間章  開戦前夜


 城の中はいつもと同じように静まり返っていた。
 平安を絵に描いたように、暖かな色合いの蜀台の蝋燭が揺れる。オレンジの色合いの中で
、幸せな褥の中でまどろむように、夜のひと時を人々は満喫していた。
 警備に立つ兵士たちも、忠実にその任務についているとはいえ、長い平和なときの中で、
日常のヒトコマとしての仕事をこなし、時に談笑を交えながら立っていた。
 だが、その笑い合っていた兵士の首に一線、赤い線が走る。
「ん? なにか……」
 虫でも通り過ぎた程度の気配が首元を掠めた。
「この前みたいに顔を虫に刺されて、見たこともない色男になるなよ」
 王の居室へと通じる廊下を警備していた兵士が、ペアの兵士の言葉に声を掛ける。
 つい数週間前に、その兵士が瞼を倍に腫らしたことを思い出しての言葉だった。
 またあのときのように、みんなでからかってやろうと軽い気持ちで言葉を掛ける。
 だが、その言葉に対する、いつもの彼ならする反論がない。
 そして顔を上げた兵士が見たのは、顔を赤くして怒ってみせる、いつものそばかすの浮く
青年の顔ではなかった。
 赤くはあった。
 だがそれは首から吹き上がった血の飛沫であった。
 その頸動脈から間欠泉のように吹き上がった血が自分の顔をも、赤く染め上げる。
 青年兵の首から、滑り落ちるようにして頭部が転がり落ちていく。
 自分に起きたことが何なのかを理解できずに、驚愕に目を見開いたままで床に転がる同僚
の首。
 それに悲鳴を上げるよりも早く、自分の首にも一瞬の風を感じる。
 風の次に、首筋をツーっと粘液質な液体が伝う感触が続く。
 手を伸ばして指で触れなくとも、それが自分の血であることは分かった。
 動くな、このまま動くな。少しでも動けば、目の前で転がった青年兵士と同じように……。
 だが、うつむき加減だった首が意思とは反して、前へ前へと滑り始める。
 そしてその後押しをするように、背後に立った人物が言う。
「足掻くな。安らかに眠るがいい」
 ドンと後頭部に振り下ろされた手刀に、首が体を離れ、孤を描いて宙を飛ぶ。
 何が起きた?
 ついさっきまで、笑って警備していたはずの自分の身に、このエアリエルに何が。
 必至に残りの数秒の命の中で兵士が考える。
 そして宙を舞う首が、背後に立っていた男の姿を捕える。
 黒いローブで身を覆った、中年の隻眼の男が見える。
 その男の姿が、ほんの少しの苦渋の表情の後で、変化していく。
 黒かった瞳は金色に、薄汚れて縮れたブラウンの髪が金糸のような光沢ある長髪に変わる。
 肌も白く変化し、纏っていた重苦しい黒いローブもその姿を変え、軽やかに体を覆う麻の
織物に変わる。
「……こんなものか」
 男が呟き、足元に転がった首と、ドッと音を立てて倒れた兵士の体を見下ろす。
 だが、見開かれた兵士の瞳は、すでに何も映してはいなかった。


 眠りの中にいようとも、何かがランドビンス王の神経に触れた。
 ベッドの中で目を開けた瞬間に、枕もと置いている小剣を抜き、背後を払った。
 その瞬間に頭上でした呻きと、自分から飛びのいて距離を取る男の気配に、布団を払って
飛び起きる。
「誰だ!」
 鋭い誰何の声に男が身じろぎするが、一瞬の躊躇の後に、すぐさま飛びかかってくる。
 男の手には、戦闘向きというよりは、儀式に使用するような飾りがついて懐剣があり、そ
れを振りかざして襲い来る。
 無防備に振りかざして襲い来る男に、王は身を反らすと反撃しようとした。
 だがその目もとをかすめて飛んだ微かな気配に、反撃を止めて後ろに飛びのいた。
 ヒュンという音を立て、目標から反れた蜘蛛の糸のような細い糸が、ランドビンスの前髪
を切り裂き、同時にベッドの上の布団を切り裂いて、その中の羽毛を宙へと飛び散らせる。
 侵入者が舌打ちすると同時に、窓の外から雲の切れ間から月の光が差し込む。
 その光に姿を見せた侵入者は、月の光に映える金髪の、白い肌をした男だった。
 明らかにオイノールの人間である特徴を持つその男に、ランドビンスが眉をひそめる。
「オイノール帝国の人間が、わたしに何用だ」
 その声に、男は懐剣を握る手に力を込めながら、じっと憎しみのこもった瞳で王を凝視す
る。
「王!」
 騒ぎを聞きつけた近衛の兵士たちが王の寝室に剣を構えて駆け込んでくる。
 それに相対しながら、侵入者が怒りに駆られた声で叫ぶ。
「この国は神の加護を無視し、自分たちこそがこの世界の支配者だと傲慢に豪語する、野蛮
な人間の巣窟だ。その一番の筆頭がこの女」
 侵入者が着物の胸の合わせから、紙に包まれたひと包みのものを王に向かって投げる。
 王の足元に落ちたその包むが、パラっと開いてその内部に包み込んでいたものをあらわに
する。
 それは、長い髪の一部を束ねたものだった。
 明るいストロベリーブロンドの髪。
「クリステリア!?」
 王の声が裏返る。
 エアリエル王国では、そう珍しくもないストロベリーブロンドだったが、クリステリアの
その髪の色は、間違いようもなく、他の者とは違う明るさがあった。
「これはクリステリアの?」
 ランドビンス王の激しい詰問に、だが侵入者はうす笑いを浮かべると、背中に背負ってい
た袋から何かを取り出して広げて見せた。
 それは血糊に汚れたクリステリアのお気に入りの服だった。
 膝から力が抜けそうになるのを堪え、ランドビンスは手の中の小剣を握った。
「クリステリアは?」
 問うランドビンスに、侵入者の男が笑う。
「さあね。異端の愚か者が一人や二人死んだところで、神の御名を汚す輩が消えてくれただ
けのこと」
 男はそう言うと、懐剣を振り上げた。
「王!」
 それを見てとった近衛兵が王の前へと走り出、侵入者の体を袈裟掛けに切り倒す。
 斜めに切り裂かれた男の体が衝撃によろけ、それでも立ち止まるとランドビンスを見てニ
ヤリと笑う。
 そして手の中の懐剣を水平に保つと、何かを唱える。
 それを最後に男の体が崩れおち、懐剣も床に転がる。
「この男は最後に何を――」
 王がそう言った瞬間、懐剣に埋め込まれていた宝玉の一つが光を発した。
 男が残した最後の攻撃かと王を近衛兵が囲む中、懐剣から溢れた光が暗い寝室の中にひと
つの映像を浮かびあがらせる。
 それは、倒れ伏したクリステリアとロクサーヌの映像だった。
「クリステリア!」
 今、このときにそう娘の名を叫び求めても無駄だとわかっていながら、ランドビンスは叫
ばずにはいられなかった。
 映像の中で、ピクリとも動かないロクサーヌの向こうで、クリステリアが動かぬ瞳でじっ
とこちらを見ていた。
 その胸が呼吸で上下していた。
「生きている。生きていらっしゃいます、王」
 兵の一人が王を力づけるように告げる。
 そして同時にあることに気づく。
 その映像の背後に映るもの。それが、オイノールの神官たちが好んで着る服であることを。
 人形のようになって倒れたクリステリアを膝に抱えるその人間が、オイノール公国の上層
であることは、誰の目にも明らかだった。
「なぜだ。なぜ今クリステリアが……」
 言っても栓のないことと分かりながら、ランドビンスの口から恨み事が漏れる。
 だがすぐに意識を現実へと向けると、兵たちに命令を下す。
「ただちに宰相以下、大臣たちを召集しろ」
 これはエアリエル王国への挑戦だった。
 クリステリアを無事に取り戻したい。
 だが同時に、ランドビンスにはエアリエル王国を守るという重責も課せられているのだっ
た。
「クリステリア。必ず救いだしてやる」
 未だ消えずに中空に意思のない視線を投げかけているクリステリアを見つめ、ランドビン
スは呟いた。



  
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