻を鳴
らす。
「襲って欲しいか?」
 幸太郎の挑発に乗ってさゆりが幸太郎に襲い掛かる。
 ただし、色気の欠片もない大怪獣さゆりの顔で。
 幸太郎の両の頬と掴んださゆりが、ぎゅっと引っ張る。
「ひらいひらい、ひゃめれ」
「んん? なんだって? ちゃんと喋ってくれないと分からないもんね」
 いつもの澄ました色男の幸太郎が、涙目になって自分の下に転がっている。
 さゆりはふふふと笑うと、そっと幸太郎の額にキスした。
 そしてつまんでいた頬を離すと言った。
「その顔の方が幸太郎ちゃん、いい味してる」
 幸太郎はベットの上で起き上がると、赤くなっているだろう頬を抑えてさゆりを睨む。そして意地悪
に笑うと、言い返す。
「さゆりちゃんも、すっぴんのがずっとかわいい」
 さゆりはその一言で、悲鳴を上げて洗面所に駆け込むのであった。



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