第五章 激流の翻弄される力なき一振りの枝
研究所の中央コントロールルームの中に、コンピューターのキーを叩く音が響く。
その音を、ローズマリーとジュリアが所在なげに聞いていた。
コントロールルームにはジャスティスのIDで入ることができたが、いつこの情報をカルロスが掴む
かがわからない。
幻聴のように耳の奥に今にも踏み込んでくる男たちの足音が聞こえてくる気がして、苛立ちばかりが
募る。
―― ローズマリーを登録
コンピューターの音声が告げる。
「ローズマリー、セキュリティーデーターを登録する。自分の好きなパスワードと、声紋、網膜、指の
静脈パターンを登録して」
振り向いたスイレイに手招きされ、ローズマリーが頷く。
だがその瞬間に、ジュリアが待ってと告げるとガラス張りのドアの外を示して唇に指を立てた。
全員が動きを止めて外の音に注意を集中する。
聞こえてきたのは足音。
足早に硬質な床を叩く靴音が聞こえる。
どうする?
三人の目がスイレイに集中する。
スイレイはジュリアとローズマリーに壁側に身を隠すように指示を出すと、自分はコントロールルー
ムの入り口を開けて外へ出ようとした。
果たしてそこに現れたのは父カルロス。
今しもコントロールルームを出ようとしていたことを装ったスイレイに、カルロスが足を止める。
「おまえ……」
予想外の人物の登場に、さしものカルロスも憤怒の表情をおかしな動きで緩めながら絶句する。
「父さん」
スイレイは幾分固くなる声を押し殺しながら、立ち尽くす父に近づくとその体に腕を回した。
「なぜおまえがここに」
「知らせたら仕事の邪魔になると思って。実はバイオハザードの警報が出たときに研究所の中にいたん
だ。ここに用があって。いつも通り父さんのID借りて入ろうと思ってたんだ。そしたらこんなことに
なって」
父の胸から離れると、スイレイは探るように自分を見る父の目を見つめた。
「で、今はなぜジャスティスのIDを?」
「わけも分からないうちに研究員と一緒に隔離されちゃったんだ。それで流れてくる噂でカイルが死ん
だことやジャスティスさんが感染したことを知っって。それでいてもたっていられなくなって研究所の
中をうろうろしてたらローズマリーに会った。それで、ジャスティスさんに会わせてもらった」
「ジャスティスに会った?」
父の顔に浮んだ眉間の皺に、スイレイが慌てた様子で手を顔の前で振る。
「大丈夫だよ。防護服着て会った。で、ここにいた理由を話したら、なにもしないで不安でいるよりは、
やることがあるのはいいことだって」
そう言ってカルロスにジャスティスのIDをかざしてみせる。
「……いけなかったかな?」
申し訳なさそうに言えば、父の顔が平常心を装っていつもの顔で首を振る。
「いや、別に悪いことじゃない。まあ、ジャスティスのIDを使うってのはどうかと思うけどな。でも
いつもはおまえにわたしのIDを使わせたわけだから、わたしも責めることができる身分じゃないしな」
カルロスが笑ってみせる。
「……ありがとう」
スイレイも父に笑いかける。だがすぐにその顔を悲痛な色が覆う。
「ところで、バイオハザードの原因究明とか、病気への対処法とかってみつかったの?」
スイレイの問いかけに、カルロスも無念の顔で目を閉じると首を横に振る。
「そっか」
「……おまえがここにいることは心配の種の一つだが。ここから離れないで動き回らないでいてくれれ
ば、わたしの心配も一つ軽減される」
「ここに? ここは安全?」
「ああ。ここは最高のセキュリティーと空気の清浄化が行われている区画だ」
肩を握られ、スイレイは納得した顔で頷く。
「わかった。ぼくが何かできるわけじゃないし。ここにおとなしく隠れてるよ」
「そうしろ」
カルロスはそう言ってスイレイに向かって手を出した。
「何?」
「ジャスティスのIDを返せ。コントロールルームに入るのは、今わたしがやってやるから」
その言葉に、一瞬スイレイの反応が遅れる。
「何か問題が?」
「いや、ないけど」
いや、大有りだ。フェイがやってきてもここに入ることができなくなる。
カルロスとしては、勝手に出入りができないところに閉じ込めて安心したいのだろうが。
言い訳が見つからないままに、ジャスティスのIDがカルロスの手の上に乗せられる。
「じゃあ、全部済んで無事解決したら迎えに来てやるから」
「ぼくを閉じ込めたまま忘れちゃわないでよ。こんなところで餓死なんて冗談じゃないから」
「ああ、大事な息子を忘れる父親はいないよ」
カルロスがコントロールルームのドアを開錠しながら、スイレイを抱きしめ、その頭にキスをした。
父のぬくもりが、スイレイを包む。
ガラス張りのドアの中に入り、閉められたドアの向こうで手を振って去っていく父に、スイレイも手
を上げて見送る。
「大事な息子か。………本当に息子? それとも、大事なモルモット?」
つぶやいたスイレイの隣りに、ジュリアが立つ。
「スイレイ」
ジュリアがスイレイの手を握る。
その手を見下ろしながら、スイレイはただ頷いた。
「フェイおじさんはどうするの?」
ジュリアの問いに、スイレイはただ首を横に振ることしか出来なかった。
このコントロールルームに入れるIDはカルロスかジャスティスのもののみ。
それが今手元にない以上、たとえここまで来れたところで入ることはできない。
「そっか」
ジュリアもそんなスイレイを責めるでもなく、仕方ないよねと頷き、目を逸らす。
「とりあえずわたしたちが〈エデン〉に入ることが先決だし」
「……そうだな」
頷いたスイレイはリュックの中からジャックを取り出すと、一つをジュリアに、もう一つをローズマ
リーに渡した」
「これを。接続のための手術は受けてるんですよね」
「ええ」
ローズマリーはジャックを手にすると、いつも目にしてるとは言っても、自分に使用することへの嫌
悪感を露わにした顔で眺める。
「別に痛くないわよ」
それを感じ取って先にジャックをこめかみに挿しながら、ジュリアが言う。
「別に痛そうだから嫌ってわけじゃないわ」
「あなたでも苦手なものがあるんだ」
スイレイもおもしろい見物だというように眉を上げて言う。
そんな皮肉な表情に、ローズマリーがおもしろくなさそうに鼻を鳴らす。
「ぼくたちは準備万端ですけど」
並んで立ったスイレイとジュリアに見つめられ、ローズマリーはジャックをケースから取り出し手の
中で転がす。
「慣れない人が先に行った方がいいと思うんですけど」
お先にどうぞと手で示すスイレイに、ローズマリーは頷いたものの躊躇するように言う。
「あなたたちが先に行ってくれる?」
「…………」
明らかにジャック・インする気があるのかという疑いの目で見られ、ローズマリーが大きくため息を
つく。
「………フェイに………話があるのよ」
そっぽを向いて言われた言葉に、ジュリアがスイレイを見上げて破顔する。
「スイレイ、先に行ってよう。……昔の恋人同士、聞かれたくない話でもあるんでしょ」
小声で言った言葉も、ローズマリーの耳に届くには十分な声だった。
ギロっと睨まれ、ジュリアが肩をすくめて見せる。
「じゃあ、お先」
ジュリアはそう言うと、さっさとジャック・インしてコンピューターのコンソールに揺りかかって意
識を喪失する。
「じゃあ、ぼくも先に行ってますけど、待つのは10分だけですよ」
スイレイにローズマリーは目を合わせないままに頷いてみせる。
そしてジュリアと同じように目を閉じ、眠ったように脱力したスイレイに、ローズマリーが固めてい
た表情を崩した。
その瞬間を見計らっていたかのように、フェイがコントロールルームのガラスのドアを叩いた。
ローズマリーはそのドアの前に立つ。
「ここのIDがカルロスに持っていかれてしまって、あなたはこの中に入れないの」
うつむいて視線を合わせないままに、ローズマリーが言う。
そして上目遣いで見上げた何十年ぶりかの恋人の顔に、わずかに笑みを浮かべる。
「年取ったわね」
不意に言われ、フェイは面食らった顔をしたが、ガラスに手を付くと顔をしかめてみせる。
「それはお互い様だ。……でも、……きみは昔と変わらずにキレイだよ」
そう言って微笑んだフェイに、ローズマリーが冗談でしょとふて腐れた顔で横を向く。
「………今さらだけど、あなたには悪いことをしたわ。自分の我ままに巻き込んで不幸にした」
ローズマリーは唐突に謝罪の言葉を口にすると、口の端に笑みを浮かべた。
「本当にいまさらだけど」
「ローズマリー」
そんなローズマリーにフェイが声をかける。
そして目を向けた先にあった熱い視線に、ローズマリーは声もなく見入った。
「……今でも愛してる」
「…………ありがとう」
ローズマリーはガラスのドアのフェイの手の平に、自分の手を重ねる。
冷たく硬いガラスの感触を間にはさみ、その向こうにフェイの温度を探す。
「あなたも、……なかなかしつこい男ね」
見つめあったままに呟かれた言葉に、フェイが笑う。
「ああ。だから、おまえが〈エデン〉から帰ってくるのも待っていてやる。だから……」
「ええ。ちゃんと戻ってくるから」
ローズマリーがガラスのドアに額をつける。
「帰ってくるから、待っていてね」
「ずっと待ってる」
ローズマリーはフェイのいるガラスのドアの前にしゃがみこむと、ジャック・インのジャックをこめ
かみに挿した。
「じゃあ、行ってくるね」
「気をつけて」
ローズマリーが床の上に崩れる。
それを見つめながら、フェイは自分が何も出来ない歯がゆさを何十年か前と同じように味わいながら、
立っていた。
あのときは逃げた。自分の価値を見失う恐怖に耐え切れずに。
だが、今度は最後まで立ち会おうと決意していた。
たとえそれが、思い描いたような幸せな結末ではないのだとしても。
「みんな無事に戻って来い」
ただ沈黙して足踏みするほどに遅い時間の流れに身をゆだね、フェイはただ願った。
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