第五章  幻想



 ロクサーヌには久し振りの心休まる時間だった。
 薪割りはザインがもう数ヶ月分はしなくていいぐらいに用意してくれたし、夕食の用意は
アンリがしてくれている。
 そしていつもは目が離せないクリステリアも、今日はトゥール王子が側にいてくれるせい
で大人しくしている。
 といっても、白熱したグラナダ対エアリエル戦を、ゲームのようにテーブルいっぱいに広
げた地図の上で繰り広げているのだが。
 今日はザインが森で仕留めてきてくれたウサギの肉のシチューだとアンリが言っていた。
『わたしって、ドジでバカなんですけど、料理だけは結構上手なんですよ!』
 アンリはそう言って、頭にたんこぶをこさえてしまったロクサーヌには寝ていていいと気
遣ってくれたのだ。
 自分が何一つ気を回して動き回らなくても、暗くなりはじめればランプに火が入れられ、
暖炉にも火が入れられ、家中に食欲をそそる香りが広がって、みんなの楽しげな会話が漏れ
聞こえてくる。
「幸せだなぁ〜」
 目を閉じて平和な家庭のような温かさに身を浸そうとしたロクサーヌだったが、その枕も
とでした暗い声に目を開けた。
「ロクサーヌは幸せなんだ。ぼくは不幸まっただ中」
 そこにはどよ〜んとした空気を頭の上に乗っけたアストンがいた。
 何やらひどく気落ちした様子で、肩をすぼめて小さくなって膝を抱えてイジイジしている。
「何があったの?」
 少し精神的余裕があったロクサーヌは、いつも以上に優しいお姉さんのように尋ねる。
 と、アストンが子どものように情けない顔でロクサーヌを見つめる。
「今日一日で二人に失恋した」
「二人?」
「ロクサーヌとアンリ」
「…………そう」
 一日に二人の女に恋心を抱けるのも、ずいぶんとお手軽な恋じゃないの? と突っ込みた
くなるところだったが、ひとまず飲み込んでアストンの話に耳を傾ける。
「アンリに告白でもしたの?」
 まさか自分にしたように、いきなり迫ったりなどしていないだろうなと不安になったロク
サーヌだったが、アンリの側には必ずザインがいたはずだと思いなおす。
 そして同時にピンときた考えにアストンのしょぼくれ顔を見た。
「ザインに釘でも刺された?」
 ザインの名前に過剰なほどにビクンと体を跳ねさせたアストンが、図星の顔でロクサーヌ
を見る。
「なんて言われたの?」
「……アンリ殿はトゥール王子を思っていらっしゃるから、手など出さぬことだなって。も
う怖い地を這うような低い声で言われてさ、もうヴァン・アイク様を目の前にした時と同じ
くらいに震えちゃったよ」
「まぁ、あのザイン相手じゃねぇ」
 並の男では、とてもザインと対等な立ち位置にさえ立てないだろう。尻尾を巻いて離れた
ところで威嚇するのがやっとだろう。
 そのうえ、このアストンときたら、これで本当に男なのだろうかと思うほどに気弱でへな
ちょこなのだから。
「ねぇ、ロクサーヌ。あのトゥールって王子様は、何しにここに来たの?」
 あまりに当たり前過ぎて誰も聞かないが、本質的に問われると答えにくい質問だった。
「……クリステリアさまへの求婚?」
「………じゃあ、アンリはなんで王子に付いてきてるの? 愛人になるために?」
 あまりにはっきりと口に出された愛人の言葉に、ロクサーヌも言葉に詰まる。
「王族が正妃以外に側室をもつのは当たり前……なのよ」
「………そうだけど」
 納得したくない顔で、でも自分ではそれに対抗しようがない無力感に打ちのめされた顔で
アストンが俯く。
 クリステリアはただ単にお見合いが嫌で逃げ出したのだが、確かに父王宛てに手紙も残し
ている。
 クリステリアへの愛と、知恵と才覚を示すために家出したクリステリアを見つけて見せた
ら結婚すると。
 では、このグラナダの王子がここにいるということは、知恵と才覚をして示してクリステ
リアを見つけ出したことにはなる。
 が、クリステリアへの愛を示すために訪れる旅で、女を連れてくるというのは、明らかに
規則違反だ。
 もちろんそれを判断するのはクリステリアだが、王子が何のためにここに来たのか、その
真意が見えてこない。
 だがそれを王子本人に尋ねることはできない。
 ロクサーヌは寝ていたソファーから起き上がると、床にしゃがみ込んでいるアストンの頭
を撫でてやる。
「まぁ、世界の半分は女だ。その中にはアストンに惚れてくれる女もいるさ。おまえは顔だ
けはいいんだ。……それに優しいし? そんなに落ち込まなくても、いずれ恋人もできると
わたしは思うぞ」
 慰めの言葉に頷いたアストンだったが、明らかにまだ失恋の痛手から立ち直れる様子では
なかった。
 そんなアストンを後に残し、ロクサーヌは小屋の外へと出た。
 そこには捌いた肉を焚き火にかざして焼いているザインがいた。
 ここはお付きの者同士、腹の探り合いをするしかないだろう。
「ザイン殿。少しお話よろしいでしょうか?」
 鷹揚にうなずくザインの側に寄りながら、ロクサーヌは肉から滴る油が真っ赤な火の上で
爆ぜるのを見ていた。


「アストンがあなたのことを怖がっているみたいです」
「ああ、あの術師ですか……」
 そう言って目を上げるザインに習って目線を上げれば、窓から外を覗いていたらしいアス
トンが慌てふためいて隠れるのが見える。
「まぁ害になるほど力も知恵もある者には見えませんが、なぜにあのような者をクリステリ
ア姫の側に置いておくのです?」
 そのザインの遠慮のない物言いに、思わずロクサーヌはクスリを笑いを洩らす。
 確かにアストンには、危険を感じさせるような力も策略を巡らせる悪知恵も見えはしない。
「端的に言えば、姫が気に入ってしまったというところでしょうか。アストンは最初姫の命
を狙ってやって来たみたいなんですが、今ではこちらに協力してマイノールに偽情報を流し
てくれていますし、クリステリアさまの遊び相手というところですかね」
「マイノールがクリステリア姫を?」
 事が事だけに眉をひそめたザインだったが、深くは追求してこなかった。
「こちらもマイノールの真意はわかりませんし、アストンにもそれは分からないようで。ひ
とまず時間稼ぎをして、近く姫を説得して安全な城にお戻りになるようにしようと思ってい
たところです」
「そうでしたか」
 そこで会話が一段落し、しばし沈黙の時間となる。
 火が爆ぜる音と肉が焦げる音だけが辺りを支配し、そよぐ風にあぶる火の暖かさが側に座
るロクサーヌに強く感じさせる。
「アンリ殿は――」
 こちらはアストンについて語った。だから反対に今度はそちらがアンリについての情報を
出すように会話を進める。
 それに気づいているザインは、こちらが促さずとも、王子の今回の旅について語り始める。
「王子がクリステリア姫のことをずっとお好きでいらしたのは本当です。憧れておられたと
いうことでしょう。王子は第三王子と言っても母方の力が弱いこともあって、王宮から離れ
て成長なさった。だから庶民がクリステリア姫の肖像画の写しを手に入れて憧れるように、
王子も美しいお姿を絵で見て憧れておられた。
 それが王位継承者として王宮に召され、王子としての生活を始められた。そしてクリステ
リア姫の出した課題をクリアすれば憧れの姫にお会いすることができる。
 そんな気持ちで始めた旅であったと思います。ですから、クリステリア姫との縁談を本気
で考えておられるかと言われれば、わたしにも図りかねることです。
 王子は王族としての格式ばった生活よりも庶民的な生活を好まれる。ならクリステリア姫
にそっくりなアンリ殿で満足していただければそれでいいかと思っていたのです」
 随分と正直に語ってくれたザインに、ロクサーヌは呆気にとられるような、親しみをかん
じるような複雑な思いだった。
「ずいぶんと欲のないことで」
 側に仕える者ならば、王位継承権をもつ王子にはなんとしても国を治める王になってもら
いたいと思うものではないのだろうか。
 それには、エアリエル王国の一人娘の夫となりエアリエル王国の王になる道は、喉から手
が出るほど欲しいものなのではないだろうか。
 女王制のエアリエル王国ではクリステリアが女王として支配することになる。
 そしてその力を背景してトゥールがグラナダの王となる。二重支配。
 国の強力な友好関係であり、大陸最大の勢力となる。
 それを捨てて、自分の仕える王子に、クリステリアではなくアンリを選ばせようとすると
は。
「王子は権力闘争になど関心は持たれていない。かえって嫌っておられる。でも、クリステ
リア姫と婚姻を結ぶことになれば、即グラナダの権力闘争の中心にお立ちになることになる。
それは、きっと王子の真意でも幸せでもないはず」
「……それでアンリ殿が……」
 あとはクリステリア、トゥールたちの本人の意思がどう働くかによる。
 そう結論が無言のうちの交わされる。
 静かな夜だった。
 鳥の声一つしない。
 夜空を見上げたロクサーヌは、満天に広がる星の川を眺めた。
 が、その中を異物が過るのを感じた。
 闇に紛れて確かにとらえることが難しいのだが、何かがちらつく。
 ロクサーヌが空を見上げているのに気づいたザインも、同じように夜空を見上げて目を凝
らした。
「ロクサーヌ殿……」
 一言つぶやき、ザインが腰の剣の柄を掴む。
 ロクサーヌも同時に天を睨んだまま剣を抜く。
 夜空を背景に舞い降りてきたのは、夜風にはためく青いマント。
 その者が印を組み、手の中で青白い光を灯す。
 それと同時にロクサーヌとザインの体が見えないロープで拘束され、ピクリとも動かなく
なる。
 その間に地面に降り立った青いマントの人が二人の前で膝を折り、頭を下げる。
「ご無礼をお許しください。ですが時間がありません。どうぞわたくしの支持に従ってくだ
さい」
 顔を上げた白髪の女は、閉じた目を二人に向けて緊迫した表情を浮かべていた。
 
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