第五章  幻想



 白銀の編んだ髪が空を切る。
 鋭く睨みあげた中空に向かって指を差し伸べ、銀の糸を紡ぎだすような声が詠唱する。
「地と寄り添いし風。今我を助け鉄壁の城壁となりて守護せよ」
 その詠唱とともに女の手の中で白い光が生じ、次の瞬間にロクサーヌやザインのいる空間
全体を包み込んだ。
 その発光する風に防壁に、いくつもの光の矢が突き刺さり、弾かれていく。
 激しい火花をまき散らしてあるものは消滅し、あるものは風の壁を突き抜けんともがく。
 すでに戒めは解かれていながら、ロクサーヌもザインも動けずに立ち尽くしていた。
 手にしている剣は構えてみるものの、魔法戦において剣士はなす術がない。
 白銀の髪の女が、再び術の詠唱を始める。
 右手に白光する光の炎を持ちながら、左手に黒い光の玉を出現させる。
「闇に潜みし影の揺らめき。真の闇の前にその姿を現せ」
 術の詠唱が終わると同時に、漆黒の球は女の胸の中へと埋没していく。
 うっすらと不快そうに眉をひそめた女の額に汗が浮かび上がる。
「あの者は?」
 立ち尽くしていたロクサーヌにザインが問いかける。
「おそらくはノードの術師。エアリエル王国を守る守護者として契約しているノードが、独
自に姫の警護に来ていたのだと」
 息が苦しくなる、独特の重い空気に耐えながらロクサーヌが答える。
 そしてその苦しさを感じているのはザインも同じらしく、大きく胸を上下させて息をつい
ている。
「ではそのノードの術師と敵対して攻撃を加えてきているのは?」
「マイノール?」
 ロクサーヌがそう答えた瞬間、白銀の髪の女の閉じていた瞳がカっと開かれる。
 そこにあったのは漆黒の眼球。
 白目を持たぬ、光の輝きさえない闇色の眼球が、風の鉄壁の向こうで荒れ狂う風の前に、
嵐になぎ倒されんばかりでしなる木々の間を見据える。
 そしてその瞳の上に紅く光る刻印が浮かび上がる。
「行け!」
 その言葉と同時に風の防備は消え、吹き荒れていた風がピタリと止まる。
 そしてそれと同時に女の両脇に現れた二人の術師が、その手の中から青白い光を発する。
 その青白い光が空を切る合間に無数の氷の刃へと変じ、ある一点を目指して飛翔する。
 氷の刃を防ごうとするように白い光を発する防壁が展開されるが、氷の刃はそれを突き破
って侵入していく。
「ぐぎゃぁぁぁぁ!」
 凄まじい悲鳴が響き、苦悶の唸りが続く。
 だがそれ以外は、この数秒の間に起こった凄まじい戦いが嘘であったかのように、平和な
光景と静寂が戻ってくる。
 荒れ狂う風が収まり安堵する木々のため息と、息をひそめて辺りを窺う動物たちの気配。
「……終わったのか?」
 ザインの問いかけに、白銀の髪の女がわずかに疲れの滲んだ顔で振り返る。
 女の顔に、すでに漆黒の瞳はなく、最初に見たときと同じ閉じた瞼が見つめ返す。
「今から賊を捕えます。が、何も吐きますまい。そういう連中です」
 女の横から青いローブを纏った二人が空気に溶けるように姿を消し、氷の刃が襲った辺り
に出現する。
 そして地面に膝まづいた後で、女に顔を向ける。
 それに頷き返し、女がザインとロクサーヌに顔を向ける。
「やはり自ら命を絶ったようです」
 女はそう告げると、ザインとロクサーヌの前に膝を折って頭を下げる。
 そして女の背後に再び現れた二人の術師も女にならって膝を折る。
「ノード長老ウインザー老の使者として参りました。カタリナと申します。ともに参りまし
たのも同じくノードの術師、ミハエルとベルダ」
 女はそこまで言って顔を上げると、表情の消えた盲た目を向ける。
「クリステリア姫、そしてエアリエル王国に危険が迫っております。そして」
 女の顔がザインに向けられる。
「グラナダにも」


 小屋の前に運ばれ地面に横たえられた死体を、クリステリアとトゥールが無言で見下ろし
ていた。
 アンリは震えあがってザインの後ろに隠れたまま、背を向けていた。
「この者たちは?」
 クリステリアは死体に近づくと、血がまだ滴る死体の衣装に目を向けていた。
「この衣装はエアリエルの者が身につけるものではない」
「グラナダでもない」
 術師であることに間違いはないのだろうが、マイノールの術師であることを示す黒いロー
ブは着ていない。
 アンリと同じように、無残な死体に恐れをなして近寄ってこようとしないアストンに、ロ
クサーヌが目を向ける。
「アストン。この者に見覚えは?」
 尋ねられて仕方なく死体に歩み寄ったアストンが、チラッと見下ろしただけで首を横に振
る。
「知らない」
「マイノールの術師ではないのか?」
 いぶかしむ声でトゥールに問いかけられ、アストンはビクつきながら頷く。
 トゥールの横に立ったザインは、死体の前で膝をつくと、まとっていた衣装に触れる。
 すでに血に塗れ、氷の刃に貫かれたことで穴の開いたぼろ布になり果ててはいたが、その
織り目や染色の特徴などは見て取れた。
 とても軽い布で、麻のような通気性のいい粗い目の織の生地でできた服だった。
 染めも穏やかな草木による染物であることが分かる。
「この衣装はオイノール公国のものでは?」
 ザインのその言葉に、ロクサーヌとクリステリアが顔を上げる。
「オイノール? でもあの国は戦いを好まぬ信心深い宗教国のはず」
 ロクサーヌのその言葉に、ザインが首を横に振る。
「確かに前オイノール公国大公ルクセールは平和と協調を愛する男として知られていたが、
大公の急死で跡を継いだ息子のレンドルはまだ年若い。それに、これまで行われてきた戦争
の多くも、宗教の名の下に行われてきたのではないか?」
「それは……」
 反論のしようがなくなったロクサーヌが口ごもる。
 その会話を聞きながら、クリステリアは死体の前に座り込む。
 王族ならば、自分に非がなくとも、命を狙われる不条理に会うことも理解していた。
 そして自分や自分の周りの人間を狙う刺客もまた、自分個人を憎んでいるというよりも、
今の国の体制への不満を持つものであったり、あるいはその思惑によって動かされている駒
に過ぎない。
 だから今、目の前にしている死した人間に憎しみはない。
 苦悶の表情のまま目を見開いて死んでいる死体の顔に触れ、そっと目を閉じさせる。
「姫、そんな汚れた者に触れては」
 クリステリアの行動を咎めるように声を発したロクサーヌを、クリステリアは手を上げて
制すると白銀の髪の女、カタリナに目を向けた。
「おまえの考えは? これはオイノールによる刺客であると?」
 その問いかけに、カタリナは思慮に沈むようにしばらく沈黙する。
「わたしのこの盲た目に、目で見るものは意味をなしません。わたしの知る情報は全てこの
肌と感覚で察知したものがすべて。そんな不確かなもので構わないと仰るなら、わたしの考
えを」
「それで構わぬ」
 クリステリアが言う。
 それに頷き返し、カタリナが口を開く。
「術の属性はノードともマイノールとも異なるもの。古来より伝わるオイノール独自の術で
あろうと思われます。そしてこの術師が使用していたリーナルという術を発動に欠かせない
植物の葉も、オイノールの公家でなければ手に入れられないくらいの特殊なものです」
「ではやはりオイノールの?」
 問い返したトゥールに、カタリナが首を横に振る。
「ですが、それはオイノールを騙るための偽装であるとも見ることができます。オイノール
の国教は自殺を禁じています。それに、オイノールの刺客であるのならば、なぜそうとわか
る衣装を身につけているのでしょう? それからわたしが気になっているのは、この術者の
攻撃の仕方なのです。……これはノードの長老の助けがなけらば判断が付きかねますが、何
者かに操られていた可能性も」
「マリオネット?」
 不意に声を発したアストンに、全員の目が向く。
「何だ、そのマリオネットとは?」
 静かにではあるが、恫喝の色が含むザインの声にアストンが腰の引けた態度で答える。
「……マイノールの首領、ヴァン・アイクさまが得意とする術」
「ではやはりマイノールが?」
 ロクサーヌのその呟きに、だが誰一人確かな答えをもって応えることができなかった。
「それにしてもカタリナ殿。あなたの先ほどの言葉は理解できない。この事態にエアリエル
王国とマイノール、あるいはオイノール公国との間に危機があるのは分かる。だがなぜ、そ
こにグラナダが関わる」
 ザインの言葉に、トゥールの顔も引き締まる。
 やはりトゥールにも、このすべてに自分の国が関わっているとは思えなかった。
 父王は、自分の息子である自分が、クリステリア姫を探して旅していることを知っている
はずだからだ。
 もし自分が今こうしているように、クリステリアと接触しているときに開戦という運びに
なれば、自分の命の保証はどこにもなくなってしまうのだから。
 だが、それにカタリナは少し逡巡のあとに告げる。
「マイノールといえど、後ろ立てなくエアリエル王国に敵対することはできません」
 その言葉にトゥールもザインも閉口して立ちつくす。
 信じたくないというのが本当だった。
「まさか事の背後には、我が父も絡んでいると」
 硬くなった声で告げるトゥールに、カタリナは応えずに頭を下げる。
 ここに三国の均衡が崩れた。
 そこにいた全員の胸の内で、まだ姿の見えない戦火の炎を見た恐怖が過った。

 
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