「実験 2 女の相談 蜜の味」2




 顔の半分以上を帽子で隠したさゆりを助手席にのせ、幸太郎がさゆりを家まで送り届ける最中であっ
た。
「ここ直進でいいの?」
 幸太郎の一言で、顎をあげたさゆりが帽子の隙間から前を確認してうなずく。
「そんな無理な格好して見なくていいように、帽子取りなよ」
「ヤダ。スッピンだもん」
「いまさらだって。さゆりちゃんの化粧とってやったの俺だし」
 その一言に、帽子の下で見えないが、ゲッと目を剥くさゆりがいる。
「なに? お礼もなし? 化粧したまま寝たら肌年齢は十歳年とっちゃうんでしょ?」
「なしてそんな知識まで持ってるの?」
「えー、女の子のことは一通り?」
 そう言ってさゆりを見れば、呆れながらも笑っている。
「そんなことばっか言ってるから、一発屋なんて言われちゃうんだぞ。でも本当に、幸太郎ちゃんって
思ってた人と違った」
 さゆりはおずおずと帽子を取ると、そばかすの浮く顔で幸太郎を恥ずかしげに見る。
 その顔にオッと驚いて見せながらも、幸太郎は笑顔を向ける。
「本当の俺ってどんなだった?」
「優しいジェントルマンだった」
「ジェントルマン?」
「優しくて、気遣いに溢れてて。それに、そこらで硬派気取ってるやつらよりも、もしかしたらストイ
ック?」
 予想外だった言葉に、幸太郎は前を見たまま口元に笑みを浮かべるだけで返す言葉が見つからなかっ
た。
 さゆりはどこからストイックなどという感想をもったのだろう。
 ボーとしているだけに見えたのに。
「あんな大きなお屋敷に住んでるんだから、お手伝いさんとかいるんでしょ?」
 さゆりは幸太郎と同じように前を向くと、言葉を続けた。
 サングラスの隙間からさゆりの横顔を盗みみれば、初めて見る真面目な横顔がそこにあった。
 化粧をはぎ取った、本当のさゆりの顔で。
「それなのに、幸太郎ちゃんが自分でわたしの分まで朝飯を作ってくれた。すっごく嬉しかった」
 朝飯を作ってやったとは言っても、ただトーストを焼き、バターを塗り、卵をスクランブルエッグに
してウインナーとカップスープをつけてやっただけだ。
「さゆりちゃんだって、手伝ってサラダ作ってくれたじゃん」
「うん。ちょっと新婚さんの朝の風景みたいで楽しかった」
 いつもの陽気なさゆりの声で言って、えへへと笑う。
「でもね、ちょっと思ったんだ。幸太郎ちゃん、慣れすぎてる。大学生の男の子で、しかもあんなに大
金持ちのおぼっちゃんなのに、こうして毎朝、自分で用意して食べる生活に慣れてるんじゃないかなっ
て」
 幸太郎の口元で笑みが凍る。
 サングラスで隠れた目は、笑ってはいなかった。
 意外な観察眼を発揮して自分の内部を覗かれたことに、動揺の波が体の中を走りぬける。
 子どもの頃から、朝が一番憂鬱なときであった。
 眠いからでも、学校へ行くのが面倒だからでもない。
 朝の静まり返った屋敷の中で、一人ぼっちの愛されない子どもであることを強く感じさせられる時間
であったからだ。
 そこに母親の朝食を用意する音も、気配も、温度も、声も、なにもない。
 静まり返った家の中は冷え切り、自分ではない何かに関心をむける母の、夜の残骸を目の当たりにさ
せられる。
 テーブルの上に転がる口紅の痕も生々しいシャンパングラス。
 さゆりには一言でも母親のことを口にしてほしくなかった。
 その気配を感じ取ったのか、さゆりはそれ以上は言葉を重ねずに車のシートに身を沈める。
 硬くなった車内の空気に、幸太郎はなすすべもなくハンドルを握る。
 さゆりも何も言わず、窓の外を眺める。
 だが不意にさゆりが体を起すと、幸太郎の腕をとって前方を指差した。
「ほら、あれがわたしの友達のポチ」
 今までの空気などなんのその、陽気に言ったさゆりの言葉に従って目を走らせれば、住宅街の一角の
朝の庭の中で、薄汚れた白い犬がいた。
 歩き回る姿もよぼよぼと頼りなく、自分の座る足場を整えているのか、くるくると回っている。
 さゆりが車の窓をあけ、「ポチー」と叫ぶ。
 その声に振り向いたポチの顔に、幸太郎は思わず笑いを漏らしそうになった。
 情けなく垂れ下がった目には目やにがいっぱいで、前肢で顔をこすっている。
 そしてなぜかその目の上には眉毛が書かれている。
「なんで眉毛が」
「あれ、さゆりが書いてあげた」
 いたずらを自慢げに言ったさゆりがポチにバイバイと手を振る。
「あ、そこ右」
 さゆりの指示で車を路地に入れた幸太郎は、目の前に見えてきた光景に、目を見開いて再び笑いが口
元に浮かび上がってくるのを感じた。
 赤に白の水玉のキノコ形の屋根がついたエントランスをもったアパートがそこにはあった。しかもち
ゃんとエントランスに上がる階段は三段。
 さゆりの家の説明は、酔ってはいたが正確であったらしい。
 さゆりをアパートの前で下ろす。
 車をUターンさせてさゆりの前で車を止め、窓を下ろせば、さゆりが朝帰りの娘のようなはにかんだ
笑みで幸太郎を見下ろす。
「また、朝飯食べに行ってあげてもいいよ」
「朝飯だけ?」
「そう。夜のデラックスセットはなしで」
 さゆりはそう言って車内の幸太郎にキスすると、踵を返す。
「さゆりいつもは朝飯食べないんだ。でも、幸太郎ちゃんと一緒に食べると、すっごくおいしかった。
楽しかったし」
 毒キノコの屋根の下で微笑むさゆりに、幸太郎も頷く。
「いつでもおいで。レパートリー増やしておくから」
「うん」
 幸太郎は手を振って車を発進させる。
 そうしてしばらく車を走らせながら、笑顔でいる自分に気づいてびっくりして目を見開いた。
 陰鬱で大嫌いな朝に笑顔を浮かべられるなんて、さゆりちゃん、君のパワーはすごいよ。
 思わず苦笑が浮び、それから本物の笑みに変わる。
 全く女を感じない女と迎えた朝が、これほど幸せに満ちているとは。
 喜ぶべきか、悲しむべきか。
 幸太郎はアクセルを踏みこむと、朝の街の中を走り抜けていった。

 井上幸太郎ノデータ1

 サユリ ―― 常ニオープンデ包ミ隠シノナイ、アカルイ女

 解析結果 ―― 井上幸太郎ノ好ム人間ハ

 心ヲ隠サナイ、正直ナ人間




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