Chapter 10   Death throe and derision 


 砂漠を吹き抜けていく風が、無数に細かい砂を巻き上げ、体に纏わりつかせては汚してい
く。
 頭から掛けられた水にぼやけていた意識が覚醒させられ、嫌がうえでも目の前のリザルト
の姿を見せ付けさせられる。
「小僧、いい顔になったな」
 掛けられた水が傷に染みるが、声を上げる気にもならない。
 瞼は腫れあがって片方の視界を奪っていたし、切れた唇は感触がひどく遠かった。
 前髪を掴んで顔を上げさせられ、うめき声がもれる。
 金色に光るネコ科の瞳孔が細く縮み、自分をじっと見つめていた。
 口元は愉悦ゆえに歪み、赤い舌が唇をなめる。
「あのお嬢ちゃんを抱くのも飽きちゃったんだよね」
 冗談めかして語られた言葉も、上半身裸で、パンツのウエストを開いたあられもない姿で
語られると、あまりにも生々しい。
 しかもそのグアルグの背後でうな垂れたハンナの姿が目に入るからこそ、カオスは声一つ
上げられないほどに打ちのめされるのだった。
 首には二つの犬歯のつけた傷が並び、そこから血が滴った痕を残していた。
 そして体中に散った紫色の強く吸われた痕は腫れあがり、愛撫の印というよりは、暴力の
あとのようですらあった。
 足の間には、裂かれてできた傷から流れ出した血が見えていた。
 グアルグのサディスティックな拷問は、ハンナには強姦という形で、カオスには直接的な
暴力としてふるわれた。
 すでに殴られても期待したほどの反応を示さないカオスに、グアルグが掴んでいた髪をお
もしろくないと示して、投げ捨てるようにして離す。
「暴力には反応しなくなったか。なら、抱いてみたらいい声で鳴いてくれるか?」
 顎を強く握ったグアルグが、血の味しかしないカオスの唇を犯す。
 口蓋の中を蠢く舌になされるがままの弛緩した体。その無反応に、グアルグはふたたび顔
をしかめる。
「つまらん。嫌がるからこそ、おもしろいのに」
 駄々っ子が夢中になっていた玩具に飽きたと放り投げて怒り出すような態度だった。
 グアルグが二人の前から離れ、陽射しを遮るために自分のためだけにつくったテントの中
に入っていく。
 その中から思い出したように声をあげる。
「マメーーー! 早く出てきたほうがいいぞ。このまま出てこないと恨まれるぞ。この二人
をこのまま見過ごして助けてやるほど、俺は甘くないからな。分かったか!」
 姿なきその叫び声に、カオスは口の端に笑みを浮かべた。
 マメが現れないことに、怒りはなかった。かえって、現れないことで苛立つグアルグを見
るのがいい気味だった。もちろん、苛立てば苛立つほどに、自分たちに加えられる痛みは強
さを増すばかりなのだが。
「カオス」
 微かにした声に、カオスはハンナの方へと目を向けた。
 完全に裸にされた体は、容赦ない陽射しに赤く染まっていた。
「ハンナ……大丈夫か?」
「ああ。………済まなかったな」
 思いがけなくされた謝罪の言葉に、カオスは眉をしかめた。
「何を謝る」
「おまえとマメちゃんだけなら、逃げられただろう。でも、おまえは、わたしやダニエルや
メリラを救うために戦ってくれた。……今も、わたしはダニエルやメリラの命が守られるの
なら、ここで死んでもいいと思っている。マメちゃんには、ここにわたしたちを助けに来る
よりも、二人の命を守って欲しいから。……でも、それもおまえには迷惑な話だろ」
「……そんなこと」
「しかも好きでもない女の裸を見なけりゃならないしな。傷だらけのおぞましい体を。リザ
ルトなんかに犯された女の」
 自分で自分の傷を抉り出すように呟くハンナの声に、カオスが首を横に振る。
「そんなこと言うな。それに……」
 カオスは俯くと、小さな声で言った。
「ハンナはキレイだよ。こんな状況でないところで出会っていたら、きっと好きになってた」
 精一杯の思いを吐き出したカオスだったが、隣りでハンナは照れてはにかむのではなく、
ククっと笑いを漏らすだけだった。
「何がおかしいんだよ」
「ムリするな。迫られて怯えていた男が」
「それは………覚悟が足りなかっただけで……」
 吹き抜けていく風が、纏わりつく熱風を残して去っていく。
 体中が今まで経験がないほどに痛んでいた。殴られたところも、縛れてできた傷も、恐怖
を味わった心も。
 だがこうして二人で言葉を交わしていることが、二人の間の絆を作り上げていた。
 ここにいるのが一人でなく、ハンナがいてくれることが、カオスがいてくれることが、嬉
しかった。
 体には触れることができない。でも、確かに心と心が触れ合う感触が二人の中にはあった。
 しかし、そんなわずかばかりの安らぎの時間も、長くは続かなかった。
「いいことを思いついたぞ!」
 高らかに声を上げ、グアルグがテントを勢いよく捲り上げて出てくる。
 ろくでもない残虐な遊びを思いついた子どもの無邪気さで、二人の前に歩み寄ったグアル
グが、一つの瓶を見せる。
「これが何かわかるか?」
 透明な瓶の中で琥珀の液体が、もったりとした感触で揺れる。
「ハチミツだ」
 瓶のふたを開けたグアルグが、指をつっこみ、ぺろりとうまそうになめ上がる。
「それをわたしたちに舐めさせてくれるって?」
「いや、違う」
 グアルグはねっとりと笑うと、指ですくい上げたハチミツを擦り切れて血を滲ませたカオ
スの顔になすりつけた。
「は! 傷の手当てかい? 親切なことだ」
 ハンナが笑う。
 だがカオスは、グアルグの目の奥にある悪魔の瞳の輝きに、笑うことができなかった。
 グアルグが突き出した爪でカオスのシャツを裂くと、露わになった腕や胸にもハチミツを
塗っていく。
 そして今度はハンナの前に立つと、同じようにハチミツを塗りつけていく。
「この砂漠の生き物ってのは、基本的に飢えているうえに、放射能で変異して巨大化してい
たりする。そして、昔からこの辺りにいるのが、蟻なんかの虫だ。甘い匂いにたかってくる
無数の黒い点だ。しかも人の肌に噛みつく凶暴さを兼ね備えた」
 グアルグの意図を知り、暴れるハンナの腿の間にもいやらしくハチミツを塗り上げたグア
ルグが、空になった瓶を投げ捨てる。
「直接的な暴力に慣れたのなら、焦らすように少しづつ自分の体を覆っていく痛みに晒され
て狂ってみればいい」
 観察していてやるよと歩み去っていくグアルグに、カオスは想像だけで震え上がる自分に
気づいて愕然とした。
 何度も見たことのある死体は、いつも無数の虫に覆われ、食べられていた。
 それと同じことが、自分の身に起きようとしているのか。
 嫌だ。そんなことに耐えられるはずがない。
 落ち着けと告げる理性の声が、膨れ上がっていく恐怖に押し潰されていく。
 そのとき、鼻先に感じた羽音に、カオスは目を見開いた。
 大きな尻をしたハチが、目の前で羽音を立てながら空中で停止していた。
 尻の先には黒々とした針が光り、ひくひくと動いていた。
 顔に止まるハチに、カオスは目を閉じた。
 これからどれだけの虫が自分たちを覆うことになるのだろう。
 震えるカオスの後ろで、グアルグが愉快でたまらないと笑い声を上げ続ける。
 その声と顔の上をうごめく気配に、カオスは意識の喪失だけを願って目を閉じ続けた。


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