Chapter 10   Death throe and derision 


 目の前ではじけ飛ぶ人間の頭部を見ることになるとは、カオスは思ってもみなかった。
 それも、少なからず好意を抱いた人間の命が弾かれる瞬間を目にするとは。
 砂漠の上に音を立てて崩れ落ちたのは、ハンナたちの父、鯉蔵の体だった。
 すでに随分と嬲られたあとの顔は、腫れあがって見る影もなかったが、その額に開いた特
大の穴と、砂の上に散らばった脳漿は、見るものの恐怖を、腹の底から突き上げさせた。
 砂漠の灼熱の太陽光の下で、額から汗が滴り落ち、すでに塩の結晶が浮び始めていた。
 体は水分を失っているはずだったのに、目の前の惨劇に、胃の中からすっぱい液体がせり
上がり、口から溢れる。
「ああ、汚ねえなぁ。それに失礼だろ? おまえたちを助けるために体張ってくれたおじさ
んの脳みそが、そんなに気持ち悪いか?」
 さらし者にするように木の杭にカオスとハンナを縛りつけ、グアルグがこれ見よがしに水
を飲む。
「このおっさんも弱いんだから大人しくしてればいいものを、奥さんの腹が掻っ捌かれた途
端に向って来るんだもんな。なかなか感動的な夫婦愛を見せてもらったと涙も流してやりた
いところだが、俺はそんな臭い愛情劇に感激するほど、ナイーブな神経は持ってないんだな」
 その発言に、淀んだ目を僅かにあけたハンナが、グアルグの顔目掛けて唾を吐きかえる。
「獣がでかい口叩くんじゃないよ」
 かすれた声で恫喝しても、今のハンナには何の迫力もなかった。
 グアルグが頬にかかった唾を指でぬぐい、愉悦の笑みを浮かべると、ペロリとその指を舐
めた。
「おまえはあの母親の遺伝子をそっくり頂いたらしいな。実に勇ましい女戦士」
 グアルグが豹紋の浮き上がった手の平をハンナの顔の前に晒す。
 そしてその手の平に力を込めた瞬間、その指の先端から鋭い刃物に似た爪が飛び出し、ハ
ンナの眼球ギリギリで止まった。
 ハンナの息も一瞬、止まる。
 力の入った首には筋が浮き上がり、冷や汗が吹き上がる。
 その様子を、爪を一ミリたりとも動かさずに顔だけをめぐらせて観察したグアルグが、不
意にその爪で空を切った。
 爪が切り裂いたのは、すでにネズミに噛み千切られてボロボロになっていた服と、その下
の褐色に焼けた肌の薄皮一枚であった。
 じらすように爪で裂けていく服を少しづつ剥ぎ取り、羞恥に顔をゆがめるハンナを、おも
しろい見世物だとグアルグが眺める。
 鎖骨の間から胸の谷間を通ってみぞおちまで続いた、赤い血の滲む傷。
 そしてその傷の左右に対称に揺れる、豊かな乳房。
「ふむ。なかなかいい眺めだ」
 顎の下においた手でヒゲを弄くり、もう片手を、目を背けたカオスの顔へと伸ばす。
「なあ? 小僧もそう思うだろ?」
 無理やりに顔をハンナへと向けられ、ギュッと瞑っていた目を開けさせられる。
 そこには涙を必死に堪えるハンナの、戒められた姿があった。
 逞しく、自分よりはるかに強く見えたハンナのその痛ましい姿に、カオスは自分が情けな
くて仕方がなかった。
 なぜ側にいながら、ハンナの受ける辱めから自分が救ってやれない。
 なぜ隣りでうな垂れているしかないのだ。
 カオスは腹の中で猛然と湧きあがった怒りに唸り声を上げ、自分の顔に触れるグオルグの
手に噛みつこうとした。
 だが寸ででかわした指が、鼻先をかすめて逃げていく。
 ロープで縛られた体を揺すり、狂ったように暴れてグアルグへの憎悪を放つ。
 だがそんなことをしても、縛られた手首とその手首のロープでつながった首のロープが、
自分の体を締め付け傷つけていくだけだった。
「カオス……やめろ……」
 か細いハンナの声が言った。
 手首のロープに血が滲み、裂けた肌の下の肉を晒す。
「やめろ!」
 ハンナが叫ぶのと同時に、グアルグの拳がカオスのこめかみを直撃していた。
 頭蓋骨の中でゆれる脳に、目の前が闇に落ちる。
 がくりと頭を落としたカオスを見下ろし、口に笑みをのせたグアルグが、砂漠の一角に向
って声を張り上げる。
「CK11。いや、マメとかいう名前をもらったんだっけな。どこにいる。さっさと出て来
い。さもないと、おまえの大事な友達が泣き叫ぶことになるぞ」
 グアルグの声が、砂漠の熱した風に攫われ溶けていく。
 こめかみに流れる血を感じながら、カオスを辛うじて開く瞼でグアルグの背中を見つめた。
 その向こうの砂の上に見えるのが、キャンディス母さんの死体。
 最後の最後まで諦めずに、ハンナとカオスを追ったキャンディスだったが、グアルグの弄
ぶような戦い方の末に、その爪で腹を割かれて死んでいった。
 そしてそのキャンディス母さんの死体から30メートルの地点に、仰向けに転がった鯉蔵
父さんの死体。
 メリラとダニエルは、マメに連れられて今のところ身を隠しているが、この先の保証はど
こにもない。
 その二人よりも前に、自分とハンナの命がまさしく風前の灯火なのだが。
「どこかにいて聞いてるんだろ? まあ、俺様も強情なお前につきあって、ただこの砂漠で
無為に時間を過ごすつもりもないがな」
 返ってくる声も物音もない。
 それを確認して勢いよく振り返ったグアルグが、ハンナを見てうす笑みを浮かべる。
「俺はどっちかっていうと、大人の女の体よりも、お前の妹たちみたいな触れば弾けそうな
子どもを食うのが好きなんだけどな。まあ、いいや」
 グアルグが歪んだ笑みを浮かべて一歩ずつハンナに近づく。
 その視線の意図は、分かりたくもないほどに、ねっとりとハンナの体にまとわりついた。
「や……やめろ。……来るな」
 ハンナの顔が引き攣る。
 グアルグが上体を覆っていた皮のジャケットを脱ぎ捨てる。
 豹柄の浮く、鍛え上げた筋肉に覆われた体があらわにされる。
「やめろ! ハンナに近づくな。やめろぉぉぉ!!」
 首を締め上げるロープに抗い、カオスが目の前を通り過ぎるグアルグに叫ぶ。
 だがそんな声など微塵も耳に入らない様子で足を進めたグアルグが、ハンナの髪を掴み、
暴れて叫ぶ頭を、髪ごと杭にナイフで撃ちつけて固定する。
 目の前にあるグアルグの顔に、ハンナの喉が仰け反り、口から枯れたうめきが漏れる。
 グアルグの顔に愉悦の笑みが浮き、捲れた唇の下から尖った牙が覗く。
「別に殺しはしない。楽しむだけさ」
 それに続いたハンナの悲鳴。
 掴み上げられたハンナの乳房の間を、噛み裂かれた首筋から零れた血が流れ落ちていった。


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