エピソード 5  燃え盛る炎




「イサドラ! イサドラ!!」
 ジュリアとともに立っている部屋の中で、スイレイが叫んだ。
 ジャック・インしたときに現れるはずの本来の空間が、そこにはなかった。
「ねえ、ここ」
 ジュリアも周りを見回しながら、一歩も足を動かすことができずに立ち尽くしていた。
 空間が、不安定にねじ切られようとしているかのように歪む。
 足元の僅か数十センチ四方を除く全てが、暗い未知の宇宙にあるというブラックホールの口のように
迫っていた。
「イサドラ!!」
 もう一度スイレイが叫ぶが、いつもはすぐに姿を現して不満を言うイサドラの姿がなかった。
「なにこれ?」
 体をかため、首だけをめぐらせて言うジュリアに、スイレイが分からないと首を振る。
 スイレイは自分の目の前にプログラムをチェックするモニターを開く。
「イサドラ、いったいどこにいる」
 口の中で苛立つ思いで呟きながら、スクロールする画面を瞬きも忘れて凝視する。
 黒い画面の上を舐めるように進む白い文字が、スイレイの瞳の上をも滑っていく。
 その目がスクロールを止めると、大きく開かれる。
「ハッキングされてる………」
「ハッキング? どうして! ハードディスクは研究所なんでしょ? いったい誰が……」
 青白い顔で言ったジュリアの目の前にも、スイレイがモニターを出現させると、自分が見ているのと
同じ画面を開いて見せた。
 そして問題の部分に丸印をつける。
「……レイチェル……」
 読んだジュリアの目がスイレイに向けられ、その意味を探るように見つめる。
「レイチェルって誰?」
「ぼくは知らない。でも、この名前に心当たりがあるだろ?」
「……まさか、わたしのママだっていうの?」
 どこか怒りさえもこもったその目に、スイレイは目をそらすと「分からない」と首を振る。
「でもありえる話かもしれない。〈エデン〉という地にかつて愛して忘れることのできない相手を再現
させる」
「……お父さんが?」
「可能性の話だ。それに、イサドラをハッキングするほどの、つまりぼくたち以上の権限を持っている
のは、ジャスティスさんと父さんだけだから」
「………」
 二人はその続きを口にできないままに沈黙した。
 だがお互いの頭の中にあるのは同じ考えであることは分かっていた。ただ認めたくはないだけだった。
 この〈エデン〉でのバイオハザードを起したのは、ジャスティスなのではないか?
 そして今、この地でハッキング戦をしかけているレイチェルも、ジャスティスの指示の元に動いてい
るのではないか?
 気まずくうつむいた二人の間にローズマリーが現れる。
 初めて行ったジャック・インに、さしもの鉄面皮も動揺してスイレイを見る。
「何なのここは?!」
「〈エデン〉自体が不安定な様相を呈しているようです。〈エデン〉を管理しているイサドラがレイチ
ェルと名乗るものによってハッキングされているせいです」
「レイチェル?」
 ローズマリーの顔がしかめられ、それから一瞬ジュリアを見たが、気持ちを入れ替えたようにいつも
の冷たい表情を作るとスイレイを見た。
「それで? きちんと〈エデン〉にジャック・インできるの?」
「できますよ。ただ……」
「ただ?」
 ローズマリーはスイレイに先を促がす。
「イサドラの補助をなしにぼくがジャック・インを手動で行うと、正確な座標まではコントロールでき
ないので、どこに落ちるのか分からないんです。つまり、全員、〈エデン〉の中でバラバラになる可能
性が高い」
 〈エデン〉の構造をある程度熟知しているスイレイとジュリアでも、〈エデン〉の隅から隅までを知
り尽くしているわけではない。ましてやローズマリーには未踏の地だ。迷子になってしまうかもしれな
い。そればかりでなく、今の〈エデン〉にはなにが待ち受けているのか分からないのだ。
「それでも〈エデン〉に入れるのなら、やるしかない」
 たいした問題ではないと言い切るローズマリーが命令する。
「さっさとわたしを〈エデン〉に入れて」
 その気迫に圧されるように、スイレイが言葉はなしに頷く。
「〈エデン〉内での連絡はイサドラが復旧しないととれません。だから、無理はしないで。それから、
これはおそらくですが、もし大怪我などをした場合には即時ジャック・アウトをしないと危険です。
〈エデン〉で起こったことは現実の体にも影響を及ぼす。つまり、死を迎えた場合」
「現実の自分の体も死ぬかもしれない」
 ローズマリーは自分でスイレイの言葉の後を継いで言うと、肩をすくめて頷く。
「それで結構よ。さっさとして」
 強がりなのか、緊張なのか、幾分いつもより白い顔でまっすぐと前を見据えたローズマリーに、スイ
レイがデーターを入力する。
「また後で会いましょう」
 スイレイの言葉の直後、ローズマリーの体が消える。
「ジュリアは?」
 それまでのやりとりを黙って聞いていたジュリアも、スイレイの視線の先でゆっくりと頷く。
「わたしが行かないと、お父さんを救えないじゃない。……それに、こんなことをしているのがわたし
の父さんとお母さんなら………、それを止められるのは、わたししかいない」
 それぞれの決意を胸に受けながら、スイレイがうなずくと、ジュリアも〈エデン〉の中にジャック・
インさせる。
 そして自分にも、なにが起ころうともペルを救い出す決意があることを確認し、〈エデン〉へとジャ
ック・インしていった。



 スイレイが目を開けた瞬間に見たものは、燃え盛る業火だった。
 目の前で火の粉を巻き上げ、荒れ狂う風を巻き起こしながら、夜空を茜色に染めて家が燃えていた。
 今目にしているものが何なのかを悟ったのは、足元に転がってきた小さなバケツを目にしたときだっ
た。
 ペルが水まきに使っていたブリキのバケツが、黒く煤けながら転がる。
 それを手の取り、ここが自分たちが過ごした家であることを悟った瞬間、スイレイは火の燃え盛る家
へと走り出した。
「ペル!! ペルいるのか!!」
 火の粉が頬を焼き、髪がチリチリと音を立てるのにも構わず、ただ痛みを与えるほどの炎に向かって
走る。
 そのスイレイの腕を掴んで止めたのは、ローズマリーだった。
 赤い炎の照らされて、その瞳の中にも炎を宿したローズマリーが、必死の形相で走り出そうとするス
イレイに首をふる。
「ここにはいない。ペルはちゃんとどこかに避難しているから」
「どうしてそんなことがわかる!」
 湧き上がる涙さえ炎の熱に蒸発させられる中で、スイレイが叫ぶ。
 そのスイレイの腕を引き、ローズマリーが一本の木の前まで引きずっていく。
 その幹にダーツの矢で縫いとめられ、はためく一枚の紙があった。
 その紙を破り取ったローズマリーが、それをスイレイの手の中に握らせる。
 熱に煽られカサカサになった紙。
「読んで」
 スイレイはギュッと自分の腕を握るローズマリーを見ながら、その紙を開く。
 そしてそこにある文章に、ギュッとその紙を握りつぶした。
 砕けてしまうかと思うほどに乾いた紙が、クシャクシャに潰される。
「この世界にいるというジャスティスの狙いは、ジュリア。そして、ペルがおなかに宿している子ども
なのね」
「くそ!!」
 スイレイは爪が手の平に食い込むほどに拳を握り、呪いの言葉を残した紙を投げ捨てた。
 風に煽られた紙が舞い上がり、飛んできた火の粉に触れて燃え上がる。
「ワクチンは、ペルのおなかの中の子どもからしか採れない。……罪は巡る」
 ローズマリーは燃え盛る家を見つめて呟いた。
 その目の中に、はじめて苦しみに悶える色が現れていた。



 

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