「実験 2 女の相談 蜜の味」2





 もう完全に酔ってグデングデンになった体を、カウンターのテーブルの上に横たえながら、それでも
さゆりは四分の一ほどの瞼の隙間から幸太郎を見上げていた。
「もう、絶対に、さゆりはスッピンじゃあ、全然見られないほどのブスなんだって。だから、アキラも
スッピンのわたし見て、前ほど好きじゃなくなったから、浮気ばっかすんだよ」
 そう言いつつ、お冷の水につっこんで浸した指先で瞼を擦ると、重たげな付けまつ毛を外していく。
「さゆりちゃん、ここでそれ取ってどうするの?」
「え〜? だって目開けるのに、邪魔なんだもん。瞼鍛えるためのダンベルかって位に重い」
 自分で言ったその言葉がおもしろかったのか、うへへへへとさゆりが笑う。
 そしてグラスに僅かに残っていたカシスウーロンを飲み下す。
 さゆりはそうしてグラスで何かを飲むと、必ずグラスについた口紅を親指で拭う。 
 その動きを、幸太郎はじっと見つめていた。
 さゆりの口紅は、かなり薄い色のピンクベージュ。
 幸太郎の嫌悪する真っ赤なルージュとはかけ離れていたが、それでも目の前にいる女の子がグラス
についた口紅を拭ってくれる仕草が、まるで自分のためであるかのようで幸太郎は嬉しかった。
「さゆりちゃん、もう帰ろうか?」
「ん? 帰る? うん。けぇるか!」
 管をまいた親父並に言って、幸太郎に赤い顔で笑いかける。
 会計を済ませて席に戻れば、すっかり寝入ってしまったさゆりが、空いた料理の小鉢などを押しやっ
て、ヨダレをたらして潰れていた。
「あ〜あ、こんなになっちゃって」
 バカな女だ。
 幸太郎はそう思ってその体を抱き起こす。
 だが自分の首に両手を回させ、抱き上げた瞬間にさゆりが耳元で言った言葉に、おもわず笑みが浮
かべてしまうのであった。
「幸太郎ちゃん………あんがとーー。わらわは腹一杯で、吐きそうじゃ」
 むにゃむにゃと後に続く言葉は、人に理解できる形になる前に、口の中で消えていく。
「……本当に吐くなよな」
 だがそう言って見た、肩に寄りかかったあどけない寝顔に、その頭をポンポンと撫でた。
 女の匂いを発散させて、心には謎のベールをかけているような冷たい女は大嫌いだった。
 その点、さゆりはその正反対にいる存在だった。
 開けっぴろげで、漂う雰囲気も幼い女の子の持つ母性の空気だ。生まれたばかりの子犬を抱いて、お
母さんの気分になっている女の子の空気感。
 うるさいし、ちょっとお馬鹿な気もしないでもないが、一緒にいて不快なタイプではなかった。
「さゆりちゃん、家どこ?」
 タクシーを拾いながら尋ねてみるが、返ってくる返事は意味をなさない。
「うえーーーっと、それはポチの巣から100メートル先を右に曲がった、毒キノコの模様の三段上で
す!」
「はぁ? ポチの巣ってどこよ………」
「ポチはぁ、毎日目ヤニと格闘する、戦う老犬戦隊、白レンジャーなのであります」
 体に力が入らないほどにグデングデンのわりに、頭を上げて敬礼なんぞはしてみせる。
「はぁ、白レンジャーですか………」
 いったいさゆりの頭の中では、どんな世界が繰り広げられているのだろう。
 きっとヘルメットを被った白レンジャーこと、目やにだらけの老犬ポチを従えて、悪の怪物と戦って
いるのだろう。その二人が現場に駆けつけるために使っているのが、毒キノコ形、赤い屋根に白い水玉
の模様のフードがついた、サイドカー付き原付バイク。
 毒キノコとおそろいのスカーフを巻いたさゆりが、サイドカーのポチと一緒に空に向って指さし、
「悪を憎む正義の味方、参上」と叫ぶ姿が脳裏に浮ぶ。
 思わず一人でクククと笑った幸太郎は、目の前に止まったタクシーにさゆりと一緒に乗り込む。
「俺んち連れてくけど、大丈夫?」
「あー、OKです。OKです。なんならHもOKです!」
 意味が分かっていっているのか分からない半眼で言って、次の瞬間には眠りに落ちていく。
 タクシーの運転手と目があった幸太郎が、その揶揄の目に笑ってみせる。
「羨ましいね、お若いの」
「………どうも」
 好色な運転手の視線の先で広げられていたさゆりの膝を閉じてやり、幸太郎はなんとなくため息を漏
らすのであった。


 脱力した女の体ほど重たいものはない。
 タクシーからなんとか下ろし、肩を貸して歩かせようとするのだが、ほとんど釣る下がっているだけ
で歩こうとしないさゆりに、終いには担ぎ上げて玄関へのアプローチの階段を上がっていく。
 そしてゲストルームを用意するのも面倒で、自分の部屋のベットに寝かせると、自分も脱力してベッ
トの上に転がった。
 隣で無防備に眠るさゆりの横顔を見てみる。
 かわいいことはかわいいのだが、その寝ている全体像としては、酔っ払い親父の典型を見ているよう
であった。
 大の字に広げた手足に、口を開けたマヌケな寝顔。
 起き上がった幸太郎は、白いパンティー丸出しのさゆりに見かね、ベットカバーで腹までは覆ってや
る。
 あまりに無防備すぎても、襲う気にならん。
 幸太郎は着ていたジャケットを脱いでイスに掛けると、疲れた体をイスに沈めた。
 時間は午前1時を回ろうという時刻。
 疲れもあるのだが、同時にいつもは感じることない満たされた気持ちがあった。
 そう。子どものころに気の合う親友と一日中遊びまわったあとの達成感だ。
「………豪快な男友だち……」
 そんな幸太郎のつぶやきを知ってか知らずか、ガーと鼻を鳴らしたさゆりが寝返りを打つ。
「確かに、女には見えないな」
 幸太郎はよっこらしょと声を掛けて立ち上がると、寝ているさゆりの皺になりそうなジャケットだけ
は脱がせ、ハンガーに掛ける。
 そして部屋を出て母親の部屋の近くの洗面台からクレンジングと洗顔石鹸を拝借すると、お湯を張っ
た洗面器を持って部屋に戻った。
「おい、顔洗えよ。メイクしたまんま寝ると肌に悪いんだろ」
 一応さゆりの肩を揺すってみるが、起きる気配はない。
 仕方ないと、幸太郎がさゆりの頭の下にバスタオルを敷き、持ってきた海綿で顔を洗ってやる。
 眠っていても、その気持ちのよさは分かるのか、うっとりとした顔で寝るさゆりにおもわず笑って
しまう。
「そうか、気持ちいいか」
 気分は飼っているペットを風呂に入れてやっている、幸福に満ちた時間だ。
 これまた拝借してきた母親の化粧水と乳液、なにやら高そうなゲル状の美容クリームを塗ってやれば、
てらてらと光った顔ができあがる。
 その顔にブっと噴出した幸太郎は、持ち出した化粧品や洗面器を元に戻すために洗面所に戻った。
 肩に使ったタオルをかけ、まるでカリスマ美容師でもなった気分で寝静まった屋敷の中を歩いていく。
 だが、その幸せに満ちていた気分は、洗面所に立っていた母親の姿で霧散する。
 思わず無言のままに立ち止まった幸太郎に、目を合わせただけで凍りつきそうな冷たい目が向けられ
る。
 そして、無言のままに手を伸ばされ、やっとその意味を悟った幸太郎が、借り出していた化粧品をそ
の手に返した。
「一緒に飲んでた女の子が酔いつぶれたから連れてきたんだけど」
 だが説明を始めた幸太郎に、母親は関心がないと首を振る。
「おまえはおまえで勝手にやればいい。下手に妊娠なんてさせない程度に遊ぶのなら、文句は言わない」
 シルクのガウンを身に纏っている母親は、母親というよりは、女としてそこにいた。
 歳はそこそこいっているのに、息子の目から見ても、衰えぬ女の妖艶な色香を放っていた。
 ガウンの下は裸なのだろう。
 胸には乳首の形が浮かび上がり、くびれたウエストからヒップまでのラインがこれでもかというほど
にその形を浮き上がらせていた。
 今日も父親以外の男との情事を楽しんだ後なのだろう。
「あなたに、ぼくを責めることができないのはよく分かっています」
 言い含めた嫌味に、母親は寝化粧を直しながら無表情のままに振り返って幸太郎を見る。
 だが、冷えた視線が幸太郎の肌に刺さっただけで、母親の心のうちは伝わっては来なかった。
 真っ赤なルージュをひいた母親の横顔が幸太郎に向けられる。
「わたしに母親なんて期待しないでほしいわ。わたしは、ただあなたの父親の遺伝子をこの世に残す役
目のために買われたのだもの。その役目を果たしたら自由にしていいというのが、あなたの父親との契
約なの。そして」
 真っ赤なルージュをひきなおした母親が、幸太郎を見て今日はじめての笑みを見せる。
「あの男にそっくりなおまえなど、大嫌いなのよ」
 極上の笑みをのせていわれた言葉に、幸太郎が苦笑を浮かべる。
「それはそれは。ぼくは容姿は父親譲りなのは認めますよ。でも、この好色な性格はあなたの遺伝だと
思っているんですが?」
 嘲りをのせて言った言葉に、母親が皮肉げな笑みを口の端に見せる。
「あんたはこの家ではたった一人の息子だけど、世間には何人の井上家の後継者候補がいるのか考えて
御覧なさい。遊び歩いているのは勝手だけど、自動的に井上家の財産が継承できると思ってると甘いわ
よ。現にあの男はこの家ではないどこかに居着いているのだから。どこかで後継者にしたい子どもでも
育てているかもしれないわね」
 母親が自分の息子に向けるとは思えない辛らつな揶揄を残し、去っていく。
 幸太郎はただ何もできずに立ち尽くしている自分の姿に、怒りよりも失望しか感じなかった。
 あんな女に何の期待をして声を掛けてしまったのか。無視すればそれで終ることだったはずなのに。
 幸太郎は洗面器の中のすっかり冷めたお湯を捨てると、洗面台に両手をつき、うな垂れた。ため息が
出る。
 子どもの頃、何度あの凍れる視線に涙を流したことだろう。
 そして嫌悪を抱くほどになったのだろう。
 それはきっと、まだ自分が小学校の低学年だった頃の出来事であったはずだ。
 幸太郎が赤いルージュを憎悪するようになる出来事だった。





back / top / next
inserted by FC2 system