第六章  新たなる命の行方


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 あまりに激しい痛みに飛び起きる。
 耳に入ってくるのは自分の口から出るとは思えないうめき声だった。
 顔中に汗の玉が浮び、髪が束になって顔に張り付いていた。
 自分の体を覆っているのは水色の術衣で、手足は拘束具に縛られていた。
 何が自分の身に起こったのかを思い出そうと荒い息をつきながら、辺りを見回す。
 腕につながれた点滴と心電図をとっているモニターのあげる甲高い音。
 その横からジャスティスがファイルを開きながら現れる。
 いつもなら安心感と愛情を感じたはずのその顔が、今は恐ろしい悪魔を見たように体の芯が縮み上が
る。
「目を覚ましたかね。もう陣痛の感覚が二分感覚だから」
 腕時計を見たままにジャスティスがペルの腹に手を当てる。
 そしてジャスティスがペルに目を向けて笑顔をむけた瞬間、再び襲った強烈な痛みに悲鳴ににた苦鳴
りが口からでる。
 自分の体の一部であるのが不思議なほどに、自分の腹が硬く固まっていく。
「そんなことで音をあげていては赤ちゃんは出てこないよ。……と、看護師たちがよく妊婦に言ってい
るのは聞いていたけどね、男のぼくが言うことじゃないね。しかも産婦人科医じゃない」
 顔を見ている限りにおいて、そこにいるのはよく知る優しい叔父ジャスティスに見えた。だがその目
の奥にあるのは、あの温かみのある愛情ではなく、黒い暴風にも似た狂気だった。その狂気は全てを打
ち壊す嵐を生み出す。
「わたしの赤ちゃんをどうするつもり」
「もちろん元気に生ませてあげるよ」
 ジャスティスは笑顔で眉を上げてみせると、ペルの横にイスを引いて座った。
「ただちょっと赤ちゃんを貸してもらいたいだけだ」
「何に?」
 それには答えずに、ジャスティスはただ笑ってみせる。
「これを説明するには、少し時間が必要だ。だけど君とぼくには、そうだな。まだ30分くらいの時間
はある。その間君が痛みに耐えて聞いていられればだけど、聞きたいというなら話して上げよう」
 ジャスティスは汗で濡れたペルの前髪を額からかき上げて撫でる。
「ぼくは、君の知っているジャスティスであって、そうじゃない。君にとっての本物の叔父さんである
ジャスティスが、ジュリアを救うために作ったのがこの研究所だ」
「ジュリアのため?」
 子どもをあやすように髪を撫で続けながら、ジャスティスがうなずく。
「ペル、君はこうして実の兄との子どもという罪を犯してでも、子どもを産むことができる。だがジュ
リアは? あの子は子どもを産むことができない。もちろんそんなことが彼女の価値を下げるものでは
ないが、本人が酷く気にしている」
 ペルはただ言葉をつむぐことができずに口を閉ざした。
 自分のしたことが、ジュリアを裏切る行為であることは分かっていたが、さらに子どもを産めないと
いう屈辱を味合わせる行為であることに改めに思い至る。こうしている自分の姿をみたら、ジュリアは
どう思うのだろう。許してもらうことできないだろうと、ずっと言い聞かせていたことだったが、それ
でも胸にナイフが突き刺されたような痛みが走る。
「わたしはジャスティスにこの研究所で卵巣を再生させることが仕事して与えられた。彼の知識、技術、
そして家族への愛全てを与えらて。だからわたしは、誠心誠意尽くしたよ。ジュリアを本当に自分の娘
として愛していたからこそ、力を尽くして、彼女に会える日だけを夢みてね」
 遠く幸せな日を夢見るような目で語る。
「その間の寂しい日々は、動物の世話なんかをしながら紛らわせていた。ぼくのお気に入りは小さな子
猿でね。とても賢いんだ。ぼくが飼育室に現れれば甘えたくて大騒ぎ。檻を開けてあげればすぐにぼく
の腕に飛び乗って肩で眠るんだ。頭の毛が白い子でね」
 そこでペルを見たジャスティスが、探るように見つめる。
「そんな子猿に見覚えは?」
「………」
 ペルはジャスティスが言おうとしていることを悟って、ごくっと喉をならした。
 ペルが何度か目にしていた猿だろう。紅い花の咲き乱れる森の中で会い、そしてつい最近には死体と
なって浮んでいたのを見たはずだ。
「かわいそうにね。あの子は病気になってしまった。しかも運が悪いことに伝染性の性質の悪い病気だ
った」
 ジャスティスは足元から何かを掲げてみせる。
 その中にあるものに気づき、ペルは慌てて目を逸らした。
 鳥かごのような白いカゴをビニールで覆っていたが、その中にあるのは明らかに死んだ子猿だった
。黒く変色して汚れたその肉の塊は、たしかに魂がないものに変わっていることが痛いほどに感じられ
た。理不尽に感じるほどに。
「脱走して外を遊びまわる悪い子だったんだけど、それがまた天真爛漫でかわいらしかったんだ。でも、
ある日気がつくと尻尾が千切れてなくなっていた。何かの動物に襲われたのかと思っていたんだ。その
ときは。それが、ある日、凄まじい悲鳴を上げて発病した。両目を両手で覆って血を垂れ流しながらね。
眼球が破裂していた」
 その様子を想像して、ペルが青い顔で息を飲む。
「何が起きたのか分からなかった。いったいどんな病気にかかってこんな症状を起すのか。そう思い悩
んでいるうちに、同じ飼育室にいた動物が次々に同じ症状を呈し始めた」
 ジャスティスがカゴを下ろして姿勢を正すとペルを見下ろした。
「ちょうどこんな風になるんだ」
 笑顔のままで言うジャスティスに、ペルはただ言葉もなくその顔を凝視した。
 だが次の瞬間、笑顔だったジャスティスの顔が苦痛に眉間に皺が深くよる。
 見開かれていた左目が、震えだす。
「あ、あ、……やめて。そんなの見たくない」
 何が起ころうとしているのかを感づき、ペルは拘束具の中でもがき逃げようとした。
 だがその体を押さえ込み、ジャスティスがペルの前に顔を寄せる。
「見ていろ!」
 怒鳴り声とともに、左の眼球が針で突かれたかのように瞳孔を収縮させる。
 そしてジャスティスのうめき声とともに、その丸い眼球をが破裂する。
「きゃあぁぁぁぁぁぁ!!」
 自分の胸の上に撒き散らされる血と透明な液体に、ペルは狂ったように悲鳴を上げた。
 ジャスティスの眼窩から大きな眼球が力なく垂れ下がる。
「そんなに気味悪がることないだろう。誰にも目玉は二つあるんだから」
 叫び続けるペルの顔に自分の顔を近づけ、ジャスティスがささやく。
 ペルは目をそらすこともできずに目を見開き、悲鳴を上げながらもがくだけだった。
 ジャスティスはそんなペルを見ることで満足したように笑うと、その左目を片手で覆った。
 そしてその手を外した。
 そこには、正常な眼球が埋まっていた。
 ペルと同じ穏かな秋の日を思い描かせる茶色の瞳が。
 ペルは悲鳴を上げ続けながら、自分の胸を見下ろした。
 そこには確かにジャスティスの眼球から噴き出した血と体液が溜まっていた。
 だが目を上げれば、正常なジャスティスの顔が笑いかけ、手品を成功させた道化師のように両手を開
いてみせる。
「わたしも感染してしまったらしいんだ。わたしはこの〈エデン〉で生きるプログラムだからいつでも
自分の体を構築しなおせる。永遠に生きていられるんだよ。でもいささかこの感染状態で生活をつづけ
ることは苦痛でね」
 ペルは悲鳴を止めると、胸を激しく上下させながら息をつきジャスティスをにらみつけた。
「そんな永遠の命の持ち主がなぜわたしの子どもに何の用があるの?」
「永遠に生きることが最高の贈り物であるのは、幸福が約束された地であるからであって、こんなバイ
オハザードで死に塗れた世界で生きることではない。わたしはレイチェルと、ジュリアと、ここで幸せ
に暮らしたいだけだ。この病気の恐怖から解放されて。ジュリアのことも守らなければならない。その
ためには、ワクチンとなる抗体をもつ血液が必要なんだ」
「……わたしの赤ちゃんにその抗体が?」
「だからおまえは感染していない」
 ジャスティスは立ち上がるとレイチェルを呼ぶ。
 そして時計を見ながら何かを告げる。
 ジャスティスの口から「そろそろ」という言葉が聞こえる。
 ペルは何とか逃げ出すことはできないのかと、自分の腕と足を見るが、しっかりと回されたベルトに
引いても抜ける気配はなかった。
 その瞬間に、再び襲った激しい痛みにベルトを引き攣らせながら叫び声を上げる。
 そして同時に足元を伝わった生暖かい液体が音を立てて流れ落ちる。
「破水したな」
 レイチェルがペルの足元にしゃがみこむと、ペルの不安そうな顔に笑顔を見せる。
「大丈夫。お手伝いはわたしがするから」
 何の罪悪感もない純粋な笑顔に、だがペルは「あんたなんか信用できないのよ!」と叫び出したい衝
動と戦っていた。
 だが破水して絶え間なく襲う痛みに悲鳴を上げ続ける身で逃げるなど、とてもできることではなかっ
た。
 レイチェルの指が自分の中に入るのに涙をながしながら耐える。
「もう子宮口は全開。もう生まれるわ」
 レイチェルはそう告げると、何を思ったのか、ジャスティスにペルの頭の方に立ってと指示を出す。
「ペルの手を握ってあげて」
「それは夫の役目だろう」
「でもここに適役そうな人間はあなたしかいないのだから」
「だったら、ぼくがやっぱり生まれてくる子の父親になってやろうかな」
 意地悪く言ってペルを見下ろしながら、ベルトで拘束されている両手を握ってやる。
 ペルはそれを自分の意地で退けようとしたが、駄々っ子を宥めるように両手をふるうその手を捕まえ
ると、ジャスティスはベットの上にその両手を押し付けた。
「どんな手でも掴まっておけ。息むには必要だ。ぼくもジュリアが生まれるときに立ち会った経験があ
るから言ってるんだ」
「それはジャスティスさんの経験であって、あなたのじゃない!」
 痛みの合間に憎まれ口を叩けば、ジャスティスが酷薄な笑みを浮かべる。
「それだけの元気があれば、悲鳴一つ上げずに産んでみろ」
 余裕の口調で言うジャスティスを見上げ、ペルは涙目で睨みつける。
 だが腰を砕くような痛みに、その目に込めた力はすぐに苦痛にしかめられてしまう。
 このままここで子どもを産んでしまえば、確実にその子どもを奪われてしまう。
 こんな風に利用されるために、今まで〈エデン〉でこの子たちを育ててきたわけじゃない。この子た
ちはわたしとスイレイの溢れんばかりの愛情を注いで、この10ヶ月間お腹の中で育ててきたのだ。
 ペルは涙を浮かべた目でレイチェルとジャスティスを見ながら、なんとか息を外に漏らそうと喘ぐよ
うに息をつく。
「だめ、ちゃんと息んで!」
 レイチェルがペルに呼びかけるが、いやいやとするように首を横に振り、ペルが冷や汗を浮かべなが
ら声を上げる。
 そんなペルを上から見下ろしたジャスティスが、その顔を両手で力を込めて掴む。
「おまえは自分の子どもを殺すつもりか!」
 激しい恫喝の声に、ペルが悲鳴を上げながら涙を流す。
「破水したんだ。わかるか? 今胎児は無酸素の一番苦しいときにいるんだ。おまえが無駄に抵抗すれ
ばするほど、子どもが苦しむんだぞ!」
 そんなことはペルにも分かっていた。
 でも生んでしまえば、ジャスティスに子どもを奪われ、血を抜かれ、どんな実験に使われるか分かっ
たものではない。
「それでも、イヤーーーー!!」
 泣き叫ぶペルに、ジャスティスは苛立たしげな舌打ちをする。
 そして投げつけるようにペルの頭をベットに押し付けると、枕もとを離れてペルの腹の横に立った。
「だったら力ずくでだしてやる」
 恐怖に目を見開いたペルを見もせずに、ジャスティスがペルの腹を上から体重をかけて押した。
「イヤーーーー!! やめて!!」
 だが逃げ場もなく強制的に込められる力に抵抗のしようもなく、体に力が入っていく。
「ほら、もう頭が見えてきたわよ」
 愛情の欠片もないジャスティスの向こうで、レイチェルだけが一人生まれ来る命を心から喜んで迎え
ようとしているかのように励ましてくれる。
 もう、ダメ!
 ペルは体を突き抜ける痛みと外に出てこようとする子どもの力に負けて、息を止めて力を込める。
 力の限りに息んだ次の瞬間に、元気のいい泣き声が響く。
「……生まれた。男の子」
一時の休息に息をついたペルは、顔を上げ、レイチェルが抱き上げている子どもを見た。
 皮脂と血に塗れてはいたが、ギュッと握った手を元気に振って泣く姿が、何よりも嬉しかった。
「どれ、わたしにも見せろ」
 まるで自分の子どものように抱き上げた生まれたばかりの子どもを、ジャスティスが満面の笑みで見
下ろす。
「この子が、わたしの希望の星」
 丁寧にガーゼで口の中や顔を拭ってやる姿は、本当に愛情に溢れた父親のようですらあった。
 だがそんな愛しいものを見る目つきのままに、レイチェルに何かを支持する。
 そしてレイチェルもさも当たり前のように、銀のトレーから取上げたものをジャスティスに手渡す。
 それは生まれたばかりの子どもに使うとは思えない鋭い注射器だった。何本もの血液を採取すべく採
血管が並んでいた。
「やめて!!」
 ベットの上で拘束された手を必死に子どもを掴もうと伸ばす。
 そんなペルをジャスティスは横目で見ると、おぞましいものを見下ろすように見た。
「子どもに罪はない。だが、実はわたしはおまえが嫌いなんだ」
 愉悦に満ちた口調で目を見開くペルを、ジャスティスが見る。
「なによりおまえは常にわたしや姉さんの災厄の元だった。おまえのせいで姉さんはフェイとの婚約を
破棄しなければならなくなり、あげくの果てには何も知らないとはいえのうのうとレイリの元で暮らし
ていた。それがどんなに彼女を苦しめることなのかも知らずに。そして、今度はスイレイと近親相姦だ。
災厄そのものではないか」
 ジャスティスは衝撃に声も出ないペルに、注射針を見せ付けるかのように構えてみせる。
「だいたい知っていたか? おまえのペルという名前。変だと思わないか? 犬に付ける名前みたいだ
って。その通りなんだからしょうがないよな。おまえの名前は、わたしと姉さんが飼っていた犬の名前
なんだからな。所詮、姉さんのおまえへの愛情もそんなものだということだよ。犬の名前をつけてやる
程度のな」
 押さえつけられむずがる子どもの腕を掴み、ジャスティスが針をつきたてようとした。
「ダメーーー!!」
 腕に血が滲むほどに拘束帯を引き、ペルが手を伸ばした。
 キラリと光る針の切れそうな先端と、泣き声を上げ続ける赤子の白い肌。
 その瞬間に、ジャスティスの動きが止まった。
 不自然に静止した体の中で、目だけが驚きの中で見開かれる。
「偽者のジャスティスが、いいように人の過去を解釈してくれてるじゃない?」
 突然に降って湧いたように、ローズマリーの声がした。





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