「 実験 1  ストレートパンチをストレートに受けてみる」



《時人編 T》

 
 
 
 昨日の大嫌いなパーティーへの参加と徹夜がたたって、時人は泥のように疲れまくっていた。
 クシャクシャの白衣のままでカバンを斜めに掛け、古いゆえにお化け屋敷の扉のような音を立てる家
のドアを開けた。
 黙ったままで靴を脱ぎ、自分の部屋へ行こうとしたときに、いつものキンキン声が降り注ぐ。
「トキート、ちゃんと帰宅の挨拶くらいしなさい!」
 真っ赤な口紅と、皺のよった口元ゆえにファンデーションが深い溝を作っている顔がトレードマーク
だと時人が思っている、中国人のおばちゃん、ファンランが食堂から顔を出す。
 疲れた頭に歯医者のドリルが立てるような高い声は、耳を覆って逃げ出したくなるくらい不快だった
が、とりあえず彼女がいないと自分の生活全般が破綻することはわかっていたので、視線を険しくする
だけにとどめる。
「ファンラン、ぼくは疲れきっているので、構わないでください」
「疲れていたって、ただ今帰りましたくらいは言えるでしょう。それも言えないトキトは、猿以下ね」
 猿以下呼ばわりかよ。
 こめかみに血管が浮き上がりそうになるが、余計なエネルギー消費は懸命でないと、いきり立つ神経
を宥める。
「……ただいま、ファンラン」
「おかえり、トキト。疲れたときは早くお風呂に入って、ご飯食べて寝るに限るよ」
「今日の夕飯のメニューは?」
干烧明虾蛋的汤葱的粥
「エビチリ、卵スープにネギのお粥ね」
 すかさず日本語訳してみせた時人に、ファンランがおもしろくなさそうに笑顔を消す。
我能说五国语言。顺便我不是猴子」(ぼくは五ヶ国語話せるの。ちなみに、ぼくは猿じゃない)
 時人はフンと鼻を鳴らして二階への階段を上りながら、振り返ってファンランを見た。
「先に風呂に入るから」
「自由」(ご自由に)
 
 すっかり自分の体臭にまみれてしまった服を脱ぎ捨て、熱いお湯に浸かる。
 体の芯に向って進む熱に、思わずため息が出てしまう。
 研究や実験が佳境に入ると、どうしても風呂に入ることも食事をすることも、面倒で仕方がなくなっ
てしまう。
 大体において日常的な生活能力を問われれば、ゼロに等しいとファンランは即座に言うことだろう。
 この家は時人の生家ではない。大体において、彼に生家というものは存在しない。
 あえて言えば、この家の近所にある神社の境内下が、彼が始めて発見された場所だというだけだ。
 赤ん坊のときに捨てられていたのが、時人だった。
 その捨て子が高いIQを示したとあって、この家の持ち主の大学教授に拾われることになるのだ。
 だがこの教授、専攻は仏文学であり、もちろんフランス語はすぐさま時人に教えたのだが、その他は
時人の興味を持つものに任せて教師を雇い、当の本人は一年の半分以上を海外で過ごすという人間。
 そして母親がわりと見つけてきた世話人が、なぜか中国人のお婆さんだった。
 その初代世話人が数ヶ月前に腰を痛め入院してしまったために、紹介されて後釜に入ったのが、ファ
ンランだった。
 料理の腕はいいし、こまごまと気が利くので世話人としては文句なしなのだが、問題はその細かすぎ
る干渉だった。
 今もやっと神経がお湯の温かさでほぐれてきたと思いきや、風呂の磨り硝子の向こうでファンランが
叫ぶ。
「トキト、この服臭すぎるね。もっとマメに着替えしなさい。汚い男、もてないよ」
「………」
 風呂の中でも安らげないのかと、ファンランの声から逃れるためにお湯の中に潜る。
 お湯の中の独特の音の揺らぎの中で、時人は目を閉じた。
 ああ、お湯に潜ると頭洗うとき楽だな。これからはお湯に潜ってから頭洗おう。
 そういえば、愛の時限爆弾から幸太郎のデーターが送られて来てるかもしれないな。ふふふ。
 そう思うとどんよりと暗くなっていた気持ちが高揚していく。
 だが、やっぱりそんな時人に横槍を入れるのが、ファンランだった。
「トキト、お湯でのぼせたか?!」
 ファンランが時人の髪を掴んで力任せにお湯から引き上げる。
「いたたたた! 痛いって。それに何、風呂にまで入ってきてるんだよ!」
 慌てて立ち上がった時人に、ファンランが「あら、元気ね」と言って笑う。
 そして不意に視線を下に落とすと、恥ずかしげもなく指さして笑う。
「那个也精神」(それも元気ね)
 
 がちゃがちゃと無理やり音を立ててお粥を口に掻きこむ時人に、洗濯機を回しながらファンランが言
う。
「トキト、そんなに怒ることないでしょう。トキトのなかなか立派よ。恥ずかしくない」
 途端に目の合ったファンランに、光り出しそうなほどつりあがった時人の視線が突き刺さる。
「おお、トキト怖い」
 わざとらしく身震いして見せたファンランが、洗濯物をカゴに入れて外へと出て行く。
 すでに空は夕焼け色に変わっていたが、このカラリとした天気のぶんだと朝までには乾きそうだ。
 ファンランは洗濯物の中から白く洗い上がった白衣を取上げ、皺を伸ばしてパンパンと払う。
 とその白衣のポケットから転げ落ちるものがあった。
「あら、かわいらしいキーホルダー」
 ファンランはそれを手に取ると、無くしたと時人に怒られては堪らないと、大事にポケットにしまっ
た。
 そして洗濯を干し終わって戻ると、食事を終えて食器を流しに下げようとしている時人を見た。
 まだ執念深く裸を見られたことを怒っているらしい時人に、声を掛けるのは躊躇われた。
「トキト、疲れとれるお茶淹れるよ」
 ご機嫌を取って言ってみれば、素直に時人が頷く。
「じゃあ、お茶取って来るから。特別なお茶ね」
 ファンランはそう言って食堂のイスに座っている時人を確認して二階の時人の部屋へと急いだ。
 部屋にキーホルダーを置いておけば気づくだろう。
 ファンランはキーホルダー、もとい愛の時限爆弾を時人の畳んだ洗濯物の上に置いた。
「さあ、今度はお茶淹れなきゃね」
 ファンランがいそいそと部屋を出て、ドアを閉める。
 その振動で、洗濯物の上の愛の時限爆弾が転がった。
 そしてうまいことキャッチの部分がシャツの脇から出ていた、タグに引っかかったのであった。
 
「まっずいお茶」
 あまりに苦いお茶に口を渋々にしながら二階の部屋に戻った時人は、ベットの上の洗濯物を枕の脇
に追いやると、ベットの上でパソコンを起動した。
「幸太郎のデーターは」
 眠くて下りてきてしまう瞼の下で、それでもワクワクした気持ちでソフトを起動する。
 だが、愛の時限爆弾はすでに起動されているはずなのに、データーは何一つ入っていなかった。
「ああ? どういうことだよ!」
 期待していた分、がっくりと肩が落ちる。
「ああ、もう明日確認だ!」
 おもしろくないとパソコンのラップトップをバチンと閉めた時人は、そのままベットに身を横たえた。
 それだけで自然と意識が遠のいていく。
 風呂上りのまだホカホカの体と、満たされた胃袋。そして疲れ切っていた体が合わされば、極上の睡
眠が約束されたも同然だ。
 もぞもぞと布団の中にもぐりこみ、時人はあっという間に眠りに落ちていった。
 スースーと平和な寝息が聞こえ始める。
 その頭上で、ピっと音を立てるものがあった。
 愛の時限爆弾。
 それがデーターの読み上げの活動を始めた合図だった。
 被験者、上条時人。
 カレガ不得意トスル人間ノデーターソノ一。ファンラン。
 ―― 分析開始
 
 
 
 
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