Chapter 5   ONLY WATER



 熱く熱く焼けた砂の上で、カオスはしゃがみ込んでいた。
 一心に砂の上の一点を見つめる。
 焼け焦げて一滴の水さけ搾り出せない砂にできたすり鉢上の小さな穴。
 その穴の中に落ちたアリが、必死にその穴から抜け出そうと、掻いては零れていく砂に足を取られな
がら足掻いていた。
 ズルズルとすべり落ちた穴の底から、何かの触角が現れる。
 蟻地獄。
 獲物を狙ってゆるりと顔を出した蟻地獄が、必死に逃げようと足掻く蟻へと、ゆっくり一歩ずつ近づ
いていく。
 決して逃れられないことを知っている強者の余裕と、逃げられないことを知っていながら、逃げずに
はいられない弱者の恐怖。
 蟻地獄の刃が蟻を捕らえ――。
「助けてやらないのか?」
 耳元でささやかれた声。
 それと同時に首筋を掠めた殺気に、カオスはナイフを構えて身を反転させた。
 砂の上に身を転がし、本能のままに身に迫った刃をナイフで弾く。
 カキーンという硬質な金属音とともに、ナイフの刃が砕かれる。
 その折れたナイフを目の前に構え直し、カオスは鋭い鉤爪を掲げて笑う男を見た。
「グアルグ」
 カオスが喉の奥から溢れる恐怖で吐き出すように、その名を囁く。
 その声に、男が眉を上げる。
「俺の名前を覚えていてくれたか。これは嬉しいねぇ。一度会っただけなのにな。お前の死神候補とし
て記憶してくれたか?」
 男が自分の鉤爪の鋭さを見せつけるように、赤い舌でその爪を舐める。
 顔に豹紋を輝かせ、太陽の光に限りなく細くなった瞳孔を持つ男、グアルグ。
 はっきりと顔に浮く豹紋は、猛々しく金色に輝き、獰猛な野生の香りを放つ。
 恐ろしさに震えながらも、その美しさに目を奪われる。
 後退りしそうになりながら、カオスはナイフを構えて足を引く。
 その足が違和感を覚えて傾く。
「あ〜あ、助けるどころか、即死攻撃?」
 グアルグの鉤爪がカオスの足元を指す。
 カオスがチラっと一瞬目線を足元に落とす。
 自分の足が、先ほどまで眺めていた蟻地獄を踏み潰していた。きっとカオスの靴の下で、蟻と蟻地獄
は圧死だ。
「虫なんてどうだっていいだろ!」
 明らかに力のないカオスをいたぶる時間を楽しむグアルグに、カオスは居たたまれなくなって反論す
る。
 その顔に、弱い犬の遠吠えを蔑む笑みが浮く。
「そうだな、利用価値のない虫なんて、いくら死んでもらっても構わない。ところで」
 グアルグが一歩前に出る。
 その一歩に、カオスが砕けそうな足取りでさらに一歩下がる。
 カオスの脳裏に先ほどまで見ていた蟻と蟻地獄の映像が甦る。
 怯える蟻を追い詰めて楽しむ蟻地獄。
 なんとか逃げ延びる方法を狂乱のうちの捜し求めるカオスと、それをいたぶるように見下ろすグアル
グ。
「おまえは虫以上の価値があるのか?」
 無価値なおまえなど、死んだところで誰の目にも止まりはしない。いくら死んでくれても構わない。
一匹の蟻に同じ。
 自分が踏み潰した蟻と同じ。
 カオスはグアルグの言葉に愕然とした瞬間だった。
 グアルグが目の前に鉤爪を突き出し突進してきた。
 反射的に上半身を反らし、バック転をうつ。
 だがその着地点で足払いを掛けられ、砂の上に転がされる。
 不自然な体勢で手を付き、軋んだ手首にうめき声が漏れる。
 だがそのうめき声を押し潰すように、胸の上にグアルグの足が乗る。
「ああ、まるで子猫ちゃんだな。ん?」
 グアルグの鋭い爪が、カオスの顎の下を摩る。
 冷たい感触が皮膚を裂き、次に痛みを引き起こす。熱い液体が顎から喉へと滴っていく。
「う……あ……ああ………」
 震えた声帯が、意味不明な音を喉から漏らす。
「こんな子猫ちゃんが、どうして  を守ろうとする? え? あいつはおまえに守られる必要なんて
ない。第一、お前が持っていても仕方がないだろう。あんな壊れたおもちゃ」
 聞き分けのない子どもを諭すように、グアルグが言葉を紡ぎ、わかるか? と眉を上げてみせる。
「そう、コレはもう壊れてるの」
 踏みつけられて、止まりそうになる呼吸に悶えるカオスの目の前に、片手で下げた人形をグアルグが
揺すってみせる。
 明らかに命がない脱力した手足が、グアルグの腕の動きに合わせて左右にぶらんぶらんと揺れる。
 掴まれた頭がおかしな形に変形し、溢れ出た脳と髄液を顔から垂らしていた。
 黒いザンバラ髪が血で束になり、半眼になった大きな茶色の瞳が光を消してカオスを見つめていた。
「マ……メ……」
 その顔に腹の底から恐怖を突きあがらせながら、カオスは胸を踏みつけるグアルグの足を掴む。
「マメ!!」
 グアルグの足を力の限りに押し上げ、眼前でゆれるまめの足に手を伸ばす。
「マメ! 嫌だ!! 死ぬな、死んじゃダメだ!!!!」


「マメ!!!」
 自分の叫び声で目を開けたカオスは、ムっと蒸し暑い薄暗い空間の中で目を覚ました。
 冷や汗にまみれた顔で辺りを見回せば、油と埃の匂いに満ちた車の解体工場の中であることを思い出
す。
 床の上で眠っていたカオスの胸の上で、マメが丸くなって眠っていた。
 いくら体が小さいとはいえ、人間として真っ当な体重があるマメが胸の上で全体重を乗せて眠ってい
るのだ。
「悪夢の原因はおまえかよ……」
 すぐに叩き落す気力も失せ、カオスは埃だらけの床の上で脱力した。
 そのカオスの耳に、平和なプープーというマメの寝息が聞こえてくる。
「お気楽なことで」
 ため息とともに呟けば、自分の言葉に苦笑が漏れる。
 カオスの声にピースも体を起こし、顔の側までくると汗に濡れたカオスの顔を舐める。
 そのピースの頭を撫でやったカオスは、顎の下のマメの頭もついでに撫でてやる。
「あのおっかないリザルトのおじさんには、もう会いたくないよ。でも」
 また会うような予感がする。
 それもマメが側にいることが原因で。
「嫌な予感ほど当るからな」
 あどけない寝顔のマメを抱きしめながら、カオスがつぶやく。
「おまえは、……結構かわいいし、俺は好きだよ。……でも、俺の上で寝ることは許さん」
 ケっと笑って、胸の上からマメを叩き落す。
 ゴトンと音を立てて床に落ちたマメが、寝ぼけた顔で頭を上げる。
「痛い……」
 ほとんど閉じた眼のままに、ぶつけた頭を摩るマメ。
 そのマメの目がカオスに向く。
「人の上で寝るとは不届きものめ!」
 あぐらをかいてマメを指さしたカオスだったが、次の瞬間には目の入った光景に蒼ざめ、さらに次の
瞬間にはぶん殴られた頬を両手で覆って床に転がっていた。
 マメがまだ眠った顔のまま、拳を握って立っていた。
「マ、マメ、俺だ。カオスだ。……」
 慌てて叫ぶカオスに、マメがさらに拳を繰り出すべく身構えた。
「や、やめて、やめろーーー!!」
 ギュッと目を瞑り、頭を抱えたカオスだったが、前方でしたドサリという音に恐る恐る目をあける。
 床の上で、涎を垂らしながら眠るマメが目に入る。
 カオスは脱力して床に尻餅をつく。
「そ、そ、そうだった。こいつ強いんだったよ……」
 涙目で呟くカオスが、夢の中のグアルグの言葉を思い出し、壊れた笑いを漏らす。
「本当に、壊れてんじゃん、おまえ。命の恩人殴るなんて」
 クリーンヒットでジンジンと痛む頬を抱えながら、カオスは己の不運を心の底から嘆くのであった。


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