第二章 運命に魅入られた娘

       
 王子の宿にたどり着いたザインは、部屋に入った瞬間にため息をついた。 「王子、いったいあなたはご自分の立場というものが分かっておいでなのですか?」  言葉遣いこそは丁寧だが、態度はあきれ果てて弟を叱る兄のそれだった。  なんとか今入った部屋はこの宿では最高級の部屋であるらしいが、金払いのいいお客だから大事にす るというだけの雰囲気で、明らかにこの国に置いて最高の地位にいる国王の息子だとは誰からも思われ ていない。  道すがら通りかかった親爺さんたちの多くが「兄ちゃん、また一緒に飲もうな」とその肩を気安く叩 き「遊ぼう、遊ぼう」とおねだりする。  人好きのする、近づきやすい青年だということは確かだが、それも一般庶民ではない王子には、いさ さか不適な性格だ。  特にここグラナダにおける王家は絶大な力と威厳という圧力で民を率いてきた国なのだ。王家の人間 とは、一般民衆にとっては神に匹敵する存在なのだ。  その神の息子がウロウロと街中をさまよって戯れて酒を飲み、あげくは子どもたちと泥んこになって かくれんぼですか………。  道行く人にとっては、この王子よりもザインの方が漂わす空気感から高貴な人間と思ったらしく、慌 てて頭を下げて離れていく。 「別にいいでしょう。俺なんて王子っていっても王宮で大事大事に育てられた坊っちゃんじゃないんだ し、ほんの数年前までは当たり前にしてたことをやってるだけだし」 「王子。俺ではありません」 「はいはい」  二人きりになると途端に言葉が崩れるトゥールは、不貞腐れた顔でソファーに身を投げ出して座る。  だがすぐに笑顔に戻って立ち上がると、カーテンが揺れるバルコニーへと出て行く。  幾重にも重なった紗の布を揺らす風は、砂漠の乾いて心地よい風だった。  王子がカーテンを潜ったときに見えたバルコニーには、南国そのもののカラフルな色合いの花が咲き 乱れた植木鉢が幾つも並び、貴重な水を循環させた池でもあるのか、水音がする。どうりで風が冷され ていて、熱にあぶられてきた体には願ってもない涼だった。  この王子も第三王子とはいえ、今まで注目一つ浴びたことのない存在だったのだから、急な環境の変 化を受け入れられていないのかもしれない。  ザインはそう思って、ただ怒るよりも同情を覚えてしまう。それが甘いと言われればそうなのだが。 「は〜い、ザイン。長旅お疲れ様。ぼくが見つけておいた最高においしいお酒だよ」  王子が銀のトレーに水差しとグラス、紫色の液体を讃えたボトルを載せて現れる。  まるで給仕の女中のような振る舞いに、ザインはクラリと眩暈を覚える。  王子の背後からは、本物の侍女やこの旅に随行していた兵士らが慌てて止めようとしている。  が、笑顔であっても強情に自分でやるとトレーを渡さず、しかも部屋とバルコニーを仕切るカーテン の中に入った途端に、王子としてこの部屋に入る許可をおまえたちに与えていないなどと言うのだから、 皆が折り重なるようにしてたたらを踏んで立ち止る。  それをおもしろそうに眺めたトゥールだったが、振り返ったところに岸壁のように立ちはだかるザイ ンの筋肉の盛り上がった体あるのに気付いて、今度は自分が立ち止る。 「王子。もう少し自覚を持っていただかないと。わたしを含め、あの者たちは王子に仕えるという仕事 を持っているのです。そして王子にはそれに受け入れるという勤めがあるのです。王子がそうなさらな いと、わたしどもは仕事を失うのです」  そのザインの説き伏せるような物言いに、トゥールがおもしろくなさそうに顔をしかめる。 「ぼくは人に命令することなんて嫌いなんだ」 「別に好きになっていただかなくとも結構。慣れていただければいいのです。まずは練習でもなさって」  ザインは王子の手からトレーを受け取ると、テーブルの上に置いた。  そしてカーテンの向こうから部屋の中を窺っている侍女の一人を手招きして呼びいれる。 「王子のためにお作りして」 「はい」  仕事が与えられてホッとした顔で、若い娘の侍女がグラスの一つを取る。 「ザインのためにも作って」  さっそく練習しているのか、ソファーに横座りした王子が言う。 「はい」  それにも笑顔で頷いた侍女が、グラスに氷をいれ、紫の液体を水で割り、レモンをと絞りしぼって加 えている。 「どうぞ」  侍女の差し出したグラスを受け取りながら、王子が頷く。  そして同じようにグラスを受け取ったザインが、不思議な匂いのする酒を見下ろした。  炭酸で割ってあるようで、はじける気泡がグラスの表面で跳ね、そのたびに甘い花の匂いを立ち上げ る。 「これはこの地方では貴重なスミレの花から作ったリキュールなんです」  ザインの疑問を感じとった様子で説明する侍女に、ザインが頷く。  笑顔が頬ではじけたかわいらしい娘だった。 「随分と楽しそうだな」  不意にグラスに口をつけながら王子が言う。  振り返った侍女とザインが見れば、別に嫌味でいったわけではなさそうで、不思議そうに侍女を見上 げている。 「はい」  侍女の娘は笑顔で応じて、テーブルの上を拭きながら膝立ちで次の指示を待つ体勢になる。 「ぼくたちの世話をやらされて楽しいの?」 「はい」  侍女は王子という身分の高いものと気安く口を聞いていいものか迷っている様子だったが、「はい」 以外の言葉も求めていそうな王子の様子に、少し困った顔で微笑んだ。 「トゥールさまは、街へ出て壮齢の男性方とお酒を飲むのがお好きでございますよね」 「ん? そうだね。楽しいよ」 「そこでその方々にお酒を振舞ったり、疲れた様子の方の肩を揉むなんてこともなさっておいでとか」  その言葉にピクっと反応したザインに横目を向けたトゥールだったが、無視を決め込んで侍女にだけ 笑って見せる。 「そうなさるのはどうしてでございますか?」  優しい女性の語りであったために素直になれたのか、ザインにはいつも反抗的であるトゥールが上を 見上げて考え込む。 「だって、喜んでもらえたら嬉しいでしょう」  その答えに侍女が嬉しそうに笑う。 「わたくしがトゥールさまにお仕えして嬉しいのも同じです。トゥールさまのお役に立てることが、わ たしの喜びなのです。ですので、どうかわたしたちにその喜びを与えてくださいませ」  結局のところ、ザインにもこの侍女にも同じことを言われる羽目になったと天を仰いだトゥールだっ たが、仕方なく頷く。 「わかった。努力はしてみるよ」  どうやら女性には弱いらしい王子を眺めながら、ザインがこっそりと笑う。  だがそれを見逃す王子ではなかった。  不快げに眉を顰めてそれを見たトゥールだったが、すぐに良い事を思いついたと笑みを浮かべる。た だし、かなり黒い意地の悪い笑みだった。 「ザイン。では王子として命令を与える」 「は。なんでございましょう」  グラスをテーブルに置いてかしこまるザインに、トゥールが告げる。 「クリステリア姫を見つけに旅に出る。それに同行せよ」  それにはすぐに頷けないザインを見て、王子が片眉を上げて御意の言葉を待つ。  そして命令しろと言った手前反論できないザインを罠にはめてやったと笑う。 「………そのまえに、少しお話しておきたいことがございます」  ザインは返事を保留して言うと、王子が鷹揚にうなずく。 「では聞こう。だが、わたしの決意は硬いからな」  取ってつけたような王子らしい物言いに、侍女がクスリと忍び笑いを漏らした。
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