Chapter 5   ONLY WATER


 次から次へと湧き上がっては流れ落ちていく汗が、鼻先から焼けた砂の上へと落ちていく。
 水の入った瓶を傾ける。
 瓶底で太陽光の煌めきを受けて輝くわずかばかりの水に、唾を飲んで目の前から下げる。
「フライパンの上で焼かれる牛の気分だ」
 カオスは遠く陽炎がゆれる砂の果てを見つめながら呟いた。
 そして後ろを付いてくる一人と一匹を振り返る。
 マメは文句は一つも言わないが、すでにへばった足取りでフラフラと歩いてくる。しかもこう暑いの
にどこか青い顔をしている。
 立ち止まったカオスに気づかずに足を進め、ドンと体当たりしたところで虚ろな目を上げる。
「マメ、水を飲め」
 マメの手にしている緑色の瓶には、まだ半分以上の水が残っている。
 だが頭を横に振ってなかなか飲もうとしない。
「水の節約たぁ、なかなか賢い! とほめてやりたいところだが、我慢しすぎて倒れられたら、それは
それで俺のお荷物になることを自覚しやがれ!」
 カオスは自分のなけなしの水を口に含むと、呆然としたマメに口移して水を飲ませる。鼻をつまんで
顎を掴んで上向かせ、強引に喉に水を流し込む。
 ゲホっと咽ながらも、たいした抵抗は見せずにマメはカオスにされるがままだった。
 口から零れて首に滴った水を手で拭いながら、カオスが顔を顰める。
「ふん。色気のねえキスじゃねえか。女は女らしいけど、小汚いガキに過ぎないしな」
 フラフラと倒れ掛かるマメを胸の中に抱きとめながら、カオスが半ば自棄のようにつぶやく。
「ほんと、俺って運が悪いよな。小汚くて色気もないけど、女らしいってだけで飯食わせてやって、水
も親切に分けてやって、その上、こう暑いっていうのに砂漠に、捨てちゃってもいいのに担いでやって
さ」
 カオスはマメの手の水を少し手の平に取ると、同じく舌を出してハーハー言っているピースの口元に
持って行ってやる。
 その水を暑い舌で舐め取ったピースが嬉しそうに尻尾を振る。
 裂いて作った即席の包帯を足に巻いたピースの姿は痛々しいが、忠実にカオスのあとに従ってきてく
れる。
「俺たちバカかな? こんな暑い日中に砂漠を横断してんだからな。どっかに井戸か日陰ないかね?」
 最後の気力のようにピースに笑いかけたカオスは、肩にマメを背負う。わき腹を走った痛みに「ウッ」
とうめいたが、腹にきつく巻いた布を頼りに立ち上がる。砂に足を埋もれさせながら、それでも前へ前
へと歩き続ける。
『砂漠の東に車の墓場があってな、そこには水道もあって休憩所としてはうってつけ。だけど毒蛇や毒
蜘蛛の宝庫でもあるから気をつけないといけないんだよ』
 そう言っていた行商人の親父がいた記憶が、今回の逃避行の生命線でもあった。
 ピースの首輪を分けてくれた親父だった。
 スラムでは珍しく、代償なしで何かをくれた男だった。息子と同じ年くらいのカオスを不憫に思った
のかもしれない。
 抱っこさせてくれたら首輪をあげようかな。親父の言葉を抱かせろかと思ったカオスだったが、本当
にギュっと胸に抱きしめて頭を撫でただけだった。
 自分の息子は亡くしたのか、それともどこか遠くに住んでいるのか。カオスは聞きはしなかったが、
それから時折親父がスラムに現れた時に行動をともにしたのだった。
 砂漠の向こうからやってくる親父の言葉が、真実ならば今回の逃避行は死なずに済む。
「ただの自慢話のガセネタだったら、恨んで呪い殺してくれる」
 一秒のうちに何度もやってくる、もう諦めようかなという気持ちと闘うために、カオスは無理と憎ま
れ口を叩き続ける。
 じりじりと頭上から三人を焼く陽射しはいよいよ頭から煙を立ち上らせるのではないかと思うほどに
暑くなり、空気は滞って微動だにせず、砂のこげた匂いを立ち上がらせる。
 沈み込む足に、靴の中に暑く焼けた砂が入り込む。
「ピースの足が焼けどしちゃうよな」
 声をかけても、ピースも限界なのか、倒れはしないが反応はゼロ。
「砂漠なんて嫌いだ。放射能だって残ってるだろうし、暑いのに、どこまで行っても同じ景色で、時間
なんてわからねえよ!!」
 きっと座り込んだら二度と立ち上がれないのは分かっていた。
 立ち上がれないならば、次第に体から水分が蒸発してミイラになっていくだけしかないのだ。
「ほら、こんな風に」
 カオスは足元に転がった人間の白骨体を見下ろして力なく呟く。
 盗賊にでも襲われて死んだのだろうか? 白骨の着た服には刃物で切られた痕と、黒ずんだ血の痕が
残っていた。
 死体から帽子をはぎ取り、白骨の荷物を砂の上にぶちまけてめぼしいものを探す。
 当然金目のものはない。だが見つけた地図に目を向ける。
 一緒に入っていた方位磁石で位置を確かめながら車の墓場を探す。
「は、あったよ。車の解体工場跡」
 カオスはマメの水を一口拝借すると、再びマメを担いで歩き出した。
「白骨死体サン、ありがとうございました」
 ペコリと頭を下げ、カオスが歩きだす。
 その後ろでピースが死体を砂に埋めようとするかのように、後ろ足で砂を蹴った。


 やっとたどり着いた車の解体工場跡。
 酸性雨に完全に錆びて穴だからけになった車の山とトタンの小屋の中に倒れこみ、カオスがマメを埃
の積もった床に放り出す。
 やっと入れた日陰のわずかばかりの涼に、ピースも腹を床につけて寝転がる。
 ああ、吐きそうだ。
 カオスが思ったことといえばそれだけだった。
 もしココで毒蛇や毒蜘蛛に襲われても抵抗できないよ。もう指一本動かしたくない。
 そのまま目を閉じる。
 そのカオスの頭に、冷たいものが押し付けられた。
 氷かと思うほど冷たいその物体にホッと体の力が抜ける。
 そっと目をあければ、マメが水を入れ替えたらしい瓶をカオスの額の上に載せていた。
「マメ、水……」
 水道から汲んできたんだね。
 そう続けようとしたカオスの顔の上に、マメが水をぶちまける。
 もろに鼻から水を吸い込んだカオスが咽る。
「な、何しやがる!!」
 ゲホゲホと気管に入った水を吐き出しながら怒鳴るカオスに、マメは余裕の無表情で背をむけ、再び
瓶に水を汲み始める。
 そしてその水を今度は床の上のピースにもぶちまける。
 実に真面目な表情で、たんたんとそれを繰り返そうとするマメを、水を頭から滴らせながらカオスは
呆然と見つめた。
 マメは自分の頭にも水をかぶり、ぶるぶると犬のように水を弾き飛ばす。
「な、な、なにをしていらっしゃるのかな? マメは」
 側までやってきたマメは、カオスの額に手を当て、「熱い」と手ぶりで示す。
「ああ、熱射病か」
 だから冷そうとして。
 納得したカオスだったが、ふたたび頭頂からぶちまけられた水にしばし言葉を失う。
 マメ、キミは実に賢いし優しいのだけれど、もっとやり方があるだろう。
 そう心の中で呟いた瞬間、マメが何かに目を留め、ハッとした顔で走り出す。
 マメの目の先には大きなバケツ。
 ふんふん、何か別の方法を思いついたんだね。
 お兄さんの気分でウンウンと頷いたカオスだったが、大量の水をバケツに溜め、カオスに向かって構
えたマメに慌てて身を引いた。
 だが遅い。
 まるで一斉放水を受けたかのような水圧で床に転がされたカオスを、マメは初めて見る笑顔で見つめ
ていた。

back / 失われた彼らの世界・目次 / next
inserted by FC2 system